街に飛び込んだテオドールは、門周辺の人込みを掻き分けて街の奥を目指した。 傍らを通り抜ける際、ヘヴィックが驚いた様子で彼の名前を呼んだ。
「──すまない!」
説明などしている余裕のないテオドールは、一言だけ声を上げて前を向いた。
通路を満たしている水が、走る度に飛沫を上げて煩わしい。跳ね上がった水によってズボンが濡れて走りにくいが、今は頓着している場合ではなかった。
商人の男とやらが、シェリアに接触するとは限らない。
だが、万が一のことがないとは言い切れない。一度は彼女を魔女だと罵って襲ったことのあるテオドールには、あまりにも身に覚えが強かった。
シェリアにはカディアンがついている。
間違っても、不審な人物に彼女を易々と引き渡すようなことはしないだろう。しかし、相手が手荒な真似をしないとは限らない。
そうなれば、ふたりとも──そして、子ども達もまた危うい可能性がある。
「……チッ」
どこへ向かうのか、その程度は聞いておくべきだった。
今更のようにそう思っても、どうしようもない。
中央の広場へ入り込んだテオドールは、思い思いに過ごしている人々を見渡して彼女達の姿を探した。遊んでいる子ども達の集団はいくつか見えているものの、シェリアの特徴的な色はそこにはない。
徐々に日が傾いていく中、焦燥によって急激に喉が乾き始めた。
ここにいる人々の様子からするに、目立って騒ぎになることは起きていないようだ。
ならば、まだ大丈夫だと安心しても良いのだろうか。それとも、見えない場所で起きているものと考えた方がいいのだろうか。
あるいは──。
「──……」
よくない方向へと進みかけた思考を振り払い、焦燥に駆られながら中央の女神像を迂回した時だ。
前方から歩いてきた人物とすれ違いざまに肩がぶつかった。
「──っ、すまない……」
広場内を見回して余所見をしていたテオドールは、謝罪を口にしながら相手の顔を見て動きを止めた。
黒い髪に黒い瞳。そして、褐色の肌──このあたりでは、あまり見かけない風貌だ。思わず凝視してしまったテオドールに対して、相手の青年は僅かに眉を寄せた。
黒一色ではあるが、商人を思わせる格好をしている。
だが、商品らしき荷物はない。
青年はひどく鋭い眼差しをテオドールに向けた後、すぐに興味を失った様子で視線を外した。そして、謝罪に応じるでもなく、そのまま背を向けて歩き出してしまう。
青年が立ち去るまでの数秒間、その異質さにテオドールは眉を寄せたまま動きを止めていた。
「──テオ」
褐色肌の青年を見つめていたテオドールは、その声にハッとして振り返った。
「何かあったの……?」
そこには、小さな女の子と手を繋いだシェリアが立っていた。
少し不安そうに眉を下げている彼女の背後から、カディアンもまた子ども達と共に近付いて来る。彼も不思議そうにはしているが、こちらで何かがあった様子はない。
テオドールは、ゆっくりと胸を撫で下ろした。
「……いいや。何でもない。そろそろ日が暮れる。宿に戻ろう」
テオドールがそう告げると、カディアンはすぐに子ども達を呼び始めた。
ほどなく、太陽が姿を消してしまう。
青年が立ち去った方を振り返ったテオドールは、再び眉間に皺を寄せた。
何かがあったわけではなかったが、少しばかり異様さを感じる青年だったからだ。
ぶつかった時、一瞬だけではあったものの――青年もまた、余所見をしていた。
その様子が、まるで誰かを探していたようにも見えたのだ。
「──シェリア。日が落ちる前に」
テオドールがそう声をかけると、シェリアは小さく頷いた。
そして、手を繋いだ女の子を促して宿へと歩き出す。
その傍らについて歩き出したテオドールは、周囲を気にしながらゆっくりと息を吐いた。
褐色肌の青年はもう広場にはいないようだ。
しかし、安心はできないだろう。
今回は何ともなかったが、次回もそうだとは限らないはずだ。
魔女が出たという噂が広まっているのであれば、この街からは早く出た方がいい。
「……」
女の子と話をしているシェリアは、年下の扱いには慣れている様子だ。
柔らかな物腰で、ゆっくりと言葉を口にしている。
まだ遊びたがる子どもをなだめているカディアンもまた、孤児院で面倒を見ていたのだろう。世話には慣れた様子を見せている。
子ども達もまた、ふたりにすっかり懐いている様子だ。
折角ではあるものの、やはり長居はしない方がいいだろう。
万が一ということも、十分に考えられる。
また、逃げなければならない。
彼女の安全を守るためとはいえ、滞在を切り上げると提案しなければならない。テオドールの気は重かった。
傍らを、子ども達が走っていく。テオドールは、シェリアの周りに子ども達が集まる様子を数歩ほど離れた位置から眺めていた。
「──何かあったんだろ?」
追いついたカディアンが、どこか不満げに言う。
「例の件か?」
シェリアがあまり不安を感じないように、子ども達を彼女のもとに集めたカディアンはテオドールを見上げた。
視線を受け止めたテオドールは、すぐには何も言い出せない。
どこから説明するべきか、迷ったせいだ。しかし、ほどなくして口を開いた。隠したところで意味がないからだ。
「……ああ。表の門で騒ぎが起きていた」
「アレを見たとか?」
魔女という単語を避けたカディアンは、露骨に嫌がって顔を顰めた。
テオドールはそれを、静かな頷きで肯定する。
「残念だが……噂が流れたのであれば、あまり留まるべきではないだろう」
この調子ではどこに行ったところで、彼女があらぬ誤解を受けることは避けられないのではないか。 テオドールは気持ちを落ち着けるために、ゆっくりと息を吐き出した。
どこに。どこなら。どこへ行けば。
彼女は普通の少女として、ただの少女として、生きていくことが叶うのだろうか。
「あの子は違う」
カディアンは否定を口にすると、睨みつけるようにテオドールを見た。しかし、その鋭い目はほどなくして伏せられた。
テオドールが彼女を魔女であると誤認して襲ったことは確かだ。だが、テオドール自身がひどく後悔していることもまた、カディアンは知っている。
「分かっている」
子ども達を囲まれて歩くシェリアの背を見つめながら、テオドールはハッキリと肯定した。
彼女は、違う。
魔女であるはずがないのだ。
「……アジュガの孤児院では、平穏に暮らせるのか」
テオドールは静かに問い掛けた。
僅かばかりの希望と、ほんの少しの期待がある。
彼女が平穏に、そして無事に暮らせる場所であればいい。
しかし、カディアンは即答せずに口許を歪めた。
「……怖がっていた子もいるんだ」
苦々しそうに呟いたカディアンは、宿の敷地内へと入っていく彼女達の姿を見据えた。何も知らない子達は歓迎するだろう。
その一方で、彼女が魔女だと連れて行かれたことを知っている者もいる。
子どもはもちろん、大人でさえも。
全員が全員、彼女の味方だとは言い切れない。
「──でも、あの子はそうじゃない。僕らが無事なのが、その証拠だろ」
彼女を連れ去った男達は、炎に焼き尽くされてしまった。だが、その炎はアジュガを取り囲む山を焼きはしなかった。そして、アジュガの街も、そして孤児院も、何ともなかったのだ。
カディアンはぐっと手を握り締めた。
「魔女さえ捕まえられたら、証明できるのに」
絞り出すような声を出したカディアンに、テオドールは何も言えなかった。
触れられるほどの距離に魔女がいた。
炎の中で微笑う女は、確かに彼女とは違う女だったはずだ。
ひどく似ていて、しかし全く似ていない。
同じようでいて、しかし全く違うのだ。
触れる位置まで近付いた。
だというのに捕らえることも、もしてや殺すことはできなかった。
それどころか──。
「……情けないな」
宿の扉をくぐったテオドールは、ぽつりと呟きを落とした。