村に到着した頃には、既に嵐による風が強まっていた。木々のざわめきの中から、何かが飛び出してきたとしても分からないくらいだ。
村の入り口付近に馬車を停めたカディアンは、「宿があるか聞いてくるよ」と言って御者席から降りた。雨はまだ降り出していないものの、空には重たげな雲が広がっている。濃厚な雨の匂いを感じ取ったテオドールは、警戒気味に周囲を見回した。
雨は、ほどなく降り始めるだろう。
「……どうかしたのか」
落ち着かない様子でいるシェリアが、幌に触れた。外を覗こうとしているのだろう。そんな気配に気が付いたテオドールは、そっと問い掛けた。
途端に、小さな手が跳ね上がる。
数秒ほどは沈黙ばかりが返された。
「……ううん。そうじゃ、ないけど……」
歯切れの悪い声は幌の向こう側だ。
テオドールからは、荷台にいるシェリアの表情は窺えない。
だが、その声の調子から何か不安があるらしいとは知れた。
「……火事の件か」
テオドールの問いに、シェリアは小さく息を飲んだ。
「……知ってるの?」
「ああ。宿場町で聞いた」
「そう……」
風車の街で火事が起きた――その噂は、確かに聞いていた。
しかし、不審火だとか放火だとか、実際のところはハッキリとは分からない。
曖昧な情報に踊らされるのは、もうたくさんだった。
「気にすることではない」
「でも……」
「村に泊まるのは一晩だ。カディアンか、俺か、どちらかがついている。心配はない」
見知らぬ土地だということを除いても、シェリアをひとりきりにすることには抵抗があった。それは自分も、そしてカディアンも同じだろう。
そう考えたテオドールは、シェリアの様子を窺った。
「……うん、ごめんね」
聞こえてきたのは、謝罪の言葉だ。
テオドールは眉間に皺を寄せながら、じっと幌を見つめた。
その向こう側にいる彼女は、何を思っているのか。
知りたい気持ちはあっても、もう尋ねることは出来ない。
「――大丈夫だって!」
ちょうどそこに、カディアンが戻ってきた。
駆け戻った彼は、急ブレーキをかけて馬車の手前で立ち止まる。
「宿はないけど、旅人用に村長が離れを貸してるんだってさ。僕らだけだから、使ってもいいって」
「そうか。馬はどうする?」
「厩舎があるから、そこを使わせてくれそう。とりあえず、雨が降り出す前に行こう」
テオドールとの会話をひとまず区切ったカディアンは、荷台に回り込んだ。
そして、ほどなくしてシェリアを連れて降りてくる。荷物を降ろしたテオドールは、周囲を警戒しながら彼女の姿を目で誘う。
傍らに歩み寄ってきたシェリアが荷物を持ちたがったが、ひとまずは断っておいた。
「馬だけ連れて行くから、重いものは引っ掛けてもいいぞ」
馬車から馬を解放したカディアンは、手綱を握りながら空を仰いだ。
黒い雲に覆われた空には、今にも降り出しそうな雨の気配が漂っている。
「大丈夫だ」
「そっか。じゃあ、シェリアは? 乗る?」
「ううん、歩くよ。ありがとう」
ふたりからそれぞれに断られたカディアンは、馬を軽く撫でながら肩を竦めた。
村に入り込めば、こんなにも天気が悪いというのに興味本位の村人がちらほらと玄関先から顔を出している。
そのほとんどが老人で、若者の姿はほとんどない。
子どもはいないのか。家の中に押し込められているのか。姿は見えなかった。
「旅人が立ち寄るのは珍しくない、って聞いたけどなぁ」
馬を連れて歩きながら、カディアンは軽く唇を尖らせた。
そして、ゆっくりとシェリアを振り返る。
「女の子がいるからかな?」
「可能性はあるな」
肯定を返したのは、シェリアではなくテオドールだ。
カディアンは納得したように頷いて、再び前を向く。
表の街道でも、彼女と歩いている時にはよく驚かれたものだ。
なるべく休憩を挟んで移動を続けていたが、確かに随分と無理をさせた自覚はあった。
ちらりと視線を落とすと、シェリアはフードを目深に被り直したところだった。
注目されているためか。そわそわと落ち着かない様子でいる。
「……大丈夫だ」
「うん……」
「言っただろう。アジュガまでは、責任を持って連れて行く」
「……うん」
メイン通りであろう道を進むと、正面には一際大きな民家が見えた。
その手前、道の脇には厩舎がある。
「勝手に繋いじゃだめだよな。さっきのおじさん、どこ行ったんだろ……ちょっと見てくるから、持っててくれ」
きょろきょろと周囲を見回したカディアンは、手綱をテオドールに手渡すなり厩舎の裏手にある家へと走って行った。あれやこれやと手配することに手馴れていて、旅慣れている様子だ。
大人しい馬の手綱を握ったテオドールは、荷物を抱え直してシェリアに視線を落とした。
「……カディアンはいい奴だな」
「え?」
急な言葉に、シェリアは少し驚いたようだ。
しかし、顔を持ち上げると同時にこくんと頷いて肯定を示す。
「うん……いい人だよ、カディは……面倒見がよくて、お兄ちゃんみたいで」
「そうなのか」
「……うん。小さな子の面倒も、よく見てたよ。それに、運動も勉強もすごく頑張るから……」
控えめな声を聞きながら、テオドールは目を細くした。
孤児院にいた頃の話は、きちんと聞いたことがない。しかし、辛い場所ではなかったのだと思えて、それが少し助かった。
もしも、悲しい思いをする場所に連れ戻そうとしているのであれば、それはあまりにも非道だ。
「……きっと、私のことも、一生懸命に探してくれたんだと思う」
静かにそう告げたシェリアは、少しばかり眉を下げた。
家から出て来た壮年の男性を連れて、カディアンがゆっくりと戻って来る。
その姿を眺めながら、シェリアは小さく肩を落とした。
戻りたくない、なんて。
もう言えなくなっていた。
カディアンが、必死になって探してくれたのだろうことはよく分かる。彼はそういう少年で、多少強引なところはあるものの、真っ直ぐだ。自分がやろうと思ったことには、いつだって全力で努力している。
「……」
もしも。
もしも、本当に魔女だったら。
もしも、魔女だったら──?
カディアンはそれを否定するだろう。
しかし、可能性はまだずっと、どこかで燻ったままなのだ。
消えない火が残っている限りは、もしかしたら、と問うことをやめられそうにない。
シェリアは故郷のことを思っては、少しばかり憂鬱な気持ちになった。