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女神の加護を背にして 3


 水都カラジュムからガレキ街への道のりは、不安の余地を挟みようもないほどに順調だった。


 昼食後、移動を再開した一行は、日が傾き始めるまでに旧街道から表の街道に合流を果たしたほどに移動は順調だ。そこから日が暮れるまで馬車を進めれば、予定していた全行程の三分の二程度は進むことが出来た。


 道中ですれ違った行商人の馬車は幾つかあったものの、特に不穏なことは起きずに済んだ。乗合馬車も見かけたが、どうやら港街の騒ぎは落ち着きつつあるらしい。

 あるいは、こちら側まで事件の影響が及んでいないのかもしれない。


 馬の調子を気にしたカディアンが、少し早めの休憩を提案したのは夕暮れ時だ。明日の昼過ぎにはガレキ街に到着する計算だという。それならば、馬に無理をさせてまで進む必要もないだろうと判断したテオドールは、街道から少し外れた平原に馬車を止めた。


 万が一を警戒して、見晴らしの良い場所を選んだのだ。

 ここならば、近付いて来る者がいれば、すぐに分かるだろう。

 そして、街道からもそれほど離れてはいない。不測の事態で移動する場合も想定しなければならない点だ。

 火を起こす薪は拾いに行く必要があるものの、まずは安全確保が先決だろう。


 テオドールは、魔女や魔物よりも、魔女に関わった者達の襲撃を気にしていた。魔女が現れるようになってからというもの、単なる動物が凶暴になったことはあったものの、魔物の数自体はめっきり減っている。

 そこに因果関係があるのかどうかは分からないものの、いずれにしても人間の方が厄介だ。


「──シェリア。そろそろ休んだ方がいい」


 夕食の片付けを終えてしばらく、馬車の傍らで火を弄っていたテオドールは正面に座るシェリアに声をかけた。

 しかし、彼女は外套を敷物にして座り込んだまま、物言いたげに視線を向けるばかりだ。


 少し離れた位置で馬の世話をしているカディアンもまた、シェリアの様子を窺っている。しかし、まだ声をかけはしない。

 随分と気を遣っている様子だ。


「どうかしたのか?」


 カディアンが様子を窺っている気配とシェリアの様子に、テオドールが僅かに眉を寄せる。すると、シェリアは慌てて首を振った。


「……ううん。ごめんなさい。その、何かあったわけじゃないの」

「ならば、引っ掛かっていることでもあるのか?」

「そうじゃないの……」


 テオドールからの問いに、シェリアはひどく言いにくそうに目を伏せてしまう。

 その様子に、テオドールは困惑して視線を走らせた。自分に言いにくいのなら、と思ったのだが、カディアンもまた気が引けている様子だ。


 しかし、テオドールもまた無理に暴くことなどできない。彼女が何かを抱え込みやすい性格であることは理解しているが、その繊細さもまた知っている。


 下手に触れて暴いてしまって、追い詰めたくなかった。


「……とにかく休んだ方がいい。外は俺達に任せて、馬車で──」

「──ッ、あの、わ、私も、火の番をするから、ふたりも休んで欲しいの」


 テオドールの言葉に被せる形で、シェリアが意を決したように声を出した。

 目を丸くしたのは、馬の傍に立っているカディアンだ。


 そんなことを気にしていたのかと、テオドールはゆるりと肩から力を抜いた。


「……ああ。勿論、俺達も交代で休む。心配はない」

「でも……」


 申し訳なさそうに眉を寄せたシェリアに対して、テオドールはどうしたものかとカディアンに視線を投げた。そして、手にしていた小枝を火に放り込んだ。パキッと音を立てて火が粉を吹く。


「大丈夫だよ、シェリア。テオドールの言う通り、僕らもちゃんと休んでるからさ」


 ふたりのもとに歩み寄ってきたカディアンは、彼女を安心させようと笑みを浮かべた。しかし、シェリアの表情は晴れないままだ。


 他にも心配ごとがあるのだろうか。テオドールはじっと黙ったまま、シェリアの様子を窺った。


「……ごめんなさい」


 小声で言葉を落としたシェリアは、その細い肩を更に小さく縮ませた。

 本来であれば謝ることではないのだ。体力としての問題もある。

 それに、彼女はいわば被害者の立場でもある。他人の身勝手に振り回されて、孤児院から連れ出された。そして、テオドールもまた、当初は彼女を利用する目的で旅に同行させたのだ。


 テオドールは、後ろめたさに喉が乾く感覚を覚えてしまい、シェリアに視線を向けられなくなった。


「いや、お前は悪くない。……そうだな。今夜は俺が先に休もう。その後でシェリアが休んでくれ。構わないか?」

「うん。僕はいいよ」


 ちらりとシェリアを見たカディアンは、まだ少し何かを気にしている様子だ。

 一方のシェリアは、テオドールの提案にこくこくと頷いた。


「──では、すまないが先に休ませてもらう。火の番を頼んだ」


 そう言って立ち上がったテオドールは、傍らに置いていた自分の外套を掴んだ。そして、火の番をする場所をカディアンに譲りながら、少し離れた位置まで移動する。

 腰に提げたままの剣を取り外すと、畳んだ外套を枕代わりにして寝転がった。片腕を剣に回して軽く抱いたまま、火の番をしている彼らに背を向けて平原を眺める位置を取る。


 頭上に広がるのは雲ひとつない星空だ。

 だが、美しい夜空に気持ちが高揚したことなど、この十五年で一度もなかった。


 この先もないのだろう。魔女をこの手で葬り去るまでは、きっと。


「……」


 目を閉じたテオドールは、しばらくふたりの様子を窺っていた。

 しかし、ふたりは何らか言葉を交わしはしない。

 火が放つ特有の音と、時折パキリと枝を折って火に放り込む音だけがする程度だ。


 見渡す限りの平原は、遠くにある街道を進む馬車が一台だけ過ぎた以外は静かなものだった。



 目を閉じて、どれほどの時間が経った頃だろうか。

 テオドールは、夢を見た。


 金色の髪を揺らして空中を歩く魔女。

 その前に対峙しているのは、幼い頃の自分だ。

 まるであの日の繰り返し。微笑う魔女の手から、自分だけが生き残ってしまった日。

 薄らと微笑んだ魔女は、全くもって彼女とは似ても似つかない。

 不気味でおぞましくて恐ろしい女だ。


 大人になったテオドールはその光景を、随分と遠くから眺めているだけになっている。


 少年に向けられていた魔女の視線が、ふとテオドールへと向いた。


 いや、違う。その視線はもう少し先だ。

 ハッとして振り返ったテオドールは、魔女が見つめる先にシェリアがいることに気がついた。


 ──来るな!


 そう言ったはずだ。しかし、声が出なかった。

 振り返った彼女は目を瞬かせたあと、ゆっくりとテオドールのもとへと歩み寄ってくる。


 音は何も聞こえない。

 彼女が何かを言っているのに、その声は届かないのだ。


 ふわり、と。傍らを何かが過ぎる。金色の、何か。それは真っ直ぐに彼女のもとへと向かっていく。


 やめろ!

 逃げろ!

 離れろ!


 ああ、頼む。どうか。どうかやめてくれ。彼女だけは──叫ぶ声は音にならず、駆けつけたいのに脚すら動かなかった。


 空中を歩いて距離を縮めた魔女が、ゆっくりと彼女の顔を覗き込んだ。

 そして魔女を見上げている彼女の横顔が、長い金髪によって隠されてしまって──。


「──……ッ!」


 ハッと目を開いたテオドールは、一瞬ばかり意味が分からなかった。

 ほどなくして夢だったのだと理解すれば、自然と安堵の息が漏れていく。


 ゆっくりと起き上がったテオドールは、自分の心臓がひどく激しく暴れていると自覚した。抱えたままの剣を見下ろして、大きく深呼吸をする。


 魔女の狙いは何だ。

 もしかして、彼女なのだろうか。


 テオドールは、思わず夢を追い払うようにして首を振って立ち上がった。


「あれ? もういいのか?」

「ああ……」


 彼が起きたことに気付いたカディアンが振り返る。

 夢そのものは短かった。だが、どうにも恐ろしい夢であったことは間違いない。


 テオドールは、再び睡眠を取る気にはなれなかった。


「……テオ」


 焚き火の明るさで地図を眺めていたらしいシェリアもまた彼を振り返った。

 彼女の前にある火は、放り入れた枝のほとんどを燃やし尽くして少し小さくなっている。


 それなりに眠ったのだろう。テオドールはそう判断すると、シェリアに手を差し出した。 


「順番だ。休んでくれ」


 しかし、シェリアはすぐには頷かない。


「カディは……?」

「僕はまだ眠くないし、運動ついでに薪を拾ってくるよ。先に寝てて」


 ゆっくりと立ち上がったカディアンは、持ち上げたランタンに火を入れた。

 そして、ひらりと手を振って歩き出してしまう。


 彼女を休ませたいがための振る舞いだ。

 そんなカディアンの背を見送ったあと、シェリアはテオドールを見上げた。

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