道を外れてしまえば、鬱蒼と生い茂った木々が行く手を阻んだ。それでも、狭い獣道を駆け抜けて、奥へ奥へと突き進む。
空の一部が赤く染まって見えるほどの火柱だというのに、現場はひどく離れているようだ。
「……クソッ!」
この距離で、赤ん坊の泣き声など聞こえるはずがない。有り得ない。
焦燥と苛立ちの中で冷静になった頭の一部が警鐘を鳴らしていた。
だが、それでもテオドールは立ち止まらない。
立ち止まることが、できなかった。
木々の隙間から漏れ出ている炎の揺らめきに、妙なデジャブを感じていたからだ。焦げ臭さが鼻を掠めているというのに、耐え切れないほどの熱は伝わらない。
その炎は、明らかに異質だった。
「──……!」
剣を引き抜きながら大木を避けて前に飛び出した直後、急に開けた場所へ出た。
伐採されたのか。森にぽっかりと穴が開いたように、その周辺だけ木々が途切れている。開けたその場所で轟々と音を立てて燃え上がっているのは、横倒しになった馬車本体だ。
周囲には、外れた車輪などの馬車の破片や積荷だったものなどが散乱している。
生臭さと焦げ臭さが混在していて、ひどいニオイが周囲に立ち込めていた。
地面を舐めるように這う炎は馬車ごとその周辺を覆い尽くしているが、それ以上の広がりは見せていない。
右腕で剣を握り締めたテオドールは、左手の甲で鼻を庇いながら馬車へと歩み寄った。
燃え盛る炎は確かに馬車を焼いているというのに、やはり熱は感じられない。
とうに炭化してしまったらしい破片や燃えカスまで転がっているというのに、だ。
燃え尽きた幌が垂れ下がり、地面で黒い塊となっている。
馬車の枠組みもほとんど燃え落ちてしまっていた。ほどなく、その形は失われるだろう。
これでは、人がいたとしても分からなくなっているに違いない。
テオドールは眉間に皺を寄せながら、熱のない炎を睨みつけた。
対象だけを焼き尽くす不可思議な炎。
山賊達を襲った火を思い出せば、剣を握る手が自然と強張った。
その時だ。
真上から荒々しい風が吹き込んで、炎を更に高く立ち上がらせた。
空から大地に降り注いだ風は跳ね上がり、まるでつむじ風のように森全体へと広がっていく。
左腕を持ち上げて顔を庇ったテオドールは、眉を寄せながら勢いを増した炎を見た。
深紅に染まった炎からの熱が、じわじわと増していく。
頬に触れる風が熱くて、息をするだけでも喉奥が痛い。
顔を庇っている手の甲も腕も、そして剣を握り締める手までもが熱に覆われる。
月明かりしかない夜の森を煌々と照らし出す真っ赤な炎。
その中で、とうに形を失った馬車の向こう側で──何かが立ち上がる。ゆらりとゆらめいたそれは、炎の中でゆっくりと動いていた。
「──……ッ!」
テオドールは、思わず息を飲んだ。
そして喉の焼けるような痛みも忘れて、呼吸すらも忘れて、ただ、炎の中を凝視した。再び舞い降りてきた風によって炎が左右に引き裂かれる。その裂け目から覗くその姿。
立ち上がったのは、少女だった。
きらめくような長い金の髪が、炎を反射してオレンジにも似た色を宿している。
ほっそりとした薄い身体。
華奢な肢体に纏うのは、純白のワンピース。
まるで眠りから覚めたかのように。
あるいは何かを拾い上げたかのように。
ゆっくりと背を伸ばして立ち上がった少女が、目を閉じたままの顔を天へと向ける。
月明かりと炎に照らし出されたその横顔を、テオドールは確かに知っていた。
その瞬間、荒々しい風の音も炎の激しい勢いも、すべてが一瞬にして遠ざかる。
熱による痛みは確かにあるのに、すべての音がなくなった気がした。
心臓だけが激しく暴れて存在を主張している。
火柱を見た瞬間、確かに"まさか"とは思ったのだ。
だが、その"まさか"が現実になったことが信じられなかった。
しかし、見間違えるはずもない。
あれは確かに、そして確実に、──魔女だ。
舞い散る火の粉を気にした様子もなく、ゆっくりと顔を傾けた少女が瞼を持ち上げる。瞼の裏に隠されていた双眸は、やはり金色だった。
そして、少女は──魔女は、テオドールの姿をその瞳に映すなり、のんびりと微笑んだ。
その瞬間、テオドールの思考も意識も魔女の存在すべてに塗り替えられた。
殺さなければならない。
殺さなければ。
今ここで。今すぐに。
あの細い喉元を切り裂いて。あの薄い身体を引き裂いて。金色を赤く染め上げて、金色を醜く濁らせて。
そうしなければ、息もできない気分だ。
眼前に存在している魔女のすべてが許せない。微笑う表情さえもおぞましかった。
どうしようもない嫌悪感と恐怖心、そして憎悪の塊がテオドールの胸を暗く覆い尽くしていく。気が付けば、剣を握り締めて歩き出していた。
荒々しく立ち上がる炎の間を駆け抜けて、肌が焦げることも構わず、真っ直ぐに魔女のもとへと向かう。炎を纏ったまま燃え尽きた馬車の残骸を踏み越えて、無我夢中で剣を振るう。
しかし、剣先は魔女に触れることはなく、周囲の炎を一瞬ばかり引き裂いたに過ぎない。ハッとして振り返れば、魔女は後方に立っていた。
「──逃げるなッ、魔女め! 再び罪を犯すつもりか!」
殺さなければ。
殺さなければ。
殺さなければ。
殺さなければならない。この女だけは。生かしておいてはならない。
地面を蹴って踵を返したテオドールは、再び魔女に剣を振るった。
手応えは確かにあったというのに、何かを切り裂いた感触はあったというのに。
見下ろした先には、誰もいない。
焦りと苛立ちを募らせながら周囲を見回したテオドールは、炎の熱と恐怖によって浮かぶ汗を拭うことすらできなかった。
『──私のことを覚えているのね』
背後から響いた声にぞっと背筋が凍る。
振り向きざまに剣を大きく振るっても、そこには誰もいなかった。
『言ったでしょう。これはお遊びなの』
魔女の声が響く。
彼女と、全く同じ声が。
彼女と、似てもにつかない冷たさで。
テオドールは皮膚の痛みに耐えながら、じっと音を窺った。
荒れ狂う炎の燃え盛る音ばかりが周囲を包む。
『追いかけてみて』
魔女が笑う。
嗤う。ただ、嘲笑うのだ。
彼女と全く違う残忍な微笑を浮かべた女が、離れた位置に佇んでいる。
『これは、あなたと私の鬼ごっこよ』
肺を満たす空気さえも熱に覆われて、胸の奥から焼けるような感覚がした。
だが、それでもこの場から離れる気にはなれない。
両手で剣を握り直したテオドールは、再び足元を蹴って駆け出した。
一気に距離を詰めて、周囲の炎を飛び越える。馬車の破片を踏み散らして、燃え尽きた何かを蹴り飛ばして尚も進む。
「──ふざけるなッ!」
遊びだと。遊びだなどと。
そんなことで、そんな理由で。一体どれほどの罪を重ねたというのだ、この女は。
彼女と同じ顔で。同じ声で。同じ瞳で。
舞い上がる炎に飛び込んだテオドールは、その赤い渦の中で息を詰めた。
その直後だ。
たった刹那。
ひと瞬きの間。
ハッと気がついた時には、魔女の首筋に剣を突きつけていた。
馬乗りになった状態で、地面に寝転がっている魔女の首元に剣が僅かに触れている。
それでも、魔女は微笑んだ。
魔女が笑えば、大地に散らばった金の髪が波打つ。
『──まだよ。あなたは、まだ』
魔女が言う。
魔女が笑う。
魔女が囁く。
魔女が。
魔女だ。
魔女だったはずだ。
だというのに、一体どういうことだろうか。
地面に散らばる髪は、炎の光を受けた金だったはずなのに。
周囲で唸っている炎は確かに、確かに現実として存在している。
だというのに。
「──……シェリア」
テオドールは、小刻みに震えながら小さな声で彼女を呼んだ。