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愛が素晴らしいですって?
とんでもない思い込みだわ。
だってあなた、万人を平等には愛せないじゃない。
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翌日。湖のある宿場町を発った三人は、旧街道をひたすらに進んでいた。カディアンが馬車を持っている分だけ、移動は比べものにならないほどに楽だ。荷台を覆い隠している幌のおかげで、気を張る事も人目を気にする必要もほとんどない。
「カラジュムは、旧街道をこのまま進んで、村ひとつ挟んで……ああ、丘だな。この丘を越えた先にあるよ」
馬をテオドールに任せたカディアンが、シェリアに道を説明する。
地図に視線を落としているシェリアはいつも通りに大人しいもので、特に質問を挟むこともしなかった。
手綱を握るテオドールは、荷台のふたりを気にはしているものの、特別に声をかけることはしない。
「馬車なら、休憩を挟んでも明日にはつくと思うけど、天気がなぁ……」
「……お天気?」
「あー、うん。嵐が来るかもしれないから、何とも言えないな」
ちらりと馬車の外を気にしたカディアンは、御者席に繋がる方の幌を少し退けた。
空はまだ曇っているだけだが、遠くからは雷の音が近付いてきている。
馬が驚いてしまう可能性も考えると、このまま進むのは確かに危険だ。
「途中の村で休ませてもらってはどうだ」
テオドールは、迷っているらしいカディアンに声をかけた。
「あまり大きな村ではなさそうだが、雨宿り程度なら頼めるかもしれない」
「……その方がいいな。よし、じゃあ、村の人にお願いしてみよう。シェリアは、それでいい?」
ふたりのやり取りに口を挟もうとしていなかったシェリアは、確認の声に「うん、大丈夫だよ」とだけ返す。
そんな彼女の調子に、テオドールは喉奥で溜め息を押し殺した。
あれから――彼女の希望を跳ね除けてしまってから、シェリアはやはり自分の希望を言わなくなってしまった。
心配ごとでも不安なことでも構わない。些細なことでも、少し気になる程度のことでもいい。とにかく彼女の気持ちを、考えていることを聞きたがっていたテオドールとしては後退以外の何者でもない。
だが、そのようにしてしまったのは自分自身であるという自覚もあった。
「新しい街道ができてから、こっちはあんまり手を入れられてないからね。道が崩れてるところもあるかもしれないよ」
「ああ、気をつける」
カディアンの言葉にテオドールは努めて、素っ気なくならないように声を返した。
「もう少ししたら交代するから、それまでよろしく」
そう言い残して荷台側に引っ込んだカディアンは、広げていた地図を折り畳み直した。荷台の一部を改造した座席にシェリアが座り、その傍らの板の部分にカディアンが座っている。
胡坐を掻いた彼は荷物の中に地図を戻すと、「それでさ」と口を開いた。
「テオドールは、どこまで来てくれるんだ?」
思いもしない問いに、テオドールは肩越しに荷台を振り返った。
僅かに開いた幌の隙間からは、カディアンの表情は窺えない。
カディアンは御者席を向いたあと、シェリアへと視線を転じた。彼女が気にしているであろうことを代弁したつもりだったからだ。
「……孤児院までは付き添おう。連れ回したのは俺だ」
テオドールは小さく息を吸ってから、感情が声に乗らないように努めなければならなかった。そうしなければ、後悔を滲ませてしまいそうだったからだ。
カディアンは少し笑って「良かったね」とシェリアに告げた。
良いか。悪いか。
感情的な面で言うのであれば、シェリアにとってそれは決して良い返答ではない。
彼はもう別れを決意しているのだろう。
そう思うと、シェリアとしては悲しくて仕方がなかった。
だが、一緒にいたいのだと、そう告げた時の彼の顔が忘れられない。
あの表情は、何を意味していたのだろう。
何に耐えるような、何かを隠すような、そんな表情をしていた彼に、とうとう問いは向けられないままだ。
「……うん。ありがとう、テオ」
シェリアはゆっくりと、そして静かに礼を告げた。
背後から届いた小さな礼の言葉に、テオドールは声を返せない。
そうべきだという理性と、そうしたくないという感情が、いつだってせめぎ合っている。
だが、彼女には安全な場所にいて欲しい――その思いは確かだった。
ふたりがそれぞれに抱いている気持ちを知ってか知らずか。
カディアンは、「聞きたいんだけど」と話を切り替えた。
「シェリアは、ネリネの港でどうしてたって?」
「どう……えっと、酒場でお手伝いをしていたの」
「それは聞いたけど……料理とか? 配膳の方?」
「うーん……色々、かな。お料理とかお酒とか運ぶのも、そうだし……お掃除も」
カディアンが聞きたがったのは、シェリアが孤児院から連れ去られた後の話だ。
しかし、連れ去った男達のことを聞こうとはしない。
もっぱら、辿り着いた港街で何をしていたのか、何を見たのか、どう過ごしていたのか──そういった話ばかりだ。
シェリアは答える速度こそゆっくりだが、特に嫌がる様子もない。
ちょっとしたトラブルもあったらしいものの、それは酒場の酔っ払いが起こす程度の話だ。
多少の苦労はあっただろう。しかし、彼女は彼女なりに頑張って酒場の仕事をこなしていたらしい。
それを聞けば聞くほどに、テオドールとしては、あの日の一言を恨まれていないとは思えなくなっていった。
――魔女だ!
彼女にとって、まるで呪いのような一言だろう。
たったその一言で、彼女が築いたものが崩れ去っていく。
港街で彼女が積み上げてきたものを奪ったのは、自分自身だ。
その罪悪感は、確かにテオドールの中にある。
本当に彼女が魔女だと思ったのだ。
魔女が、か弱い娘の振りをしていると腹が立った。
こんな真似をしてまで、人の心に付け入ろうとしているのかと、嫌悪感すらあった。
彼女は魔女だ。
そう決め付けて旅に連れ回し、何度も彼女がそうではないことを確かめた。そして何度も、彼女の銀色が金に染まる瞬間もまた、目撃している。
「……」
彼女は、魔女なのだろうか。
それとも、魔女が彼女に手を伸ばそうとしているのだろうか。
テオドールは、ただただ、馬を操る手綱を強く握り締めた。