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銀と金のしらべ 4


 荒れた地面に散らばっている長い髪。無造作に投げ出された細い四肢。

 傍らでうねる炎の橙色に照らし出された白い肌を見つめたまま、テオドールは動けなくなった。


 そこにいるのは、無防備な少女のように見えたからだ。

 彼女と同じ顔をして、全くの無抵抗を示している眼前の娘は、一体誰なのか。


 心臓が激しく脈を打って、一気に全身から汗が噴き出した。震える腕に必死で力を込めながら、喉元に突きつけた剣を支える。

 ここにいるのは、自分がずっと殺したいと願い続けた魔女なのだろうか。

 それとも──いいや、有り得ない。

 頭の中で否定を繰り返しながら歯噛みした。


 分かっている。彼女であるはずがない。


「──……ッ」


 一度は、ぐっと押し付けた刃先を薄く持ち上げる。これを突き立てれば、ことが済む。この刃で皮膚を裂いて肉を切るために横に引けばいい。それだけでいい。


 だというのに、テオドールは動けなかった。


 彼女と魔女が、あまりにも似ているからだ。

 同じではない。よく似ているだけだ。だが、似すぎているのだ。あまりにも。


 彼女は魔女ではない。別人だ。

 だが、もしも。

 もしも、彼女と魔女が何らかの影響を受け合う存在であったなら。


 魔法使いの始祖となった神と、何らかの関係があったなら。


 魔女を殺すことで、彼女に何か起きるのではないか。


 テオドールは、それが恐ろしくて剣を振り下ろせなかった。


 傍らで轟々と音を立てて燃え盛る火が粉となって散り、髪や肌を焦がしていく。

 熱も痛みも生じているというのに、動けない。何と無意味なことだろうか。

 あれほど待ち焦がれた瞬間だ。この十五年、待ち続けた瞬間だ。

 この細い喉元を引き裂いて、あるいは薄い胸元に剣を突き立てる。たったそれだけの動作で魔女は死ぬかもしれない。死ぬはずだ。殺さなければならない。殺さなければ。そのために、今までそのために生きてきた。殺すために、殺す以外に何ができるのか分からないほどに、そのためだけに生きてきたはずだ。それなのに──。


 動けないテオドールを見つめる金の瞳が、ゆっくりと細くなった。

 そして、その唇がゆったりと動いて言葉を紡ぐ。


『──あなたには、できないわ』


 その言葉に、テオドールは目を見開いた。

 周囲の音など、もう意識の中に入りはしない。肌が焼ける痛みも、激しい鼓動の音さえも認識できない。


 まるで眼前の女が紡ぐ音だけが、世界の全てであるかのように聴覚を、意識を、すべてを支配する。


『あの時だってそうよ。あなた──何もできなかったでしょう?』


 魔女の細い指先が剣の刃に触れた。

 ただ、触れるだけだ。その僅かな動きに逆らえない。

 呆気なく傍らに逸らされた剣は、ただ虚空に向かって刃先を晒している。

 刃に映り込む炎の揺らめきは相変わらずだ。


 炎はただ、淡々と馬車を消し炭にしている。

 そこに誰かがいたかもしれないというのに、テオドールはそれを気にすることさえもできなかった。


『あなたにはできないの。そう、できないのよ。ああ、そうね。違うわ。あなただけじゃないわ──』


 ゆっくりと身を起こした魔女の顔が近付けられた。

 ふわりと漂うのは、焦げ臭い火にはふさわしくないほど甘い花の香りだ。

 柔らかな花の香りにテオドールの背がぞくりと粟立った。


『──誰にも、何も、できはしないのよ』


 そう言って、魔女はゆっくりと距離を詰めた。

 呆気に取られて、動揺して、呼吸すら忘れてしまいそうなテオドールの唇に柔らかいものが触れる。


 魔女の唇は、ひどく甘かった。


 それは花のようでもあり、蜜のようでもある。

 柔らかくて甘くて優しくて、嘘のようですらあった。



 ──気が付けば、魔女は立ち上がっていた。

 そして、テオドールは地面に膝をついている形だ。

 たった数秒の、たったひと瞬きの、一瞬でしかないというのに何が起きたのか。全く、理解が追いつかない。

 何も聞こえない。何も感じられない。何も視えていない。


 感じるのは、魔女のことだけだ。

 魔女の存在だけが、五感の中で、世界の中で、際立っていた。


『まだよ。あなたは、まだ──』


 ──まだ。


 まだ、何だというのか。

 テオドールが顔を上げた時には、既に魔女の姿はなくなっていた。

 あの花のような香りすら残ってはいない。


 重ねられた唇の感触だけが、妙に生々しく居座っている。


 手の甲で唇を拭ったテオドールは、背後で焼け落ちていた馬車を振り返った。

 既に馬車としての形すら失っているそれは、もはや単なる炭の塊に過ぎない。

 今の出来事は何だったのか。幻想か。それとも夢だったのか。

 数分のようでいて数秒のようでいて、数時間のような、ひとときだった。


「……シェリア」


 震える唇で囁き落とした音は、自然と彼女の名前を形作っていた。

 膝に力を込めて立ち上がり、いつの間にか落としていた剣を拾う。


 テオドールは、無性に彼女に会いたかった。

 どうしても、あの声が聞きたかった。

 とにかく無事であることを確かめたかった。


 小さくなり始めた火が、あちらこちらで燻っている。

 当初の目的を思い出したものの、そんなことはどうでもよくなっていた。


「──テオ!」


 拾った剣を鞘に収めたとき、森の中から彼女の声が届いた。

 聞き間違えるはずもない。

 ハッとして振り返ったテオドールのもとに、小さな身体が駆け寄ってきた。

 暗い森の中で、僅かに残った火と月明かりによって照らされた髪は──銀色だ。


「……シェリア」


 ゆっくりとその音を口にすると、喉奥に残り続けていた痛みを伴う熱が下がっていく気がした。

 腕を伸ばしても、彼女は逃げようとはしない。その細い両肩に手を置けば、本当に華奢な少女なのだと分かる。


「テオ、大丈夫……?」


 困惑気味に眉を下げたシェリアが、ゆっくりと手を伸ばした。

 彼女が触れたのは、テオドールの頬だ。

 火が触れてしまったのか。赤い傷が出来ている。

 傷には直接触れないように気をつけながら、シェリアは彼の腕にも触れた。

 彼が纏う服には、ところどころに焦げた痕跡が残っている。


 怪我をしているのではないだろうかと、シェリアは思わずテオドールの顔を見上げた。


 不安がっている銀の瞳。

 それと視線が重なった時、テオドールは反射のように腕を動かしていた。


「──……っ、テオ……?」


 戸惑う声が聞こえた。

 しかし、もうだめだった。


 強く抱き締めた彼女の身体は、あまりにも小さくて細くて頼りない。

 あの独特な花の香りはしない。だが、どこか優しい、まるでミルクのような甘さが漂っている。


 どうして、ここにいるのか。

 夜の森には入るなと言っただろう。

 道を外れた場所まで入り込むのは、あまりにも危ない。

 一人でこんなところに来てはいけない。

 誰かに何か言われたのか。


 言いたいことも聞きたいことも重なっているというのに、テオドールは何も言えはしなかった。


 魔女を殺したとして。

 彼女に、もしものことがあったら――。


 ヘヴィックの言ったように。

 あるいは、ロサルヒドが言っていたように。


 彼女と魔女は別人で、しかし何らかの繋がりがあったとしたら。


「……すまない」


 テオドールは、彼女を抱き締めたまま眉を寄せて目を閉じた。

 恐ろしくて堪らない。自分はずっと、魔女を殺すために、故郷の復讐を果たすために、家族の仇討ちのために、そのためだけに生きていたというのに。

 彼女に何かが起こるのなら──そう思ってしまった。


 躊躇いや戸惑いですらない。

 魔女の首筋を捉えたというのに、剣を押し付ける以上のことが出来なかった。


 魔女を、殺せなかったのだ。


 テオドールはその事実に打ちのめされた。


「テオ、どうしたの……?」


 小さな手が遠慮がちに触れてくる。

 戸惑っているのだろう。

 不安がっているのだろう。

 心配だってしているだろう。

 彼女は、シェリアは、優しい少女だから。


 その事実に安堵している自分に気が付いて、テオドールは嘆息気味に息を吐き出した。


 まだ、できない。

 ──まだ、とは。


 あれは一体どういう意味なのか。

 シェリアを抱き締めたまま、テオドールは暗がりを取り戻した森を、ただ見つめた。

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