翌日の早朝。
朝日に輝く海に浮かんだ船は、それはそれは見事なものだった。
単なる商船とは思えない。漁船の何倍もの大きさがあるその船は、見る者を圧倒する存在感を放っている。
「おはよう、三人とも。よく眠れた?」
船を見上げていたテオドール達のもとに寄って来たのは、部下を連れたミレーナだ。彼女は部下の青年に何らか指示を出すと、すぐにテオドール達を見遣った。
「ああ、おかげさまで。良い部屋を取ってもらったようで、すまない」
「いいのいいの。体調が万全じゃないと船には乗せてやれないからね」
宿代を払いたがるテオドールをいなしたミレーナは、そっとシェリアに近付いた。
慌てて顔を上げた彼女の長い銀髪を、ミレーナの指が掬うように持ち上げる。
「よしよし、切らずに済んでいて何よりだよ」
「あ……はい。えっと、ありがとう」
「そのお礼は、ヤツらに言わなきゃね」
そう言ってテオドールとカディアンを見たミレーナは、ふっと小さく笑ってからシェリアに視線を向け直した。
「──さて、一足先に乗っといで。私はまだやることがあるからさ。ああ、案内はあの子がやってくれるよ」
ミレーナが指で示した方向──港から船に乗り込むタラップのあたりに立っている青年が頭を軽く下げた。
「荷物を置いたら、デッキで待ってて。へーきだったらね」
船の周囲には人や荷物が溢れ返っている。
うっかりしているとはぐれてしまいそうなほどの混雑だ。
ミレーナは「じゃあねー」と緩い声を出して、その混雑の中へと消えてしまった。
朝も早い時間だというのに、ガレキ街の港は活気に溢れている。
ミレーナを見送っていたテオドールは、ちらりとシェリアに視線を落とした。あまりにも人が多いためだろう。彼女は少し戸惑っている様子だ。
「カディアン」
「……分かった」
テオドールが軽く促すと、カディアンはシェリアの手をそっと握った。
荷物のほとんどはテオドールが引き受けていたから、シェリアを任せるには彼しかいない。
手を引かれながら船へと向かうシェリアは、やはりどこか不安げだ。
テオドールは二人の後ろを歩きながら、周囲を気にしている。
今のところは不審な人物を見かけてはいないものの、これだけ人がいれば紛れ込んでいるかもしれない。
水都カラジュムにいた、商人風の男のように。
タラップを上がった先に広がる船の甲板では、既に何人かが動いていた。
船員らしい数名と、商人らしい男達。次々と荷物が積み込まれていて、少し騒がしい。
「こちらです」
にこやかな笑みを浮かべた青年に連れられたのは、四人用の船室だった。
ドアを開いた正面に嵌め込みの窓、そして中央に固定されたテーブルがあり、左右の壁に沿って寝台が並んでいる。
寝台はすべてカーテンが仕切られるようになっており、椅子としても使えるらしい。揺れに備えてのことか、ランプなどの小物も基本的に固定されているようだ。
青年の説明はシンプルだが、分かりやすい。何かあった時はベルを使うようにと、青年はドア近くに設置された箱を示した。
「他に何かあれば、いつでもお申しつけください」
「……ああ、ありがとう」
「では、失礼いたします」
頭を下げて部屋から出ていく青年を眺めながら、テオドールは軽く頭を掻いた。
まるで貴族にでもなった気分だ。貴族の生活振りなど知りもしないが、ミレーナが単なる一商人ではないことを考えても自分達の待遇が手厚すぎる。
「ミレーナさんにどんな恩を売ったら、こんなになるんだ?」
ベッド下の収納を眺めていたカディアンが、荷物を入れてから顔を上げた。
「むしろ、恩しかないのだが」
テオドールも少し戸惑った調子になった。
確かに色々と世話になりすぎている。
彼女も魔女を探している──とは言っていたものの、それと現状がうまく結びつかない。
「……テオ」
「どうした?」
考え込んでいたテオドールは、シェリアの声に慌てて顔を上げた。
「ミレーナさん、デッキで待ってて、って……」
開かない窓から外を眺めていた彼女のその言葉に、テオドールとカディアンは顔を見合わせた。何せ、荷物の積み入れなど作業のために大勢の人が甲板に出ている。
平気なら、という一言は、シェリアに向けられたものだろう。
「ああ、そうだったな。……だが、大丈夫か?」
「そうだよ、シェリア。無理しなくてもいいよ」
そんなふたりの言葉に、シェリアは少し困った様子で視線を巡らせた。
迷っているようだ。ふたりの言うことを聞いておくべか、どう答えるべきか。
彼女は、"正解"を探している。
「──……」
ああ、まただ。また彼女に我慢を強いてしまう。
そう思ったテオドールが口を開きかけたとき、ドアがノックされた。
顔を見せたのは、今まさに話に出ていたミレーナだ。
「お、いたいた。どう? 我が愛船、ガウラ号は。船室だって、そこそこ快適じゃない?」
「ああ、快適すぎるほどだ。何から何まですまない」
「あっはは、いいっていいって。どうせ部屋は余ってんだからさ」
奥の寝台に腰掛けたシェリアに近付いたミレーナは、控えめに礼を告げたテオドールに向かって、いいよいいよと手を振った。商人を信用するなと言ったのは彼女だが、テオドールはあれがどういう意味だったのか。未だに理解しきれずにいる。
シェリアの隣に腰を下ろしたミレーナは、コンコンと軽く壁を叩いた。
「普段は荷物を運ぶことがメインでね。人を乗せるのは得意じゃない船なんだ。狭いけど、我慢しておくれ」
「狭いだなんて……すみません。きちんと、お部屋まで……」
「私が誘ったんだから、私が用意するのは当たり前だって。私はこういうとこ、手を抜かないからね」
にっと笑みを浮かべたミレーナは、当たり前のようにシェリアの手を取って立ち上がった。そして、向かい側に座っている男ふたりへと視線を投げる。
「さあさあ、何はともあれ我がガウラ号を紹介するよ。外に出て、見せたいものがあるからさ」
言うが早いか、ミレーナは男達を置いて、一足先にシェリアを連れ出した。
甲板に繋がる階段までの廊下は少し急で幅も狭い。そんな中をヒール付きのブーツでするすると歩いていくミレーナは、さすがに慣れたものだ。
甲板に上がると、やはりあちらこちらで作業をしている男達がいた。
彼らはミレーナに気が付くと、次々に挨拶をしていく。中にはわざわざ帽子を脱ぐ者までいるほどだ。
「船員ってのはね、荒くれ野郎が多いけど、気のいい奴らさ。大丈夫だよ、シェリア。船旅は怖くないんだから」
そう言ってシェリアを見下ろすミレーナの様子に、テオドールは少しハッとした。ミレーナはおそらく、自分にとってシェリアが特別な客であることをわざわざ周囲にアピールしているのだ。自分と共にいる姿を、意図的に見せつけて、牽制している。
ただ乗せただけではない。自分の客で、知り合いなのだと。そうすることで、シェリアを怖がらせる者を減らしているのだ。
作業が続けられているデッキを抜けて船首に向かう。
その間も、やはりすれ違った男達はミレーナに、そして中にはシェリアにまで挨拶をして去っていく者もいた。
「我がガウラ号は、七つの嵐を越えた船って言われていてね。軽く伝説の船になってるってわけ」
歩きながら船を紹介するミレーナは、少し嬉しそうだ。
「七つも?」
「そう、七つ。といってもさ、四つくらいはそんなに大きな嵐じゃないんだけどね」
ミレーナはシェリアの不思議がる声に答えて、次に船首から突き出すように伸びているバウスプリットを示した。そこには、船首像と呼ばれる装飾彫像が据えられている。
「けど、立派だろ? 私の自慢の船だよ。女神のご加護つきのさ」
ミレーナが示した先には、冠を被った女神を模した船首像があった。それは、水都カラジュムの広場にあった女神像とよく似ている。
ひとしきり眺めて踵を返した時、正面から一人の青年が近付いてきた。
日焼けした男達とはまた違う。褐色の肌をしている。
その顔を見たとき、テオドールは思わず眉を寄せた。
ちょうど先頭をミレーナが歩き、その斜め後ろをシェリアが歩く形になっている。
シェリアの脇を抜けようとした青年が、睨みつけるようにテオドールを見た。
黒髪に黒色の瞳。そして、褐色の肌──この地域ではそうそう見かけないその風貌を、見間違えるはずもない。
青年は、水都カラジュムで魔女を探していた男だった。