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選ぶべき正しさとは 5


「何だ、知り合いかい?」


 テオドールと青年の様子に気が付いたミレーナが、そっとシェリアを自分の方に引き寄せた。彼女のすぐ傍にカディアンが身体を寄せる。ふたりの間に挟まれたシェリアは、少しばかり困惑気味だ。


 テオドールは少々迷ってから「いいや……」と否定を挟んだ。知り合いと言えるような間柄ではない。言葉も交わしたわけではなかったからだ。


「カラジュムで見かけたように思っただけだ」


 テオドールが敢えて街の名前を出すと、青年は僅かに眉をぴくりと釣り上げた。


「へえ? ……ナルサス。アンタ、あんなとこまで行ってたの?」


 ミレーナが緩やかに首を傾げると、青年はやっとテオドールから視線を外した。

 ナルサスと呼ばれた褐色肌の青年は、「野暮用で」と低い声で素っ気なく答えた。船に乗っている大半の、闊達そうな男達とは違った印象だ。


 ナルサスはひとしきり、半ば無遠慮ともいえる視線をシェリアに向けた。

 そして、ついでのようにカディアンを、次にテオドールを見遣ってから、ミレーナへと視線を戻す。


「ミレーナさんのお客ですか」

「そうさ。そこのでっかいのがテオドール、こっちがカディアン、この可愛い子がシェリアだ」


 ナルサスの低い声に対して、ミレーナはさっぱりとした調子で言い返した。

 何もやましいことなどない。隠すことも隠れることも何もない。

 まるで、シェリアにそう言い聞かせているかのようだと、テオドールは感じた。


「客といっても、私が招いた客でね。だから、商売は勘弁してやってくれない?」


 緩く手を揺らして笑うミレーナに対して、ナルサスはぴくりとも頬を動かさない。

 ひどく無愛想なその青年が、あまりにもシェリアをみるものだから、カディアンが少しばかり彼女の前に出た。


「……分かってます」

「それなら良かった。じゃ、またあとでね」

「はい」


 シェリアの手を引いて歩き出したミレーナに続いて、カディアンも歩き出した。

 しかし、カディアンはやはり青年を気にしている様子だ。

 甲板へと戻るミレーナ達を眺めたテオドールは、船首に向かうらしい青年を振り返った。


 青年は立ち止まって、じっとこちらを──いや、シェリアの方を見つめているようだ。テオドールは軽く眉を寄せると、すぐにミレーナ達の後を追った。


「──さっきのはナルサス。ちょっと変わってるけど、悪い奴じゃないんだ。いや、愛想は悪いけどね」


 テオドールが合流したタイミングで、ミレーナが口を開いた。

 確かに愛想はなかったな、とテオドールは肩越しに背後を振り返る。

 もう既に青年の姿はなかったが、少しばかり引っ掛かりは残った。

 看板へと戻れば、一気に賑やかさが周囲を包み込む。だが、さきほどよりは人が減っていた。


「さーて、私はそろそろ仕事に戻るよ。ありがとね、いい気分転換になったよ」

「いえ、あの……その、私たちこそ、ありがとうございます」

「シェリア、カタイカタイ。もっとテキトーでいいんだよ、テキトーでさ」


 ゆっくりとシェリアの手を離したミレーナは、ぐぐーっと伸びをした。

 それから、テオドールの肩をパシンッと軽快に叩いてみせる。

 突然の打撃に驚きはしたものの、テオドールは別に声を上げるでもよろけるでもない。


「あとは好きにしてていいよ。そろそろ出航だからね」

「……ああ。色々とすまない」

「アンタもカタイよねぇ……じゃ、カディアン。ふたりを任せたよ」

「へ? ……あ、は、はい!」


 突然の指名にカディアンは間の抜けた声を漏らしたあと、ハッとして大きな頷きと共に大きな声を返した。ひらりと手を振って積み荷へと近づいていったミレーナの傍に、荷物を弄っていた数人がわらわらと寄っていく。

 やはり忙しい身なのだろう。それでも時間を割いてくれたのだろうから、ありがたい限りだ。


「すごい人だよなぁー」


 カディアンが感心したように言う。

 元々すごい人だとは思っていたものの、人格的にすごいとまでは思わなかった。


「……うん。本当に」


 静かに頷いて同意を示したシェリアは、ふと傍らのテオドールを見上げた。

 テオドールはどこを見るでもなく、何か思案げにしている。


「……テオ?」

「……ん。ああ、なんだ?」

「ううん。……どうかしたの?」

「……いや。……何でもない」


 歯切れの悪いテオドールの様子に、シェリアは少し不安になった。

 何かあったのだろうか。それなら、言ってくれたらいいのに。

 自分にだって、もしかしたら何かできるかもしれないのに。


 眉を下げたシェリアを見下ろしたテオドールは、緩やかに息を吐いた。

 やはり先ほどの青年が気がかりだった。

 だが、その小さな引っ掛かりを彼女に伝えて、わざわざ不安要素を増やす必要もない。何もないのであれば、それで構わないのだ。

 それに先ほどの様子なら、この船で何かしてくることはないだろう。ない、と思いたい。


「……」


 やはり確かめた方がいいか。

 そう判断したテオドールはシェリアとカディアンに向かって「少し歩いてくる」とだけ言って踵を返した。


「あ、テオ……」


 シェリアは不安そうにテオドールを呼ぶ。

 しかし、何やら考え込んでいるらしい彼はさっさと船首へと向かってしまった。

 背の高いテオドールの一歩は大きくて、あっという間に距離が離れていく。


 シェリアもまた、先ほどの青年が気になっていた──いや、正確には青年を見たテオドールの反応を気にしていた。

 何かあったのかもしれない。なのに、どうして何も言ってくれないのか。


「……シェリア。テオドールは船酔いしたのかもよ。情けないとこを見せたくないんだよ」


 不安を募らせている様子のシェリアに、カディアンはそっと囁いた。

 まだ船は動き出していないものの、潮風と波の揺らぎは確かに感じられる。

 小さく頷いたシェリアを連れて、カディアンは波が見える方へと足を向けた。

 少しでも気晴らしになればいいと思ったからだ。


 タラップが引き上げられて、いよいよ海に出る準備が整う。

 船が動き始めると、潮風が強さを増した気がした。

 これまで進んできた大陸を海側から遡り、ネリネの港まで戻ればカラジュムに辿り着く。


 それでいいのか。カディアンは迷うような視線を彼女に向けた。

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