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失って気付く大切さ──ですって?
まあ、くだらない。
何でも失うのは惜しいものよ。それが不要なものであってもね。
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明くる日。
テオドール達は、水都カラジュムを発つこととなった。
昨晩のうちにその話を出したところ、シェリアは特に理由を問うこともなく受け入れた。そうした方が良いとテオドールの判断を、彼女が嫌がったのはたった一度だけだ。
あの時、湖畔の町でシェリアはアジュガに戻りたくないと告げた。
それを敢えて聞かない選択をしたのは、テオドール自身だ。
「もう少し滞在すればいいのにさぁ」
門の外まで見送りに来たヘヴィックは、そう言って笑った。
強く引き止める気はないのだろう。しかし、残念がっている言葉は本音には違いない。
「また、いつでもおいで。歓迎するよ!」
「ああ。世話になった」
「今度は、もっとゆっくりできるといいね」
今度──など、あるのだろうか。
テオドールはちらりとシェリアを見遣った。丁寧に頭を下げたシェリアも、その隣でヘヴィックに礼を告げるカディアンも陸の孤島──アジュガに帰るのだ。
孤児院に再び戻れば、この都まで来ることなど、そうそうないに違いない。
それどころか、もうアジュガから出ない可能性すらあった。
「じゃ、道中、気をつけてね」
馬車に乗り込むシェリアをエスコートしたヘヴィックは、その手に何かを握らせて笑みを深めた。慌てたシェリアが断ろうとするものの、彼はひらりと身を翻して離れてしまう。
やはり、というべきか。相変わらずの調子だ。
朝日に照らされた水の都は、夜とはまた違った輝きを持っている。
きらきらと光を反射している通路の水が、街を囲む水路に落ちていく。
魔女が、この街を狙わないだろうか。
テオドールの頭には、ふとそんな考えが過ぎった。
例の馬車が、随分と近い位置で燃え上がっていたからだ。
「……火には気をつけろ」
御者席に乗り込んだカディアンを見送っていたヘヴィックが、テオドールの声に誘われて振り返る。彼は一瞬ばかりきょとんと目を丸くしたものの、すぐに笑った。
「大丈夫だよ、僕らの女神は無敵さ」
そう言って差し出された手を握り返したテオドールは、思わず小さく笑ってしまった。
テオドールは、神を信じているわけではない。
だが、漠然とした不安よりも、ずっと明確なものが見えた気がしたのだ。
軽く頭を下げたテオドールが御者席に乗り込むと、カディアンが馬を歩かせ始めた。預け先で丁寧に扱われていたのだろう。馬は調子も機嫌も毛並みも良さそうだ。
手を振って見送っているヘヴィックを振り返っていたテオドールが座り直すと、カディアンが「いいとこだったなぁ」と言った。
「次はー……ガレキ街だね。ミレーナさんがいるといいんだけど──シェリア?」
地図を取り出していたテオドールは、カディアンの声によって背後を振り返った。
そして、幌の一部を軽くどける。
荷台の一部。改造されて座席になった部分に座っているシェリアは、どうやらぼーっとしていたようだ。ハッとしてふたりを見たシェリアは「なに?」と問いを投げた。
「何でもないけど、もし眠たいなら寝てていいよ」
「……ありがとう。でも、大丈夫だから……」
困ったように眉を下げたシェリアを眺めて、テオドールは僅かに眉を寄せた。
前を向いて馬を操っているカディアンは、彼女の表情を見たわけでもない。
テオドールから見ても、彼女には疲れた様子は見られなかった。
カディアンには、彼女について何か気掛かりなことがあったのかもしれない。
しかし、シェリアの返答に対して、強く出られないでいる。
「……地図を見る限り、途中に街はないようだ」
話題を切り替える為にテオドールが前を向いて膝上に地図を広げた。
隣から軽く覗き込むようにしたカディアンが「じゃあ、野宿かぁ」と呟く。
「ああ。その可能性が高い」
「雨が降らないといいけどな」
「……そうだな」
ちらりと見上げた空は快晴だ。
雲ひとつ見当たらないほど、晴れ渡っている。
カディアンが何を気にしているのか。
それを知りたい気持ちは確かにあったものの、シェリアに関わることであれば、ここで聞くわけにもいかないだろう。テオドールは地図を折り畳みながら前を向いた。
「ひとつ、聞きたいのだが」
そう切り出したテオドールに、カディアンは眉を寄せた。
しかし、首を振りはしない。
「アジュガの孤児院のことだ」
「あー……なに?」
聞かれたくない部分ではなかったのだろう。
カディアンはゆっくりと息を吐いたあと、問いを促すように首を傾げた。
「どの程度の規模になるんだ?」
「規模? あー、うーん……そうだなぁ。子どもは、不定期に色んなとこから預けられるから、人数は分からないな」
「そうなのか」
「建物としては、かなり大きいと思うよ。ある程度の歳になったら、個室だってもらえるからね」
女の子の方が早いけど、と呟いたカディアンは、ちらりと荷台を気にした。
シェリアは、会話に入って来る様子もない。
テオドールも肩越しに振り返ったが、彼女は何か考えごとをしているようだ。
「孤児院の子どもは、大人になったらどうするんだ?」
「うーん。孤児院の職員になる子と、アジュガの街に出る子で分かれるかな。アジュガから出る子はほとんどいないよ」
明確に閉鎖されているわけではないが、人の出入りはほとんどない、ということか。それならば、海路の定期便以外に移動手段がないことも、周囲の山が長らく手付かずでいることも少しは納得できた。
切り立った山々に囲まれたアジュガは、すっかり陸の孤島だ。
ならば、やはり荒れた山道を使って馬車で来たらしい男達がいたという話は、どうにも違和感が強い。
「どうかしたのか?」
カディアンが不思議がって首を傾げた。
こんなにも彼から質問を重ねられたことがなかったからだ。
テオドールは「いいや」と首を振った。
「目的地を知りたいのは、当然だろう?」
「んー、まあ、そうだろうけどさ」
それでも、今までならテオドールがそこまで踏み込むことはなかった。だから、カディアンもまた、テオドールが何かを気にしてるようだと勘付いてはいるようだ。
実際、テオドールはアジュガに何らかのヒントがあるのではないかと考えるようになっていた。馬車で彼女を連れ去ったという男達が、なぜ船を使わなかったのか。
連れ去られたあと、彼女が聞いたという魔女らしき女の声。そして、彼女は気がつけば海を隔てた港街にいたという。それもまた、不可思議な話だ。
そこには、魔法が関係しているに違いない。
その使い手が例の魔女か、そうではないのか。
いずれにしても、少し確かめておく方がいいだろう。
テオドールは前方へと視線を投げた。
旧街道は次第に新しい方の街道へと合流を果たすことになる。
森を突き抜けた旧街道を越えれば、表の街道へと入り込めるはずだ。
頭上には、嫌になるほど清々しい青空がどこまでも続いていた。