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女神の加護を背にして 2


 カディアンが心配したような雨の気配もなく、昼頃になっても空は晴れ渡っていた。もっとも、カディアンの心配ごとは天気がメインではないだろう。

 シェリアは馬車の中で静かにはしていたものの、言われた通りに眠ったわけではなさそうだ。


「ガレキ街からも船が出てなかったら──」


 パンに干し肉を挟んだカディアンは、足元に広げた地図を覗き込んだ。そして、少し難しそうに眉を寄せて唸る。


「別の港街を行くしか仕方ないんだけど、船が動いてるか分かんないしなぁ」

「アジュガへの船は、ネリネからしか出ていないのか?」


 地図と睨めっこをしているカディアンに、テオドールがそっと問い掛けた。


「定期船はネリネからだけだな。けど、不定期にいろんな船が来るよ。ね、シェリア」

「え、あっ、うん」


 片手鍋に入れたミルクを温めていたシェリアは、急に名前を呼ばれて驚いた様子で顔を上げた。


「どんな感じの船が来ているのかは、知らないけど……」

「あ、そっか。シェリアはあんまり街の方には行かないもんな」

「うん……」


 シェリアは控えめな頷きを返してミルクを掻き混ぜる動きを再開する。

 そんな彼女の様子を見て、テオドールは僅かに首を傾げた。


「孤児院は街から離れているのか」

「んー、まぁ、ちょっとだけね」


 問いに答えながらテオドールにパンを差し出したカディアンは、再び地図に視線を落とした。


「港の方に街があって、孤児院は山の上にあるからさ。行き来がないわけじゃないけど、ちょっとは大変かな」

「行くなと言われているわけではないんだな?」

「え? あー……うーん。さあ。聞いたことないけど。どうして?」

「いいや……」


 説明できるほどの理由はなかった。

 ただ、シェリアの様子から、あまり触れられたくない話題のように思えたのだ。

 僅かばかり眉を寄せたテオドールは、受け取ったパンに水都で買ったソースを塗り始めた。甘辛いソースの香りが、空腹には少しばかり刺激的だ。


 シェリアを気にするテオドールに気がついたカディアンもまた、彼女に視線を転じた。


 ふたり分の視線を受け止めたシェリアは、少し戸惑った様子で小さな片手鍋から顔を上げる。そして、ふたりをそれぞれに見たあとで「どうかした……?」と小さな小さな声で問い掛けた。


「いや……定期船があるのなら、他の街に出ようとは思わなかったのか?」


 やんわりと首を振ったあと、テオドールは更に問いを重ねた。

 何せ、シェリアは性格こそ控えめであるものの好奇心は歳相応に旺盛だ。

 大人しい性格ではあるが、完全に孤児院で引きこもっているタイプだとは思えない。


 旅に出るというのなら難易度は高いだろうが、地図上でのアジュガとネリネは海を挟んでほど近い位置にある。ネリネの港街に行く程度なら、難しくもないだろう。

 それでも彼女は、アジュガから出ようとしなかった。


「……それは、その……」


 テオドールからの問いに、シェリアはすぐに答えられなかった。口ごもってしまった彼女を見たカディアンが、心配そうに眉を下げていく。


 孤児院で何かがあったとしたら、守れなかった自分のせいではないか。そう思ったからだ。


「どうかした? 何かあった?」

「……ううん。なにも、ないんだけど……」


 困った様子で目を伏せたシェリアは、それぞれのカップにミルクを注ぎ始めた。

 緩やかに立ち上がる湯気を見つめる横顔は、まだ少し困っている様子でもある。


「……その、イクセロンさんが、海には出ない方がいいって……」

「えぇ? そんなこと言われたのか?」


 シェリアの囁くような声に、カディアンは眉を顰めた。

 続いて、テオドールが問いを投げる。


「誰だ?」

「ああ、孤児院の責任者だよ。七年くらい前かな……新しく変わったんだけど、ちょっと厳しくてさー」

「そうなのか?」


 七年前といえば、シェリアもカディアンもまだ十歳にも満たない頃合だ。

 深い森と海に囲まれたアジュガの立地を考えれば、むやみに外を出歩くなという意味なら納得でもある。カディアンの言うように、"厳しい"というほどではないだろう。

 むしろ、孤児達を取りまとめて面倒を見ている立場であれば、テオドールとしては妥当だとすら思えた。


「まぁ、あの人が言うなら納得か。それで海が怖いの? 大丈夫だよ。もしかして、船も怖い?」

「そういうわけじゃ、ない、けど……」


 困ったように笑ったシェリアが両手で包むようにカップを持ち上げた。そして、テオドールとカディアン、それぞれに渡していく。


 ほどよく温まったミルクからは、ほんのりと甘い香りがした。


「ネリネの酒場に留まっていたことも、それが原因か?」


 その問いに、シェリアはみるみるうちに眉を下げていく。彼女の様子を見た瞬間──テオドールは、しまった、と思った。


 別に責めたいわけではない。ただの疑問だったのだ。

 しかし、彼女は"魔女"だと言われて孤児院を連れ出された。その立場では、例え物理的に移動が可能であったとしても、おいそれと帰ることは心情的に難しかったはずだ。


「いや、すまない。余計なことを聞いた。……パンの用意はできた。食事にするか」

「そうだね。シェリアもこっちにおいでよ」

「……うん」


 砂をかけて火を消したシェリアの姿を見つめて、テオドールは僅かに目を細めた。

 最初は地図を読むことすらできなかったのに、もう随分と旅慣れた様子だ。野宿にも、外での食事にも、本当なら慣れなくても良いはずの少女だというのに。


「──……」


 ゆっくりと息を吐いたテオドールは、干し肉の上にソースを塗ったパンをシェリアにも差し出した。カディアンが葉野菜の入った深皿を真ん中に置けば、軽い昼食の始まりだ。


 ソースを溢さないようしながら食べるシェリアの隣で、カディアンは既に手がソースで汚れてベタベタになっている。

 葉野菜を数枚ほど摘んでソースのかかった干し肉の上に乗せたテオドールは、パンを曲げて挟み込むようにして食べ始めた。


 彼女がネリネの酒場にいた理由──単純に考えれば、孤児院に来た男達に"魔女"だと呼ばれたことで、孤児院に戻ることが怖くなったのかもしれない。

 それをわざわざ彼女の口から説明させようとしてしまったのだ。

 随分と配慮の欠けた問いだったには違いない。


 テオドールは無言でパンを咀嚼しながら、ちらりと彼女を見遣った。


 シェリアは目を伏せて、カディアンの前に広げられている地図を見つめている。


「……今夜は野宿になりそうだな」

「あー、そうだねー、ガレキ街までの間には何もなさそうだし」


 緩やかに頷いたカディアンはミルクを飲んで、「これおいしいよっ」とシェリアに笑みを向けた。対するシェリアは、ぱちりと目を瞬かせたあと、ゆったりと微笑んだ。


「……そうだな、美味い」


 低い声で同意を示したテオドールに対して、シェリアは少しばかり驚いた様子を見せたものの、ほどなくして照れたように笑みを浮かべた。


「良かった。ありがとう」


 そう言って微笑む彼女を見つめていられなくて、テオドールはすぐに視線を外してしまった。彼女に礼を告げたことはあっても、こうして率直に褒めたことはなかったように思える。


 カディアンに会うまでは、時には野ざらしで眠らなければならないこともあったのだから、移動する上での身軽さはないものの、彼が馬車を所有していたことは幸いだ。野宿になってしまっても、彼女を幌に守られた馬車内で休ませることができる。


 天気も、このままの空なら心配はいらないだろう。

 テオドールは野宿をする上での不安が減り、少し安心した気持ちでパンを味わいながら考え始めた。


「……」


 孤児院で彼女が魔女だ──と呼ばれた件については、おおよその話はカディアンから聞いている。だが、カディアンが単身で彼女を探していたことからすると、孤児院の者達は彼女を助けようとはしなかったのだろう。


 それは恐怖ゆえなのか。あるいは、誤解から招かれたものなのか。

 孤児院で育った者が職員になる場合もあるのなら、単なる人手不足の可能性は薄くなる。


 それとも、"責任者"による意向なのか。


 そう考えていけば、責任者とやらが彼女に対して「海には出ない方がいい」と告げた理由が意味深に思えてきた。ひょっとして、何かを知っているのだろうか。

 陸の孤島で、しかもアジュガの街にすら出なかった彼女を狙った男達が訪問したという点も気になる。


 調べる必要があるかもしれない。

 彼女がアジュガに戻って留まるにしても、どうするにしても、だ。


 テオドールは静かに息を吐いて、ミルクで喉を潤した。


 彼女が味付けをして温めたそれは、確かに優しい味がした。

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