「――……はぁっ……」
シェリアは知らず知らずのうちに詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。善意で声を掛けて来たわけではないことなど、よくよく考えれば分かる話だ。
迷子だと思われたのか。家出だと感じられたのか。店先を覗き込んでは離れていたせいで、物乞いだと思われたのかもしれない。
実際はどうだったか確かめる術もないが、恐怖心が湧き上がったことだけは確かだ。そのせいで、思わずこんなところに駆け込んでしまった。
「……」
シンと静まり返った室内は、調度品などがそのまま残されている。だが、随分と長く人の出入りがないようで、埃が溜まって荒れていた。床板の一部はひどく軋み、壁の一部が少し剥がれかかっている。
扉の施錠もされていなかったが、壊れていたのかもしれない。あるいは、もう管理もされていないのか。それなりに大きな街の片隅に、打ち捨てられた家はひどく寂しかった。
「……テオ……」
馬鹿なことをしてしまったと、シェリアは膝を抱えて小さくなった。
書斎と思わしき一室の机の下に潜り込み、じっと息を潜める。
三方を板に囲まれている重厚な机は扉側を向いていて、椅子のある方へ回り込まれなければ姿は見えない。薄暗い室内で、ただ静かに身体を縮める。
彼がいたら、すぐさま間に割って入られたかもしれない。
そもそも、彼がいたら声すら掛けられなかったかもしれない。
無防備で無用心だった。
今更のように反省をしても意味がないことくらいは分かる。だが、後悔するばかりだ。
今まで彼に頼ってばかりだったことを突きつけられて、そしてもう彼がいないのだと思い知らされる。自分から離れておきながら、なんと身勝手なのかとうんざりするほどだ。
しかし、もし自分と一緒にいることで彼に何かがあったら――そう思うと、いても立ってもいられなくなった。
「……どうしよう」
ここから出るにしても、少し日が翳ってからの方がいいかもしれない。
あまり目立つ行動は取りたくなかったが、人がいない場所を目指していたら、この有様だ。シェリアは、考えなしだったと再び後悔してはぐっと身を硬くした。
時刻は、もう分からない。少しずつ少しずつ、外が暗くなっているような気がする。そろそろ日が落ちる頃だろうか。もう少し待てばいいのか。考えても、決断ができない。
自分は、果たして魔女なのか。
話に聞く、冷酷で残忍でおぞましい酷い魔女なのだろうか。
考えれば考えるほどに、分からなくなる。
違うのなら、どうして同じ顔を持っているのか。
違うのなら、どうして火柱が上がったのだろうか。
違うのなら、どうしてあのような夢を見るのだろうか。
違うのなら、どうして魔女は双子だなどと言われたのか。
違うのなら。違うのなら、違うのなら。
考えれば考えるほどに分からなくなって、また同じ考えへと戻って来る。
考えないようにしたところで、どうしても思考は巡ってしまうのだ。
もしも、"そう"だったら。
もしも、"魔女"だったら。
「――ッ!」
外から人の声が届いて、肩が跳ね上がった。
しかし、よくよく耳を澄ませても足音などは届かない。
行ってしまったのだろうか。
いいや、本当に人の声だったかどうかも分からない。
バクバクと激しい音を立てる鼓動が抑え切れず、シェリアは膝を抱えた姿勢のまま呼吸を堪えた。
あの日――孤児院から連れ出された馬車の中で。
あの日――魔女だと叫ばれて逃げ込んだ倉庫の奥で。
あの日――魔女だと追いかけられた裏口の先で。
あの日――宿の一室から逃れて、受付の奥に閉じこもったときに。
あちらこちらから響く声と言葉が頭の中に蘇る。
――魔女だ!
――魔女を出せ!
――追い出せ!
――魔女を殺せ!
――渡せ、魔女だ!
――この魔女め!
――殺してやる!
罵倒が恐ろしくて両手で耳を塞いだとき、
――シェリア。
そう呼ぶ、彼の声がした。
「……っ」
ハッとして顔を上げても、室内には誰もいない。
激しく音を立てる鼓動だけが自分に付き添っている。
気のせいだったと思い直したとき、何かが軋む音が届いた。
息を飲んだ唇を両手で覆い、ぐっと四肢に力を込める。
ギシギシと何かが床を軋ませている。
キィイと扉の開く音がして、数秒ほどしてから閉じられた。
その音は、少しずつ近付いて来ているようだ。
隣だろうか。
扉を開く音がして、しばらくして閉じられる。
そして、シェリアがいる部屋の扉が少し動いた。
ドアノブがゆっくりと回される。
「――シェリア」
届いたのは、テオドールの声だった。
「……っ」
返事ができずに固まるシェリアのもとに、床の軋む音が近付いて来る。
「……いるんだな? 俺だ。……テオドールだ」
シェリアが必死に息を潜めていても、薄く埃の積もった床の上には痕跡が残っていた。ほんの僅かに、小さな、迷うような足跡だ。廊下に残っていた痕跡よりも、わかりやすい。
扉から奥へと進むその足跡が新しいことくらい、テオドールには見てすぐに分かった。
「……シェリア」
やがて机の傍らに立ったテオドールは、小さく呼びかけてその場に膝をついた。
机の下を覗き込めば、今にも泣き出しそうなシェリアと目が合う。
彼女は、声も出せなくなっていた。
「シェリア、すまなかった。本当に、すまなかった。……勝手な言っているとは思う。だが、……頼む。戻って来てくれないか」
思いもしない謝罪の言葉に、シェリアはおずおずと机の下から出て彼を見上げた。
「どう、して……」
どうしてここが分かったのか。
どうして彼が謝るのか。
どうして、どうして。どうして。
シェリアは混乱していた。
そんな彼女を見つめて、テオドールはそっと筒状に丸めた紙を差し出す。
「――あっ」
それは、ロサルヒドから渡された地図だ。
探し人の名前を呼べば、玉が場所を示す地図。
その存在を思い出して、シェリアは小さな声を漏らした。
「これを使って探した。時間が掛かってしまって、すまない」
ささやくように小さな声を落とすテオドールは、周囲を警戒しているようだ。無人であるはずの廃屋から複数人の声がすれば、誰かが様子を見に来るかもしれない。
そうなった時、よそ者では言い訳が通用しない可能性もある。
「……どうして」
シェリアは、涙の滲む声で再び問い掛けた。
彼だって恐ろしいはずだ。
魔法でしか有り得ない火柱が決定打だったはずなのに。
震える彼女を見つめたまま、テオドールは息を吸い、そして吐いて、意を決したように言った。
「――……お前が」
彼女を追いかけた理由など、分かり切っていた。
「お前のことが大切だからだ」