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大切にすればするほど、壊れやすくなるのよ。
心も言葉も身体も、──命もね。
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街に戻ったテオドールは、火傷の治療を受けた。
怪我の具合としては、それほどひどいものではなかったことが幸いだ。
付き添っていたシェリアは心配そうではあったものの、ヘヴィックが「傷は軽いよ」と説明したことで少しは安堵していた。
それが、昨晩のこと。
テオドールは、宿の寝台に寝そべったまま考えごとをしていた。
時刻は既に昼を回っていたが、起き上がる気にもなれはしない。
昨晩。あの後、シェリアに続いてヘヴィックが追いついた。
彼が言うには、テオドールが森の奥へと向かってから程なくして火柱が立ち上がったらしい。
手持ちの道具だけでは対応が困難だと判断した彼が門まで戻ったところで、カディアンと遭遇した。
そしてカディアンから、シェリアがいないことを聞かされたのだという。
その後、ヘヴィックが一台目の馬車があった位置まで戻った時、あとからシェリアが来た。事情を聞くや否や、彼女は森の奥へと駆け出してしまった──らしい。
シェリアは、自分を心配したのだろう。その程度は理解できる。
だが、自分が魔女と会っている間、彼女は誰にも目撃されていないのだ。
深く考えるべきではないと思えば思うほど。
偶然だろうと思おうとすればするほどに。
テオドールの中には、まさかという思いが巻き起こる。
「……」
彼女は、魔女ではない。
だが、魔女と全くの無関係であるとは言い切れない。
ならば、魔女を殺した時、彼女に何らかの影響がある可能性は否定できないだろう。
そのことが、テオドールの剣先を鈍らせた。
「馬鹿な……」
何のために旅をしているのか。十五年もの間、どれほどの時間を費やして魔女を探してきたというのか。復讐のために、この手が、確かに触れたというのに。
それで逃していては、何の意味もない。
溜め息をついたテオドールは、思考を切り替えたくて扉に視線を転じた。
あれから、カディアンはずっとシェリアに付き添っているようだ。
今朝方、そして昼前に、食事を届けに来た時も一緒にいた。
だが、ふたりとも妙に落ち着かない様子だった。
シェリアが不安がっている様子はよく見るものだ。しかし、カディアンがそうしている様子はテオドールには珍しく思えた。
魔女に遭遇した話は、誰にもしていない。
悪戯に恐怖心を煽る必要はないだろうと判断したからだ。
もしも、魔女がこの街に対して何かを仕掛けようと思っているのなら、とっくにそうしているだろう。
起き上がったテオドールが軽く頭を抱えた時、ゆったりとしたノックが届いた。
応答した直後、扉を開いたのはヘヴィックだ。
「──やあ。具合はどうかな?」
「……おかげさまで」
「無茶はだめだよー。後々響くことだってあるんだから、気をつけなきゃいけないよ」
そう言いながら入って来たヘヴィックの後ろにはシェリアがいた。
しかし、カディアンの姿はない。思いもしない組み合わせに、テオドールは少し驚いた。
ドアを開いた姿勢のままでシェリアを促したヘヴィックが、にんまりと笑みを浮かべる。
「部屋に一人だったから、連れて来ちゃった」
呆気なく言い放つヘヴィックは、緩い笑みを浮かべたままだ。テオドールはシェリアへと視線を向け直して「カディアンはどうした」と問い掛けた。
すると、シェリアは少し迷った様子を見せて、
「お買い物、かな……」
そう告げた。
答える声は、ひどく小さい。そして曖昧だ。
あのカディアンが、行き先を告げずに彼女から離れるとは思えない。
シェリアは落ち着かない様子ではあるものの、怯えているわけではなさそうだ。
ドアを開いたままにしていたヘヴィックが、また笑う。
「まあまあ、とにかくひとまずとりあえずー、君の傍にいる方が安心だろ?」
ひらひらと手を揺らしたヘヴィックは、テオドールを見た。
シェリアが安心なのか。
それとも、テオドールが安心するのか。
その両方だろう。
双方のニュアンスを含ませたヘヴィックは、するりとドアをくぐって廊下に出ていく。慌てたシェリアが振り返るものの、彼はひらひらと手を振って「後は任せたよ」とドアを閉じてしまった。
一瞬ばかり、沈黙が室内に満ちる。
窓の外から賑わいの声が僅かに入り込む程度だ。
「……」
全くもって。
お節介というべきか、世話好きというべきか。
気を遣ってシェリアを連れて来たらしいと分かれば、テオドールはゆっくりと彼女を見遣った。
丈の長いワンピースに身を包んだ彼女は、両手で何かを包むように持っている。
「あ、あの、テオ……」
「……何だ?」
「火傷したところ、痛くない? その……お薬、なんだけど。あのね、薬草から、作ったの。塗り薬……」
遠慮がちに言葉を紡ぎながらベッドに近付いたシェリアは、蓋付きのケースを差し出した。木製のそれは内側に大きな葉が敷かれていて、その上に練られた薬が乗っている。薬草特有の匂いがしているが、決して悪いものではない。すり潰して練りこんだのだろうから、随分と手間を掛けたに違いなかった。
「作ったのか」
「う、うん……あ、ちゃんと、ヘヴィックさんに、作り方を教わったの」
そう言うと、シェリアは開いた蓋を傍らのテーブルに置いた。
そして、改めてテオドールに箱を差し出す。
「新鮮なものだと、治りも早いって……そう、聞いたから……」
薬を押し付けて迷惑かもしれない、と思ったのだろうか。
医者でも術師でも治癒師でも薬師でもないのに、でしゃばってしまったと考えたのだろうか。
懸命に説明をしながらも、遠慮がちな様子が抜けていない。
そんなシェリアの様子に、テオドールはふっと目を細めた。
「シェリア」
その名前を口にするのは、何度目だろうか。
もうきっと、数え切れないほど口にしている。
呼びかけると、シェリアはその銀の瞳をゆっくりと彼に向けた。
美しい色だ。
まるで雲の隙間から差し込む月光のような色合いをしている。
テオドールはその大きな手で、彼女の手ごと箱を包み込んだ。
「すまない」
「う、ううん。テオが謝ることじゃないよ。けど……」
テオドールの言葉に慌てて首を振ったシェリアは、また目を伏せた。
落とした視線の矛先は定まらず、彼の手元を見つめている。
手が触れているからだろうか。
少しばかり、恥ずかしがっているようだ。
「けど、何だ?」
テオドールは静かに先を促した。
しかし、シェリアはまだ迷っている様子だ。
「……ううん。何でもない」
やがて、シェリアは眉を下げてそう言った。
危ないことはしないで。
心配だったから。
怖かったから。
何かあったら。
恐ろしいから。
言いたいことはたくさんあった。しかし、どれも決して彼に対して言える言葉ではなかったのだ。
彼は危険を承知で魔女を探している。彼の目的は復讐だ。そこに危険が伴うことなど、ずっと前から分かっている話だ。
だから今は、別の方向へと意識を切り替えた。
「……テオ。いろんなところに、火傷してるから……乾かさないように、一日三回くらいは塗るといいって」
「ヘヴィックが、そう言ったのか?」
「うん。塗りにくいところは、私が塗るから……えっと、それでもいい?」
「……それもヘヴィックが?」
全く何をそそのかしているのか。
自分の世話を彼女にさせようという魂胆だろうか。そのように言われたら、彼女はきっと献身的に世話をしようと試みるに違いない。
テオドールは、ヘヴィックの何ともいえない笑みを思い出した。
「……ううん」
しかし、シェリアは緩やかに首を振った。
「……背中、とか。塗りにくいところがあるかなって、……だから、その、手伝いたくて」
どうやら、自主的なものだったらしい。
それが分かると、テオドールはやや複雑な気持ちになった。
何もやましいものがあるわけではない。
ないのだが。
「……いいのか。脱がなければならないのだが」
「え? あ、えっと、あまり見ないようにするから……」
ぱちりと目を瞬かせたシェリアは、少し慌てて視線を逸らした。
背中くらい見られたところで何ともない。
問題はそこではないのだが、テオドールはそれ以上は何も言えなくなった。
自分がずっと彼女の手を握っていることに気が付いたからだ。
ほっそりとした指に、頼りないほど小さな手。
指先や付け根が少し赤くなっているのは、塗り薬を練っていたからだろうか。
ちょうど、道具を握り締めた時に当たる部分だ。
テオドールはふと、ロサルヒドの言葉を思い出した。
――手に入れたいなら探せ。失いたくねえなら手を離すなよ──
彼は確かにそう言っていた。
失いたくないものは何か。
今のテオドールには、それがはっきりと分かっていた。
「……シェリア」
小さく呼ぶと、シェリアはゆっくりと視線を持ち上げた。
この彼女に、シェリアに、もしものことがあるかもしれない。
その可能性が否定できないまま、魔女に手を出すことなど不可能だ。
「──魔女を、見なかったか」
その問いに、シェリアは困惑した様子で首を振る。
だが、テオドールは重ねて言葉を続けることはしなかった。
昨晩のことだけではない。
どこかで。何かの時に。
あるいは──。
「──……声を、聞いただけなの」
シェリアの言葉に、テオドールはその小さな手を緩やかに握り直した。