「──魔女の声を聞いたのは、いつの話だ?」
テオドールの問いに対して、シェリアは少し困った様子で眉を下げた。
何と説明すれば良いのか。少し言葉に迷ってしまう。
自分の手を包むテオドールの大きな手を見つめたまま、シェリアはゆっくりと息を吸った。
「……アジュガの、孤児院から連れ出された時……」
「魔女だと言われた時だな?」
「うん……その時、馬車に乗せられたの」
銀の瞳を伏せた彼女は、触れ合う手に視線を落としたままだ。
怖い思いをしたのだろう。
微かに震える小さなその手を、テオドールはしっかりと握った。
「……それで、……馬車が襲われて……だけど、外のことが分からなかったの」
「だが、何かが起きたんだな?」
「うん……色んな音と声が聞こえて──」
シェリアは、懸命に思い出しながら、ぽつぽつと言葉を並べ始めた。
未整備でひどく荒れた山道を馬車が進んでいたこと。
馬車の中には、見張りの男性が二名いたこと。
急に馬車が止まり、男性達が外に出て数秒後に悲鳴が聞こえたこと。
馬の鳴き声が響き渡った直後には、馬車が大きく揺れて引き倒された。
御者席の方からも悲鳴が聞こえたが、横倒しになった馬車の中からでは外の様子は窺えない。
けたたましい音が鳴り響いて悲鳴すら聞こえなくなった後は、不気味な静寂に包まれた。
外に出ようと動いた時、馬車が再び大きく傾いて、斜面をずり落ちたのだと知った。
だが、どうしようもない。
激しい音と振動の中で樹木にぶつかり岩に当たり、少しずつ崩壊していく馬車の中で何もできなかった。
引き裂かれた幌の隙間から見えた空は、木々に遮られてひどく狭い。
弾け飛んだ木片が頭にぶつかったあたりで、意識が一旦途切れて──。
「……その時、声がして……"まだ、その時ではない"って言われたの」
「女の声か?」
「うん……知らない声だった」
シェリアは少し困った様子で、おずおずと視線を持ち上げた。
「……気が付いた時には、浜辺にいたの。海の向こうに、アジュガが見えて……」
「それで、港街だと分かったのか?」
「……うん」
シェリアの話に、テオドールは無意識のうちに眉を寄せていた。
確かに孤児院がある街――アジュガと、彼女が働いていた港街ネリネは地続きではある。だが、アジュガへの陸路は大きく迂回する必要がある上に険しい山道で、ほとんど開拓されていない。
ネリネからアジュガには定期的に船が出ていて、基本的には海路を使うはずだ。
しかし、彼女を魔女だと言って連れ去った男達は馬車を使っていた。
そして、彼女は馬車ごと投げ出されたはずだというのに、ネリネ側の浜辺にいたという。
作り話にしてはお粗末だ。
それにテオドールには、彼女が嘘をついているとは思えなかった。
この不可思議さには、魔女が関わっているのだろうか。
そこまで考えて、テオドールはふとシェリアを見遣った。
「……何故、魔女の声だと分かったんだ?」
彼女は魔女の顔を見ていない。
それどころか、空を歩いている姿すら見えていなかったはずだ。
何をもってして、魔女であると思ったのか。
シェリアは、小さく首を振った。
「……確信はないの。でも、港で馬車が襲われたって話を聞いて……」
「どういう話だ?」
「アジュガの森じゃないけど、馬車が急に燃え上がったって。それが魔女の仕業だって、だから、あの時に聞こえた声も魔女のものだって……そう思ったの」
「ああ、その話か……」
それは確かに、港街では話題になっていた事件だった。魔女の痕跡を辿っていたテオドールが、ネリネの港街に辿り着いたのもその話がきっかけだ。
しかし、当時は燃えた馬車の痕跡を直接見ることはできなかった。
単なる噂話なのか。それとも本当にその事件があったのか。結局、きちんと確認できないままだった。
彼女が遭遇した相手が魔女であるとは言い切れない。
だが、結び付けてしまったこと自体は、それほど不自然ではないように思えた。
何せ、彼女は不可思議な体験をしているのだ。
「それに……」
再び目を伏せたシェリアは、少し怖がっているようだ。
魔女の話をすれば、その気配が近付いて来る気がした。
「アジュガの森に人がいるなんて、思えなくて……」
そう告げた彼女の手がまた小さく震えた。
自分が誰の、あるいは何の声を聞いたのか。それを考えるだけで、シェリアはどうしようもなく怖かった。アレは誰だったのか。何だったのか──。
テオドールは、ゆるゆるとその手を撫でながら息を逃した。
「アジュガへの陸路は、ほとんど使われていない。……そうだったな?」
「……うん」
ならば、やはり彼女が森で聞いたという声の主は、単なる人間ではない恐れがある。姿を見ていない以上は魔女であるとは言い切れないが、可能性は高いに違いない。
「……」
すっかり気分が落ちてしまったらしいシェリアの様子に、テオドールはハッとした。このような話をして、彼女を追い詰めたいわけではなかった。
これからアジュガに帰すというのに、その周辺で魔女が出たかもしれないなどと。
そのような話を、今するべきではなかったとテオドールは少し後悔した。
「……シェリア」
ゆっくりとその名を呼ぶと、彼女は静かに顔を持ち上げた。
不安げな眼差し。
星のような銀色。
薄く色付いた唇。
下がりがちな眉。
燃え盛る炎の中で見た女とは、──似ても似つかない。
魔女がこのような表情をするとも思えなかった。
「薬を塗ってくれるか、シェリア」
テオドールがそうやって話題を切り替えると、シェリアはぱちりと目を瞬かせた。
「え、あ、うん……えっと」
「ああ、服を脱ぐ。だから、……いいか?」
そう言って彼女の手を離しかけたテオドールは、柔らかな手指の感触にふと視線を落とした。震えていたのは、確かに彼女だ。
だが、離したくなかったのは自分の方だったのかもしれない。
小さな手から少しずつ離した両手には、僅かに彼女の体温が残っていた。