宿から離れたテオドールは、湖のすぐ近くまで足を運んでいた。朝方の宿周辺には、人の姿はほとんど見当たらなかった。だが、湖畔は若い母親に連れられた幼子や、兄弟や友達同士で遊ぶ子ども達で賑わっている。この町の住人なのだろう。
あちらこちらで朝が始まりつつある。
「……」
駆け回って遊ぶ子ども達を眺めながら、テオドールはゆっくりと歩き始めた。
よくよく見れば、旅人らしい親子の姿もある。湖を見たのが初めてだと、はしゃぐ声が響く。
魔女に襲撃される前日──三つを数えたばかりの弟も、ああやって楽しそうにしていたことを思い出した。しかし、何をして遊んでいたときのことか、思い出せなかった。
「――……っ」
テオドールは、ビクッと肩を揺らして立ち止まった。
幼い弟の顔を思い出せなくなっていたからだ。
ぼんやりと輪郭が浮かぶ。笑う顔はハッキリしているのに、ではどういう顔立ちだったのか。
それが、分からなくなっていた。
母親は。父親は――。
愕然としたテオドールは全身の力が抜ける感覚に陥った。
忘れられるはずがない。こんなにも鮮明なのに。
だが、忘れてしまうのだ。
月日は、あまりにも残酷だった。
思い出は、既に遠い。
テオドールは、よろよろと近くのベンチに腰を下ろした。
湖を眺められるベンチは、よく使われているのだろう。
塗装が剥げかかっていて少しばかり軋む。
「……」
あれから十五年。当時七歳だった自分も、既に成人している。
そろそろ、母親が自分を出産した年の方が近いほどだ。家族と過ごした時間よりも、過ごせなくなってからの月日の方が長くなってしまった。
それは現実だ。事実でしかない。
だがその事実に、テオドールは打ちひしがれた。
「おや?」
そんなテオドールの背後で、女性が足を止めた。
そして、振り返らない彼の隣まで歩いてくる。
「お若いの。こんなとこで、奇遇じゃないか」
顔を上げたテオドールは、ハッとした。
傍らに立っていた女性がミレーナだったからだ。
「……どうしてここに」
彼女は確か、街道を進んで行ったはずだ。
こちらの旧街道側に回り込んでいたというのだろうか。
驚いた様子のテオドールに、ミレーナは「ちょっとした野暮用だよ」と笑った。
「久し振りだね。あの子はどうしたのさ?」
「……宿に」
「ああー、まだちょいと早い時間だしね。余裕がある時に、ゆっくりするのは大切だよ」
元気そうな様子で笑ったミレーナは、テオドールの隣に腰を下ろした。
田舎町には不似合いな、仕立ての良いパンツに包まれた脚が無防備に伸ばされる。
「こっちに来てるってことは、検問は問題なかったね?」
「……ああ。カードが役に立った」
「ははっ、それなら良かったよ。ああいうのはね、たまーに起きるんだ」
「……ファムビルの件も、感謝している」
「あー、あれね」
湖に視線を転じたミレーナは、投げ出していた脚をゆっくりと組んだ。
「話は聞けた?」
「ああ。……それと、シェリアがお守りをもらってな」
「お守り?」
「ああ、花弁入りの水晶がついたペンダントを」
「へぇー、アイツも粋なことしてくれるじゃないのさ」
ファムビルとのやり取りを想像したのだろう。
ミレーナは、少々面白がった調子で笑った。
テオドールは、花の街からどこへ行ったのか。そして、何をしたのかを彼女に話し始めた。魔法研究家のロサルヒドに会ったこと。客人として扱われたこと。彼からもらった道具について。
そして、旧街道に入り込んだ理由も併せて告げる。
宿場町での一件や、盗賊が出たことも――炎の件は伏せつつも、話した。
更には続けて、シェリアを故郷に帰すことも口にする。
話す必要はなかった。
ただ、話しておきたかったのだ。
ミレーナであれば、万が一の時に彼女の力になってくれるかもしれない。
それだけの理由ではない。一連の出来事を、自分の中だけに留めきれなくなっていた。
ミレーナは茶化すこともなく、そして口を挟みもせずにただ相槌を返して聞いている。行き場を失った言葉と感情を黙って受け止めているだけだ。
それが、テオドールには有り難かった。
「――……」
しかしその波も、やがては引いていく。
唐突に黙り込んでしまったテオドールは、謝ればいいのか、感謝すればいいのかも分からなくなってしまった。
ミレーナは、そんな彼の背を軽く叩いた。
「私としてはね。アンタ達できちんと決めたなら、それでいいと思うよ」
きちんと決めたなら。
その言葉に、テオドールは目を伏せた。
シェリアの気持ちを、受け止め切れなかったからだ。
半ば強引に決めて、ただ押し付けてしまったに過ぎない。
「きちんと決めるっていうのは、後悔しないって思えるってことさ。どう?」
ミレーナの問いに、テオドールは答えられない。
後悔なら、きっとするだろう。
今でさえも、後悔している。
だが、これ以上は彼女を苦しめるだけだという考えもまた、捨てられなかった。
彼女のことを思えば思うほど、彼女を大切に思えば思うほど、共に在るべきではないと結論付けてしまうのだ。
ミレーナは、緩やかに首を傾げた。
「アンタはまだ若い。復讐をやめるって道もあるんじゃない?」
それは、ファムビルと同じ道だ。
彼は復讐をやめて、弔いのために育て始めた花と共に別の道を歩むことを決めた。
テオドールは、やはり答えられない。
復讐をやめてしまったら、何が残るだろうか。
ただただ、魔女への憎しみを抱え続けていくのではないだろうか。
それが、怖かったのだ。
沈黙したままのテオドールに対して笑みを浮かべたミレーナは、その頭をわしゃわしゃと撫でる。突然のことに驚いて顔を上げる頃には、ミレーナはもう立ち上がっていた。
「アジュガに向かうには海路しかないけど、今は大抵の船が止まっているよ。知ってるだろうけどね」
テオドールの頭から手を離して、ミレーナはゆっくりと視線を転じた。
ベンチの後ろを振り返れば、付き人らしい男性が彼女を見ている。
少し、話しすぎてしまったようだ。
「ガレキ街からの船なら出せるけど、一緒に行く?」
その問いにも、テオドールは答えられないままだ。
彼女と離れるための船。
船さえなければ、アジュガに戻る術はないに等しい。
テオドールの迷いを察したのだろう。
ミレーナは、やはり答えを促すことはしなかった。
「ま、いいけどね。満月の翌日に出発だ。間に合いそうなら、おいでよ」
ひらりと上着を軽く翻して歩き出したミレーナが、テオドールの視界から外れる。
礼を告げるべきだ。
そう思った直後、テオドールは慌てて立ち上がった。
「あー、そうそう」
ミレーナは気にした様子もなく、そして気遣いも無用だとばかりに軽い調子のまま、肩越しに振り返ってテオドールを見るなり、やはり笑みを浮かべた。
それはまるで、テオドールの考えも気持ちも、お見通しだと言わんばかりだ。
少なくとも、テオドール自身はそのように感じた。
「余裕があったらさ、水の都に寄っておいでよ。あの子にとって良いことがあるだろうからさ」