指定されていた通りの宿屋に向かうと、既に三つの部屋が確保されていた。ミレーナが先に手配してくれていたらしい。
ありがたく感じる反面、そこまでしなくても良いのに、とテオドールは少々恐縮した気持ちになった。あまりにも世話になりすぎている。
疑う気持ちはないものの、これほど世話になった恩を返せないことは気にかかった。
それは、カディアンも同じだったようだ。落ち着かない様子でいる彼には、馬車と馬をどうするかという課題もある。
出航時刻やルートなど、ミレーナから聞いた情報を伝えたテオドールは、シェリアの様子を気にかけた。どうにも沈んでいるように見えたからだ。
しかし、声を掛けることはできなかった。彼女の気が乗らなくても孤児院に連れていくと決めてしまっている。
今更、どのような言葉を掛ければいいのか。
「──実は、迷ってるんだ」
カディアンがそう言ったのは、夕食のあと、シェリアを部屋まで送り届けた時だった。扉を開きかけていたテオドールは彼を振り返ると、数秒だけ考えてから部屋に招き入れた。
部屋は一人用のものだが、椅子はテーブルを挟んで二脚が揃えられている。
扉を閉じて静かに歩み寄ったテオドールは、椅子を引きながらカディアンを促した。
「……孤児院で、あの子を守れるのかなって」
「それを、シェリアに言ったのか?」
テオドールは思わず眉を寄せた。
そのような言い方をしては、彼女を不安がらせるだけだ。
「言ってない」
カディアンは少し眉を寄せ、僅かばかり不満げな表情を浮かべつつ椅子に腰を下ろした。
「でも、……孤児院の人たちが、あの子を守れなかったな、って思って」
「魔女だと言われた日か?」
テオドールの問いにカディアンは曖昧に頷いた。
孤児院にいた頃のシェリアは、特にいじめられていたわけではない。
大人達だって、彼女を不当に扱ってはいなかった──はずだ。少なくともカディアンが知る限りはそうだ。
しかし、あの日──魔女を探した男達が訪ねて来た日は、彼女を隠すでも逃がすでもなかった。深い森に囲まれたあの場所なら、いくらでも隠れる場所はあったはずなのに。
彼女を探すために孤児院を出た時のカディアンは、男達への苛立ちでいっぱいだった。カディアンの怒りと疑念の矛先が孤児院の大人たちに向いたのは、ここしばらくのことだ。
「僕の方が、少し不安になったんだ」
「……それはシェリアに言ったのか?」
「まあ、うん……」
テオドールは困ったように眉を下げた。
そうはいっても、彼女にとって恐らく安全であろうと期待できる場所はそこしかない。
水都カラジュムに身を寄せさせても良かったかもしれないが、あそこも人の出入りが激しい街だ。ヘヴィックは信用に値する人物だが、街でひと悶着があったことを考えると、その街に滞在させること自体あまり好ましいとは言えなかった。
だが、そもそも彼女を孤児院に連れ戻すと言い出したのはカディアンだ。そのために旅をして回っていたのだから、当然といえば当然だった。
そんな彼がシェリアの様子を見るうちに、自分の選択が正しいのかどうか不安になる気持ちはテオドールにもよく分かる。
テオドールもまた、あらゆる自問自答を繰り返して旅を続けて来たからだ。
迷いがないわけではない。だが、その時点で最良だろうと思われる選択肢を取るよりほかにないのだ。
「だから、もし……」
カディアンは迷いながら口を開いた。
しかし、そこで言葉は止まってしまう。
テオドールはじっと見つめたままで、急かしはしない。
「もし……もしもだよ」
「ああ」
「アジュガがあの子にとって辛い場所になるなら、……連れ出そうと思う」
「……そうか」
確かにそれが賢明だろうとテオドールは心底から思った。
いくら故郷だとはいえ、針のむしろなのであれば離れるべきだ。
そうしなければ、彼女が辛い思いを重ねるばかりになってしまう。
それが最も望ましくないだろう。
テオドールにとっても、カディアンにとっても、それは共通している。
「……今日、テオドールがいない間、馬車で話をしたんだ」
てっきり話が終わったものと思っていたテオドールは、その言葉に誘われるように視線を向け直した。カディアンはじっとテーブルを見つめていて、やはり何か考え込んでいる様子でいる。
「けど、シェリアは……僕には……僕には、何も言ってくれないんだ。言ってくれなくなって……まあ、それは、僕のせいなんだけど」
歯切れ悪く言葉を続けるカディアンは、その事実がショックだった。確かにシェリアは控えめで大人しい少女だが、孤児院にいた頃は怖いものは怖いと好きなものは好きだと答えてくれていた。
それが今は、不安だとも怖いのだとも嫌なのだとも、きちんと伝えてくれなくなっている。いや、伝えられなくなったというべきか。カディアンには分かっていた。
自分が強引に彼女の気持ちを無視してしまったから、彼女は自分の気持ちを伝えなくなった。彼女にとって自分は、感情を伝えられる相手ではなくなってしまったのだ。そう思えてならなくて、辛くて堪らなかった。
「もしアジュガのことも、僕のことも嫌だって。あの子がそうなってるなら、どうすればいいのか……」
辛そうに眉を寄せるカディアンを前にして、テオドールは「ああ……」と僅かに声を漏らした。
今のカディアンは、まるでまだ一緒にいたいのだと告げた彼女を突き放してしまった瞬間の自分だとテオドールは感じた。
後悔をしても、もう遅い。
言ってしまった言葉も突き付けた態度も、なかったことにはできない。
良かれと思ってしてしまったことが、正しければいいと願ったことが、結果的に彼女を傷つけてしまった。
彼女の答えも気持ちも明白だったのに、テオドールもカディアンも、あるかどうかも分からない『安全』を盾にしたのだ。そして、それを彼女のためだと押し付けてしまった。
このまま旅を続ける限り、彼女はずっと魔女として謗りを受け続けることになる。テオドールの危惧はそこにあった。彼女が傷付き、心を痛める必要などない。
ならば、彼女をよく知る者達がいるアジュガ孤児院に戻った方が、いくらか心安らげるはずだと思った。
いや、思いたかった。安全だと、そう思いたかったのだ。
そして今も、一縷の望みを捨てきれずにいる。
孤児院が、アジュガの街が、彼女の居場所になってくれないかと。
それでいて、まだ離れたくないという気持ちを捨て切れずにいる。
「……アジュガに着いてから考えよう。俺も数日は滞在する」
テオドールは苦々しい思いと共に言葉を紡ぎ落した。
それはまるで逃げの一手だ。見苦しいほどに逃げを打った。
決断を先延ばしにしたところで事態は好転しない。
僅かばかりの望みを託したい気持ちと、それを打ち砕かれた時の憂鬱を天秤にかけて、テオドールは首を振る。
アジュガ孤児院の大人達──彼らがまともであればいい。
そう願うことすら身勝手だと、テオドールは確かに自覚していた。