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月明かりの瞳に 2


「──魔女の声を聞いたのは、いつの話だ?」


 テオドールの問いに対して、シェリアは少し困った様子で眉を下げた。

 何と説明すれば良いのか。少し言葉に迷ってしまう。


 自分の手を包むテオドールの大きな手を見つめたまま、シェリアはゆっくりと息を吸った。


「……アジュガの、孤児院から連れ出された時……」

「魔女だと言われた時だな?」

「うん……その時、馬車に乗せられたの」


 銀の瞳を伏せた彼女は、触れ合う手に視線を落としたままだ。

 怖い思いをしたのだろう。

 微かに震える小さなその手を、テオドールはしっかりと握った。


「……それで、……馬車が襲われて……だけど、外のことが分からなかったの」

「だが、何かが起きたんだな?」

「うん……色んな音と声が聞こえて──」


 シェリアは、懸命に思い出しながら、ぽつぽつと言葉を並べ始めた。


 未整備でひどく荒れた山道を馬車が進んでいたこと。

 馬車の中には、見張りの男性が二名いたこと。

 急に馬車が止まり、男性達が外に出て数秒後に悲鳴が聞こえたこと。


 馬の鳴き声が響き渡った直後には、馬車が大きく揺れて引き倒された。

 御者席の方からも悲鳴が聞こえたが、横倒しになった馬車の中からでは外の様子は窺えない。

 けたたましい音が鳴り響いて悲鳴すら聞こえなくなった後は、不気味な静寂に包まれた。


 外に出ようと動いた時、馬車が再び大きく傾いて、斜面をずり落ちたのだと知った。

 だが、どうしようもない。

 激しい音と振動の中で樹木にぶつかり岩に当たり、少しずつ崩壊していく馬車の中で何もできなかった。

 引き裂かれた幌の隙間から見えた空は、木々に遮られてひどく狭い。


 弾け飛んだ木片が頭にぶつかったあたりで、意識が一旦途切れて──。


「……その時、声がして……"まだ、その時ではない"って言われたの」

「女の声か?」

「うん……知らない声だった」


 シェリアは少し困った様子で、おずおずと視線を持ち上げた。


「……気が付いた時には、浜辺にいたの。海の向こうに、アジュガが見えて……」

「それで、港街だと分かったのか?」

「……うん」


 シェリアの話に、テオドールは無意識のうちに眉を寄せていた。


 確かに孤児院がある街――アジュガと、彼女が働いていた港街ネリネは地続きではある。だが、アジュガへの陸路は大きく迂回する必要がある上に険しい山道で、ほとんど開拓されていない。

 ネリネからアジュガには定期的に船が出ていて、基本的には海路を使うはずだ。


 しかし、彼女を魔女だと言って連れ去った男達は馬車を使っていた。

 そして、彼女は馬車ごと投げ出されたはずだというのに、ネリネ側の浜辺にいたという。


 作り話にしてはお粗末だ。

 それにテオドールには、彼女が嘘をついているとは思えなかった。

 この不可思議さには、魔女が関わっているのだろうか。


 そこまで考えて、テオドールはふとシェリアを見遣った。


「……何故、魔女の声だと分かったんだ?」


 彼女は魔女の顔を見ていない。

 それどころか、空を歩いている姿すら見えていなかったはずだ。


 何をもってして、魔女であると思ったのか。


 シェリアは、小さく首を振った。


「……確信はないの。でも、港で馬車が襲われたって話を聞いて……」

「どういう話だ?」

「アジュガの森じゃないけど、馬車が急に燃え上がったって。それが魔女の仕業だって、だから、あの時に聞こえた声も魔女のものだって……そう思ったの」

「ああ、その話か……」


 それは確かに、港街では話題になっていた事件だった。魔女の痕跡を辿っていたテオドールが、ネリネの港街に辿り着いたのもその話がきっかけだ。

 しかし、当時は燃えた馬車の痕跡を直接見ることはできなかった。

 単なる噂話なのか。それとも本当にその事件があったのか。結局、きちんと確認できないままだった。


 彼女が遭遇した相手が魔女であるとは言い切れない。

 だが、結び付けてしまったこと自体は、それほど不自然ではないように思えた。


 何せ、彼女は不可思議な体験をしているのだ。


「それに……」


 再び目を伏せたシェリアは、少し怖がっているようだ。

 魔女の話をすれば、その気配が近付いて来る気がした。


「アジュガの森に人がいるなんて、思えなくて……」


 そう告げた彼女の手がまた小さく震えた。

 自分が誰の、あるいは何の声を聞いたのか。それを考えるだけで、シェリアはどうしようもなく怖かった。アレは誰だったのか。何だったのか──。


 テオドールは、ゆるゆるとその手を撫でながら息を逃した。


「アジュガへの陸路は、ほとんど使われていない。……そうだったな?」

「……うん」


 ならば、やはり彼女が森で聞いたという声の主は、単なる人間ではない恐れがある。姿を見ていない以上は魔女であるとは言い切れないが、可能性は高いに違いない。


「……」


 すっかり気分が落ちてしまったらしいシェリアの様子に、テオドールはハッとした。このような話をして、彼女を追い詰めたいわけではなかった。


 これからアジュガに帰すというのに、その周辺で魔女が出たかもしれないなどと。

 そのような話を、今するべきではなかったとテオドールは少し後悔した。


「……シェリア」


 ゆっくりとその名を呼ぶと、彼女は静かに顔を持ち上げた。


 不安げな眼差し。

 星のような銀色。

 薄く色付いた唇。

 下がりがちな眉。


 燃え盛る炎の中で見た女とは、──似ても似つかない。


 魔女がこのような表情をするとも思えなかった。


「薬を塗ってくれるか、シェリア」


 テオドールがそうやって話題を切り替えると、シェリアはぱちりと目を瞬かせた。


「え、あ、うん……えっと」

「ああ、服を脱ぐ。だから、……いいか?」


 そう言って彼女の手を離しかけたテオドールは、柔らかな手指の感触にふと視線を落とした。震えていたのは、確かに彼女だ。

 だが、離したくなかったのは自分の方だったのかもしれない。


 小さな手から少しずつ離した両手には、僅かに彼女の体温が残っていた。

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