「――……ごめんなさい、テオ。その……私、……帰りたくない」
促されるがまま椅子に腰掛けたシェリアは、意を決したように言い放った。
その言葉に、テオドールはただただ面食らうしかない。
喉奥で引っ掛かったまま、言葉が出て来なかった。
「……迷惑、かもしれないけど、……でも」
俯きがちに言葉を紡ぐシェリアは、ひどく不安そうだ。
膝の上に置かれた手が小さく震えている。
どう話そうか。ずっと考えていたのかもしれない。
彼女の様子に、テオドールにはまた迷いが生じていた。
連れて行くべきか。それとも、帰らせるべきか。
「私……私ね、テオと――」
震える声と共にシェリアが顔を上げたその時、ノックの直後に扉が開かれた。
自然と、彼女の言葉はそこで途切れる。
「やっぱりここにいた」
扉を開いたのはカディアンだ。
少し不満げにしているのは、自分を抜いて話し合いがされていると思ったせいだろう。
「僕抜きで何の相談だよ」
「ご、ごめんなさい。カディ……お部屋にいなかったから」
「馬車のとこにいたんだよ。テオドールは知ってたはずだけどな」
反射的に立ち上がったシェリアは、申し訳なさそうに眉を下げた。実際に、彼女は声を掛けようとカディアンの部屋を尋ねたのだろう。"寝ているみたいだった"ではなくて、いないと判断したのだから。
視線を受け止めたテオドールは「すまない」とタイミングの悪さを詫びた。
「別にいいけど。それで、何の話?」
少し不機嫌そうなカディアンは、そそくさとシェリアの傍まで寄っていく。
そして、傍らのテーブルから椅子を引っ張り出した。ベッドに腰掛けているテオドールの前で、シェリアとカディアンが椅子に座る形だ。
「うん、あの、あのね。カディ、私……」
「戻るんだよね?」
言いにくそうにしているシェリアに対して、カディアンは強引に言葉を被せた。
それによって、彼女は口を閉ざしてしまう。
「危ないことなんて、もうしなくていいよ。シェリアは魔女じゃないんだから――そうだろ?」
カディアンが同意を求めたのは、テオドールに対してだ。
再び視線を受けた彼は、ゆっくりと息を吐き出した。
「……ああ」
そうだ。それだけは明確だ。彼女は、
ならばこれ以上、彼女を苦しませる必要はないだろう。
見知らぬ土地で、慣れない場所で。
盗賊にまで襲われて。あるいは迫害に怯えて。
そんな生活を、この年端もいかない少女にこれ以上は強いられない。
テオドールは、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「シェリア。お前は、……」
何を望むのか。何がしたいのか。
どう思っているのか。どう考えているのか。
ずっと知りたかったことだ。ずっと、言って欲しいと思っていたことだ。
だが、今は。
今は、それら全てを敢えて聞かないことにした。
「お前は――普通に、生きるべきだ」
絞り出すような声で告げたテオドールは、自分の身勝手さを痛感した。
帰りたくないと言ってくれた彼女に対して、今のテオドールはそれを良いと受け入れられない。
カディアンの主張が、もっともすぎた。
「……テオ……」
囁くような力のない声が、ゆっくりと空気の中に紛れ込む。
立ち上がりかけていたシェリアは、ほどなくしてゆっくりと椅子に重みを預けた。
それは、その決断は、テオドールとの別れを意味している。
「どうして……」
シェリアは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
カディアンは少しぎょっとして、それから慌てた調子で彼女の手に触れる。
膝上に置かれていた小さな手が、少年の手の下で微かに跳ねた。
「テオドールだって巻き込みたくないんだよ。シェリアのためだよ!」
「私の……」
「そうだよ。シェリアだって、もう怖い思いなんてしたくないだろ?」
カディアンの言葉に、ェリアはとうとう目を伏せ、そのままうつむいた。
ぐすっと涙を堪えながら、下唇をきゅっと噛み締めている。
「大丈夫だって、アジュガのみんなはひどいことなんかしないから。いつだって、歓迎してくれるよ」
彼女の涙が、旅の辛さによるものだと受け取ったカディアンは、努めて優しく声を掛けた。黙ったままでいるテオドールは、彼が間違った受け止め方をしていることさえ指摘ができない。
ずっと聞きたいと思っていた。
彼女が何を望むのか知りたいと思っていた。
しかし、勇気を振り絞った彼女の主張を、テオドールはまさに己の手で殺してしまったのだ。
だが、どうかそれが最善であって欲しいという気持ちもある。
「……少し、この町に滞在しないか」
「ここに?」
唐突な提案に、カディアンは目を丸くしてテオドールを見た。
「ああ。休む時間も必要だろう。移動ばかりでは、さすがに身体が辛いはずだ」
それは本音だった。
アジュガに戻るにしても、陸路では難しいのだから海路を使うより他にない。
そのためには港がある街に行かなければならないが、それもまだ少し先だ。
それに、もう少しくらい、彼女と過ごす時間が欲しかった。
自分の女々しさに、テオドールは今すぐにでも外に飛び出したい気持ちだ。
「そう、だよな……そうだな。ごめんな、シェリア。しばらく休んで、それから港に行こう。それでいい?」
カディアンが申し訳なさそうに問い掛ける。
シェリアは、ただ小さく頷くことしかできなかった。
そのまま沈黙が落ちる。
数分ほどすると、カディアンが耐え切れないといった調子で立ち上がった。
「……僕、朝ご飯になりそうなもの、何か買ってくるよ」
「ああ、頼む」
「シェリアも、ここで待っててくれよ。な?」
なだめるように彼女の肩を軽く叩いたカディアンは、急ぎ足で部屋から出て行った。バタバタと、忙しない足音が扉の前から遠ざかっていく。
取り残されたテオドールは、両手で顔を覆っているシェリアを見つめた。
「……」
深く息を吸い、そして吐いてテオドールも立ち上がる。
だがそれは、立ち去るための動作ではなかった。
ゆっくりと彼女に近付いて、その足元に片膝をつく。
「……シェリア。すまなかった」
「テオ……?」
唐突な謝罪に、シェリアは不安そうに顔を上げた。
その双眸は濡れていて、鼻先も薄らと赤みを帯びている。
罪悪感に胸を圧迫されたテオドールは、思わず漏れそうになった溜め息を押し殺した。
いったい何から謝ればいいのか。
それすらも、分からなくなってくる。
「宿場町でのことだ。……酔っていたとはいえ、ひどい言い方をしてしまった」
「……ううん。いいの」
彼女は相変わらず首を振る。
いつものように、大丈夫だと言う。
何度聞いても、いつ聞いても、いくら確かめても彼女はそう言うのだ。
自分から離れようとするほど、深く傷付いたはずなのに――テオドールは少女の銀色を見つめた。
「……よくない」
酒場から連れ出してから半年。
何度も何度も、彼女に我慢を強いて、隠れるように求めて、連れ回してしまった。
幾度、恐ろしい思いをさせてしまったのかすら分からない。その度に彼女は、こうやって首を振る。
そして言うのだ。大丈夫だと。
「よくないんだ。シェリア……大丈夫な、はずがない」
この半年、言えなかった言葉を口にした。
大丈夫ではないと知りながら、ずっと旅に同行させていたことも全て――。
「……シェリアが、魔女ではないことは分かっている。だから、……もう、巻き込みたくないんだ」
「テオ……」
「身勝手なことばかりを言ってすまない。巻き込んだのは、確かに俺だ」
あの夜。あの酒場で。
彼女に、魔女だと言わなければ。
もっと早く、彼女はカディアンと再会していたかもしれない。
テオドールは、詰まりそうになる声を何とか絞り出した。
「……俺と共にいれば、謗りを受けることも多い」
「それは……」
シェリアは否定もできずに眉を下げた。
魔女の情報を集める以上、魔女を知る者に近付かなければならない。
そしてそれは、シェリアが魔女であると誤解される機会を増やすことにも繋がる。
「俺は、……俺の復讐のためにお前を連れ回していた。魔女を見つけるきっかけになると思ったからだ。俺は、俺自身の目的を果たすためにお前を利用してしまった」
テオドールはゆっくりと立ち上がった。
まるで、懺悔をしている気分だ。いいや、間違ってはいないだろう。
自分が彼女にした行為の数々は、責められるべきだ。
罪を申し出て、その罪を言葉にして示している。だが、罪悪感は増すばかりだ。
「……お前は、静かな場所で暮らしてくれ」
何と勝手なことだろうか。
テオドールは、自分自身を殴りつけたくなった。
自分の都合で彼女を連れ回した挙句、その罪悪感に耐え切れなくなって、自分は彼女に安全と平穏を願うのだ。それではまるで、今までと変わらない。
目立たないように隠れることを強いて、我慢を押し付けていた時と何も変わらない。
これは、エゴでしかない。
テオドールは胸の奥に痛みを覚えながら踵を返した。
ちょうど扉が開かれたのは、カディアンが戻ってきたからだ。
立ち上がったシェリアは、彼と入れ違いで部屋から出て行くテオドールの背を見つめたまま、何も言えなかった。
シェリアもまた、彼が苦しんでいることを知っていたからだ。
過去のことも、魔女のことも、復讐の旅さえも、彼にとっては自らを傷つける刃になっている。それを知っていて、それでも傍にいたかった。
堪えて耐えて我慢をして――そんなことは、彼も同じだ。
魔女の話を聞く度に、その被害を知る度に、過去の傷を抉っているのは彼だった。
「……」
バタンと乾いた音と共に扉が閉じられる。
何があったのかが分かっていないカディアンは、困惑の色を浮かべてシェリアを見た。
「……私が」
静かな室内に、シェリアの声だけが落ちる。
「私が……テオに、辛い思いをさせたの」
「違うよ!」
その言葉に、扉へと向いていたカディアンの視線が彼女へと戻った。
「僕は魔女を見たことがないけど、君は魔女じゃない」
揺らぐことなくそう告げるカディアンに、シェリアは視線を向けられなかった。ただただ、複雑そうな顔で、テオドールが出てしまった扉を眺めることしかできない。