荒れた地面に散らばっている長い髪。無造作に投げ出された細い四肢。
傍らでうねる炎の橙色に照らし出された白い肌を見つめたまま、テオドールは動けなくなった。
そこにいるのは、無防備な少女のように見えたからだ。
彼女と同じ顔をして、全くの無抵抗を示している眼前の娘は、一体誰なのか。
心臓が激しく脈を打って、一気に全身から汗が噴き出した。震える腕に必死で力を込めながら、喉元に突きつけた剣を支える。
ここにいるのは、自分がずっと殺したいと願い続けた魔女なのだろうか。
それとも──いいや、有り得ない。
頭の中で否定を繰り返しながら歯噛みした。
分かっている。彼女であるはずがない。
「──……ッ」
一度は、ぐっと押し付けた刃先を薄く持ち上げる。これを突き立てれば、ことが済む。この刃で皮膚を裂いて肉を切るために横に引けばいい。それだけでいい。
だというのに、テオドールは動けなかった。
彼女と魔女が、あまりにも似ているからだ。
同じではない。よく似ているだけだ。だが、似すぎているのだ。あまりにも。
彼女は魔女ではない。別人だ。
だが、もしも。
もしも、彼女と魔女が何らかの影響を受け合う存在であったなら。
魔法使いの始祖となった神と、何らかの関係があったなら。
魔女を殺すことで、彼女に何か起きるのではないか。
テオドールは、それが恐ろしくて剣を振り下ろせなかった。
傍らで轟々と音を立てて燃え盛る火が粉となって散り、髪や肌を焦がしていく。
熱も痛みも生じているというのに、動けない。何と無意味なことだろうか。
あれほど待ち焦がれた瞬間だ。この十五年、待ち続けた瞬間だ。
この細い喉元を引き裂いて、あるいは薄い胸元に剣を突き立てる。たったそれだけの動作で魔女は死ぬかもしれない。死ぬはずだ。殺さなければならない。殺さなければ。そのために、今までそのために生きてきた。殺すために、殺す以外に何ができるのか分からないほどに、そのためだけに生きてきたはずだ。それなのに──。
動けないテオドールを見つめる金の瞳が、ゆっくりと細くなった。
そして、その唇がゆったりと動いて言葉を紡ぐ。
『──あなたには、できないわ』
その言葉に、テオドールは目を見開いた。
周囲の音など、もう意識の中に入りはしない。肌が焼ける痛みも、激しい鼓動の音さえも認識できない。
まるで眼前の女が紡ぐ音だけが、世界の全てであるかのように聴覚を、意識を、すべてを支配する。
『あの時だってそうよ。あなた──何もできなかったでしょう?』
魔女の細い指先が剣の刃に触れた。
ただ、触れるだけだ。その僅かな動きに逆らえない。
呆気なく傍らに逸らされた剣は、ただ虚空に向かって刃先を晒している。
刃に映り込む炎の揺らめきは相変わらずだ。
炎はただ、淡々と馬車を消し炭にしている。
そこに誰かがいたかもしれないというのに、テオドールはそれを気にすることさえもできなかった。
『あなたにはできないの。そう、できないのよ。ああ、そうね。違うわ。あなただけじゃないわ──』
ゆっくりと身を起こした魔女の顔が近付けられた。
ふわりと漂うのは、焦げ臭い火にはふさわしくないほど甘い花の香りだ。
柔らかな花の香りにテオドールの背がぞくりと粟立った。
『──誰にも、何も、できはしないのよ』
そう言って、魔女はゆっくりと距離を詰めた。
呆気に取られて、動揺して、呼吸すら忘れてしまいそうなテオドールの唇に柔らかいものが触れる。
魔女の唇は、ひどく甘かった。
それは花のようでもあり、蜜のようでもある。
柔らかくて甘くて優しくて、嘘のようですらあった。
──気が付けば、魔女は立ち上がっていた。
そして、テオドールは地面に膝をついている形だ。
たった数秒の、たったひと瞬きの、一瞬でしかないというのに何が起きたのか。全く、理解が追いつかない。
何も聞こえない。何も感じられない。何も視えていない。
感じるのは、魔女のことだけだ。
魔女の存在だけが、五感の中で、世界の中で、際立っていた。
『まだよ。あなたは、まだ──』
──まだ。
まだ、何だというのか。
テオドールが顔を上げた時には、既に魔女の姿はなくなっていた。
あの花のような香りすら残ってはいない。
重ねられた唇の感触だけが、妙に生々しく居座っている。
手の甲で唇を拭ったテオドールは、背後で焼け落ちていた馬車を振り返った。
既に馬車としての形すら失っているそれは、もはや単なる炭の塊に過ぎない。
今の出来事は何だったのか。幻想か。それとも夢だったのか。
数分のようでいて数秒のようでいて、数時間のような、ひとときだった。
「……シェリア」
震える唇で囁き落とした音は、自然と彼女の名前を形作っていた。
膝に力を込めて立ち上がり、いつの間にか落としていた剣を拾う。
テオドールは、無性に彼女に会いたかった。
どうしても、あの声が聞きたかった。
とにかく無事であることを確かめたかった。
小さくなり始めた火が、あちらこちらで燻っている。
当初の目的を思い出したものの、そんなことはどうでもよくなっていた。
「──テオ!」
拾った剣を鞘に収めたとき、森の中から彼女の声が届いた。
聞き間違えるはずもない。
ハッとして振り返ったテオドールのもとに、小さな身体が駆け寄ってきた。
暗い森の中で、僅かに残った火と月明かりによって照らされた髪は──銀色だ。
「……シェリア」
ゆっくりとその音を口にすると、喉奥に残り続けていた痛みを伴う熱が下がっていく気がした。
腕を伸ばしても、彼女は逃げようとはしない。その細い両肩に手を置けば、本当に華奢な少女なのだと分かる。
「テオ、大丈夫……?」
困惑気味に眉を下げたシェリアが、ゆっくりと手を伸ばした。
彼女が触れたのは、テオドールの頬だ。
火が触れてしまったのか。赤い傷が出来ている。
傷には直接触れないように気をつけながら、シェリアは彼の腕にも触れた。
彼が纏う服には、ところどころに焦げた痕跡が残っている。
怪我をしているのではないだろうかと、シェリアは思わずテオドールの顔を見上げた。
不安がっている銀の瞳。
それと視線が重なった時、テオドールは反射のように腕を動かしていた。
「──……っ、テオ……?」
戸惑う声が聞こえた。
しかし、もうだめだった。
強く抱き締めた彼女の身体は、あまりにも小さくて細くて頼りない。
あの独特な花の香りはしない。だが、どこか優しい、まるでミルクのような甘さが漂っている。
どうして、ここにいるのか。
夜の森には入るなと言っただろう。
道を外れた場所まで入り込むのは、あまりにも危ない。
一人でこんなところに来てはいけない。
誰かに何か言われたのか。
言いたいことも聞きたいことも重なっているというのに、テオドールは何も言えはしなかった。
魔女を殺したとして。
彼女に、もしものことがあったら――。
ヘヴィックの言ったように。
あるいは、ロサルヒドが言っていたように。
彼女と魔女は別人で、しかし何らかの繋がりがあったとしたら。
「……すまない」
テオドールは、彼女を抱き締めたまま眉を寄せて目を閉じた。
恐ろしくて堪らない。自分はずっと、魔女を殺すために、故郷の復讐を果たすために、家族の仇討ちのために、そのためだけに生きていたというのに。
彼女に何かが起こるのなら──そう思ってしまった。
躊躇いや戸惑いですらない。
魔女の首筋を捉えたというのに、剣を押し付ける以上のことが出来なかった。
魔女を、殺せなかったのだ。
テオドールはその事実に打ちのめされた。
「テオ、どうしたの……?」
小さな手が遠慮がちに触れてくる。
戸惑っているのだろう。
不安がっているのだろう。
心配だってしているだろう。
彼女は、シェリアは、優しい少女だから。
その事実に安堵している自分に気が付いて、テオドールは嘆息気味に息を吐き出した。
まだ、できない。
──まだ、とは。
あれは一体どういう意味なのか。
シェリアを抱き締めたまま、テオドールは暗がりを取り戻した森を、ただ見つめた。