メマリーが離れのリビングから立ち去ったあと、数分ほどでカディアンが戻ってきた。厩舎にいる馬達は外の騒がしさに反して、そこまで動揺してはいなかったようだ。
カディアンからの報告に、シェリアは少し安心した様子を見せた。馬は繊細な生き物だ――と知っていたからだ。
「雷も止んだし、明日には出発できるといいな」
ホットミルクを口にして温まった息を吐いたカディアンは、正面で座っているふたりを見た。わざわざ隣り合って座っていることが少し面白かったが、その理由を問いはしない。
「……そうだな」
飲み終えたカップに視線を落としていたテオドールが同意を示す。
そんな彼の傍らで、シェリアは曖昧な調子で頷いた。
「随分と持ち直したようだ」
窓に視線を転じたテオドールは、一晩中ずっと続いていた雨風が嘘のように弱まっていることを確認した。このまま弱くなっていけば、明日の朝には晴れてくれるだろう。
「……シェリア。あまり眠れていないのだろう。静かなうちに、少し休んでおいたらどうだ」
テオドールは隣にゆっくりと視線を戻した。
名前を呼ばれて顔を上げたシェリアは、少し戸惑っている。
「あー、寝不足はよくないね。ちょっと横になるだけでも違うんだぞ」
そこにカディアンも加勢した。
分かりやすく調子を崩しているわけではないが、明日の朝には出発するつもりだ。
体調を整えておいた方がいい。
ふたり分の視線を受けたシェリアは戸惑いながら、静かに立ち上がった。
「ええっと……じゃあ、部屋に戻るね」
控えめに小さな声でそう告げると、彼女は軽く頭を下げた。
そしてソファから離れて、宛がわれた部屋へと向かう。
扉が開かれ、そして閉じられるまで。
その数秒の間、テオドールもカディアンも、彼女をただじっと見つめていた。
「――さーて、ルートの確認をしようか」
扉が閉じられると、カディアンはいそいそと地図を取り出した。
旧街道がメインとなっている地図は、このルートに入るためにわざわざ手に入れた代物だ。
「水都カラジュムに寄ってから、ガレキ街だよな?」
「ああ」
「旧街道沿いにここまで行って、あとは川沿いに進むだけだなぁ……表の街道に戻ってもいいけど、むしろ遠回りかも」
「道が崩れている可能性はあるか」
「うーん。商人達が問題なく行き来してるなら、大丈夫だと思う」
首を傾げたカディアンは、指先でルートをなぞり始めた。
この村から出て旧街道を進んで森を越えた先、表の街道との間に流れている川に沿ってに進む。途中からは旧街道を少し外れる形になるが、川沿いに進んだ先にあるのが水都カラジュムだ。
「これが最短ルートだなー。森を避けるなら、こっち側に行くけど……まぁ、だいぶ遠回りだ」
「あちらの街道に戻ると、川を越える分だけ遠いな」
「うん。だから、特に問題ないなら、最初のルートでいいかな」
様子を窺うように、カディアンがちらりとテオドールを見遣る。
「ああ、構わない。いずれにせよ、川の先だ」
テオドールが頷けば、カディアンは「決まりだね」と言って地図を折り畳み始めた。そして地図をテーブルの端に追いやって、ミルクの入ったカップに口をつける。
いささか温くはなっているものの、優しい甘さは好ましい。
「……あのさぁ」
カップをテーブルに戻したカディアンは、シェリアの入った扉へと目を向けた。
それから、正面に座っているテオドールへと視線を転じる。
「なんだ」
テオドールは相変わらずの様子で、特に余計な言葉は口にしない。
「いいの、あの子のこと」
カディアンは口許を歪めて、ソファに背もたれに背中を押し付けた。
即答はない。テオドールは、むしろ迷った様子で視線を落としてから「何がだ」と問いを返した。
本当に分からないのなら、とんだ鈍感野郎だ──カディアンはそう思って肩を竦め、テーブル上に残っていた果実を手に取った。
「気になってるんだろ?」
「……連れ帰りたいのではないのか」
「それはそうだけど」
強引にでも、シェリアを連れ帰りたい。それは確かに、カディアンの本音ではあった。
そのためにわざわざアジュガを出て海を越え、ネリネの港街まで向かい、足取りが分からないままに探して旅を続けたのだ。
「……何だよ」
カディアンは不満げに唇を歪めた。
テオドールは気が付いているはずだ。彼女が、本当はまだ旅を続けたがっていることに。一緒にいたがっていることに。
それでも知らない振りをして、気付かないようにして、曖昧にしているだけだ。
本当は分かってるクセに。
そう言いたくて、しかし、言えなかった。カディアンもまた、彼女の気持ちを無視している状態だったからだ。
「彼女には……」
テオドールが、ゆっくりと口を開いた。
しかし、言葉は一旦そこで途切れてしまう。
何と言えばいいのか。結局は分からなくなってしまった。
「……彼女には、シェリアには……申し訳ないことをしたと思っている」
たとえば、あの夜。
魔女だと叫んでしまったこと。
たとえば、あの日。
魔女の餌になると考えてしまったこと。
たとえば、あの時。
魔女を探すヒントになると思ってしまったこと。
そして、あの瞬間。
彼女の気持ちを無視して、平穏であろう選択肢を押し付けたこと。
テオドールがシェリアには穏やかに過ごして欲しいと、そう願っていることは確かだ。普通の少女として、安全な場所で、魔女だと迫害されることもなく過ごしていく権利が彼女にはある。
しかしそれと、共に過ごしていたいという気持ちは、全くもって矛盾している。
安全でいて欲しいと願う気持ちと、共に在りたいと願う気持ちは、どうしても成立してはくれない。
「……そんなことないと思うよ。みんな、必死になってるだけ」
緩やかに否定を返したカディアンは、果実に齧りついた。
シャクシャクと音を立てて咀嚼しながら、足元に視線を落とす。
それぞれが、それぞれの目的を持っていて、願いを抱えている。ただ、そのどれもが、全員が納得できる形で落ち着くことなどない。それだけのことだ。
しばらくは、カディアンが果実を食べる音だけが室内に響いた。あれだけ荒々しかった風も、今はすっかり落ち着いてしまっている。
今ばかりは、せめて多少うるさく騒いでいてほしいものだと、カディアンは居心地の悪さを覚えていた。
「……聞いても構わないか」
沈黙を破ったのは、意外にもテオドールの方だった。
「孤児院の者達は、彼女を受け入れられるのか」
「……そ、そんなの……そんなの当たり前だろッ!」
テオドールの言葉にカディアンは思わず声を大きくした。
しかし、テオドールは怯まない。
「……一度は魔女として連れ去られたのだろう。万が一として……有り得ない話ではない」
たとえ、孤児院の者達が魔女を見たことがないとしても。
その存在を知っていて、その非道を聞いたことがあるのであれば。
疑惑は燻り続け、疑念は広がり、それらはやがて不安になっていく。
カディアンは多少むっとしていたが、数秒ほどして肩を落としながら溜め息をついた。
「……そうじゃない人だって、いるかもしれないけどさ。だったら、……だったら」
カディアンは絞り出すように言った。
「……あの子の居場所は、どこにあるんだよ」
魔女だ――なんて、言い掛かりだ。
その証拠に、彼女が長年過ごした孤児院は無事じゃないか。
しかし、テオドールの懸念はもっともだ。
既に孤児院を離れて久しい。カディアンも、今の孤児院の状態を正確に把握しているわけではない。もしかしたら、シェリアをよく思わない者もいるかもしれない。
「……そうだな。すまない」
「僕は連れて帰るよ」
「ああ。そうしてくれ」
少なくとも、旅を続けるよりは安全だろう。孤児院の者達が彼女を魔女ではないのだと、そう信じてくれる可能性がないわけではない。
案外、もう全く何の疑問も疑惑も持っていないかもしれない。
テオドールは何とか良い方向に思考を切り替えながら、窓の外を見遣った。
少しずつ、空が晴れ始めている。
嵐は悪いものを流してくれるらしい。ならば、もうしばらく続いてくれないだろうか。そう考えてから、緩やかに首を振って思考を払う。
雨に洗われた風は、どこに向かうだろうか。
今はただ、不穏が遠ざかることを願うばかりだった。