*
やめて。
触れないで。
"それ"は、私のものよ。――返して。
*
森を抜けて川沿いを進み続けた馬車は、やがて薄らと水に覆われた石の道に遭遇した。白い石が規則正しく敷き詰められた道の上を、濁りのない水がさらさらと流れている。
「――シェリアっ、すごいぞ。見ろよ!」
カディアンが声を上げると、ずっと大人しく引っ込んでいたシェリアが幌を少しどけて顔を出した。足元の水は夕暮れの光に染まり、きらきらと橙色を反射している。
「わぁ……」
シェリアが小さな声を漏らした。
白い道の先には、銀色の大きな門扉がそびえ立っており、門の内側には城を連想させる小さな建物が並んでいる。
門まで近付いていけば、街の中はすっかり水浸しになっているのだと分かった。
「すごいね」
「ここが水都カラジュムかー! 本当に水の都なんだな」
シェリアの声に、カディアンが笑って目を細めた。ふたりの年相応な反応を横目に、テオドールもまた不可思議な街の光景を眺めていく。
湖の上に建物が浮いているかのようにも見える光景だ。道という道はすべて水浸しになっていて、一見すればまるで水路だ。開かれた門扉の傍まで行くと、馬車の通行を断る看板が見えた。
当然だろう。この水では馬は進めたとしても馬車は難しい。
続いて、馬車の預かり所が矢印で示されている。
案内板には、ついでのように金額も書かれていた。
「親切設計だな……あーあ、ボロい商売だよ、まったくもう」
小さな声で皮肉を口にしたカディアンがゆっくりと馬車を停める。すると、ほどなくして門扉の外側にある小屋から男が出てきた。馬ごと馬車を預かってくれるそうだ。
カディアンが男と話す間に、テオドールはシェリアと共に浅い川のようになっている道に降り立った。他の街と比較して、水都の建物はそれほどカラフルではない。
建物には主に、白と青、そして銀が使われているようだ。
色合いと建物の造形が統一された街並みは、まるで絵画のようでもあった。
水辺で森も近くにあるというのに、街の周辺には野生動物への対策らしきものは見られない。ただ、そこには表の街道にもあった魔物避けが置かれていた。
「取られるかと思ったのに、逆にお金をくれたぞ」
馬車を預けて戻ってきたカディアンが、軽く肩を竦めて言う。
その手には、確かに一枚の銀貨が握られていた。
「……もらっちゃったの?」
「ううん、違うよ。馬車と引き換えに返すんだってさー、ちょっと分かんない仕組みだな」
そう言いながら進むカディアンに続いて、テオドールとシェリアも歩き出した。
門を越えると、いよいよ足元が川のようになっている。
不思議なことに、道に敷かれた石は全くぬめっていない。変色もしておらず、コケすら生えてはいなかった。道から水が引く時間があるのだろうか。だとしても、滑りもしない石は不可思議だ。
テオドールはゆっくりと周囲に視線を巡らせた。
建物自体の形も高さも統一されている。よくよく見れば、壁や窓、扉などには銀の装飾品が多数あしらわれている。
「……幸運の証、か」
テオドールは街の光景に、メマリーの言葉を思い出した。あの不穏な現場を見たあとで、幸運も何もない。そう思う反面、彼女の持つ色合いがそのように扱われていることに安堵のような気持ちもあった。
「──お嬢ちゃん! お嬢ちゃんはこっちを使いなよ」
水びたしの道を前にしてスカートの裾を気にしていたシェリアに、通りすがりの男が声をかけた。男が示す先――その道の端には二列の白い石が並べられていて、その間に白い板が置かれている。どうやら、そこを歩けば濡れないようにはなっているらしい。
とはいえ、板の幅はせいぜい一人分程度だ。日常的に使われてはいないのだろう。
道というよりは、単なる縁石に過ぎないのかもしれない。石と石の間、板の下にも水が流れている。
おずおずと礼を告げたシェリアに、笑って手を振った男が去っていく。
見知らぬ旅人にも気安いというべきか、親切だというべきか。
水の都と呼ばれる街――カラジュムの雰囲気は、他の街とは異なっていた。
見慣れない三人組に様子を窺う視線は飛ばない。
浅い水路の右側に並ぶ店は屋台のようになっていて、店の前面に商品が並べられている。カウンター越しに店員と話せる形で、店内に入り込まずに買い物ができる仕組みのようだ。店内を濡れた靴で歩かれなくても済むのだから、店側のメリットもある。
水路の左側に設置された石の上を歩くシェリアは、店を眺めるテオドールの姿を見つめていた。彼がそうやって、何かに興味を持って観察している姿は新鮮だったからだ。
「――ッ!」
ゆっくりと歩いていたその時、急に強い風が巻き起こった。
深く被っていたシェリアのフードが大きく揺れて弾かれる。
慌てたシェリアがフードの縁を左右から両手で押さえ込んだ時、「待ってくれ!」と若い男の声が届いた。
「君、そこの君! ちょっと待ってくれ、よく見せて!」
板の上で動きを止めたシェリアのもとに、声の主が駆け寄った。
整った顔立ちの、細身の若者だ。白を基調とした服に身を包んでいて、服装ばかりは聖職者を連想させる。
反対側の水路の端にいたテオドールが彼女のもとへ戻るよりも早く、青年はシェリアの手を取った。
「君、君の髪、すごく素敵じゃないか! 銀の色、ああ、星の色だ。なんて幸運なんだろう。君の名前を教えてくれるかい?」
両手を握り締められたシェリアは、分かりやすく戸惑いの色を浮かべた。
そんな彼女のもとへと、水の流れに多少難儀しながらもテオドールが近付いていく。
「あ、テオ……」
おろおろと戸惑っているシェリアは、近付いて来たテオドールと青年をそれぞれ交互に見遣った。まるで助けを求めるような調子だ。こんな風に話しかけられたことがないせいだろう。
すると、青年は手を離さないまま「この子の知り合い?」と首を傾げた。
だが、彼がテオドールを見たのは数秒程度だ。
すぐにまた、シェリアへと向き直った。そして、にっこりと笑みを浮かべる。
「僕は、ヘヴィック。銀のお嬢さん、名前を教えておくれ。君は幸運の女神だ。素敵な出会いにときめくよ」
分かりやすいほどの口説き文句に、テオドールは思わず眉を寄せてしまった。