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悲しくても歩くのよ。
貴女は、世界のために絶望しなくてはならないの。
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早朝に宿場町を後にしたシェリアは、街道で見つけた乗合馬車に乗り込んでいた。
時間が早いせいだろう。他にも客がいるものの、みんな眠っているようだ。
フードを目深に被り、息を潜めながら車輪の音を聞く。
今の荷物といえば、酒場時代に溜めた僅かばかりの硬貨が入った小さな袋くらいだ。それを外套の内側に隠したまま隅の席で静かに過ごして、ただただ次の街に辿り着くまでを待つ。
たかだか一時間程度だ。
それが、ひどく長く感じられたのは、気を張っていたせいかもしれない。
御者にお礼を告げて馬車から降りたシェリアは、そこがそれなりに大きな街であることに気が付いた。人の出入りが多いのであれば、よそ者であっても目立ちにくい。
「――聞いたか? 例の」
「ああ、魔女連れの男がいるって話か?」
荷物を台車に載せている男達の脇を通り過ぎた時、そんな会話が耳に飛び込んだ。
一瞬ばかり足を止めそうになったが、何とか立ち止まらずに通り過ぎた。
心臓が暴れて音を立てる。
このままでは、誰かに聞かれてしまうのではないかと思うほど、鼓動が激しい。
「どうせ噂だろう?」
「だが、船を燃やしたのは魔女だって話だぜ?」
「あー……けど、その後で宿なんか行くかね」
「男連れだろ? 魔女ってのは、相当アバズレなんじゃねえか」
「おーおー、おっかないねぇ」
脇を通り過ぎてから、店の看板を眺める振りをして話に耳を傾ける。
どうやら、ミレーナの船が燃やされた件と共に、宿で起きた騒動も伝わっているらしい。外套の下で胸元に手を添えたシェリアは、ゆっくりと呼吸した。
「――……」
足早に通りを抜けて、街の反対側へと向かう。
そちらからは旧街道を使う馬車が出ているらしい――客と御者が話している声を聞いて判断すると、そろそろ出発するらしい馬車へと近付いた。
手持ち全ては渡せない。
渡せるだけの金額で、どこまで行けるかを尋ねていると近くに荷馬車が止まった。
たったそれだけで、落ち着かなくなってしまう。
思わずフードを被り直したシェリアに、御者はどこに行きたいのかを問い返した。
「どこに……」
シェリアは困った様子で眉を下げた。
目的地なんてものはない。手がかりのない魔女は追えないが、だからといってこの街には留まれない気がした。
なるべく遠く、できれば魔女の話が届いていない場所がいい。
しかし、それでは交通費が掛かりすぎる。
「このお金で、行けるところまでお願いしたいのですが……」
年端も行かない少女のそんなお願いに、御者の男性はワケありと見たらしい。困ったように笑いながらも「そうかい、わかった。次の街までは連れてってやるよ」と頷く。
金額が足りないらしいと気付いたシェリアが袋を取り出そうとすると、御者は「いいよいいよ」と首を振った。
「どうせ、そこまでは行くつもりだったからさ」
「ですが……」
「いいっていいって。ほら、もう乗りな」
シェリアは手にしていた金額を支払うと、御者の男性に何度か頭を下げてから馬車へと乗り込んだ。
先に乗っていたのは、三人の子どもを連れた女性だ。
もう既に片方の座席は埋まっている。先ほど、四人連れの客を断っていたのは、このせいらしい。
怖そうな客がいないことに安心したシェリアは、挨拶代わりに会釈をしてから腰を下ろした。
向かいの席では、小さな赤ん坊が母親に抱かれている。
その両脇に座っている子どもは、一人が母親の膝に寄りかかり、一人は腕に頭を寄せて眠っていた。
「……」
馬車が動き始めると、シェリアは不安の滲む目を窓から外へと投げた。
大きな街には、既に魔女の話が届いているかもしれない。
ならば小さな町か村の方がいいだろうか。しかし、そこでは目立ってしまう可能性が否定できない。
どうすれば、いいのだろう。
馬車に揺られながら、シェリアはただただ不安を募らせていた。
「何か心配ごとがあるの?」
不意に声をかけてきたのは、眠った赤ん坊を抱いた女性だ。
顔を上げたシェリアは、慌てて首を振った。
「でも、とても不安そうだわ」
女性は穏やかな調子のまま、ゆったりと首を傾げた。
柔らかな薄茶の髪が揺れる。
腕の中で眠る赤ん坊は、安心しきっているようだ。
両脇の子ども達と同様に、ぐっすりと寝入っている。
「ご両親は一緒ではないの?」
「はい……」
「あらあら。大変ね。おつかい? どこまで行くの?」
少し驚いたらしい女性の問いに、シェリアは困った様子で顔を伏せた。
「……少し、遠いところです」
実に曖昧な答えに、女性はまた驚いた様子を見せた。
ゆっくりと目を瞬かせてから、赤ん坊へと視線を落とす。
「私はね、この先のクワカスまで行くのよ」
「クワカス、ですか……?」
「ええ、そう。昔は、コナラって村だったけれどね」
いいところよ――と告げて微笑む女性は、シェリアの気を紛らわせようとしてくれているようだ。シェリアは、どちらにしても地名には詳しくない。
テオドールなら知っていたかもしれないが――と、そこまで考えて何とか思考を振り払った。
「何か嫌なことでもあったの?」
「……いえ、その……」
「ああ、ごめんなさい。聞いてばかりでは、失礼よね」
御者と同じく、シェリアを"ワケありの少女"と見て取った女性は少しばかり考えた。
「私はね、ちょっとケンカしてしまったのよ」
「……ケンカですか?」
「そうなの。小さなことの積み重ねだけど、どうしても嫌になってね。家を飛び出しちゃったの」
まるで少女のように笑う女性は、決して身軽ではない。
三人の子どものうち、一人はまだ乳飲み子だ。足元などに置かれた荷物もそれなりにある。何の計画もなく、ふらりと出掛けた訳ではないだろう。
「今頃きっと心配しているわ」
「……戻らなくて、いいのですか?」
「いいの。少しくらい距離を取ることも時には大切なのよ。ケンカは、良いきっかけになったわ」
女性はそう言うと、赤ん坊の額に口付けた。
そして、視線を持ち上げてシェリアを見つめる。
「クワカスは私の故郷なの。少し頭を冷やしたら、家に戻るつもりよ」
「……そうですか」
良かった、と。
シェリアは安堵した。
こんなに小さな子どもを三人も連れて、どうするつもりなのかと不安になったからだ。馬車の移動も、決して絶対に安全だというわけではない。こちら側には魔物除けだって、設置されていないかもしれない。街の外にいる時間は、短い方が良いには違いなかった。
彼女の安堵を受け取ったらしく、女性は再び微笑んだ。
「良いところよ。自然たっぷりで、家同士が離れていてね。泣いても騒いでも気兼ねしないわ」
「泣いても……?」
その言い回しに、シェリアは不思議そうに目を丸くした。
すると、女性は悪戯っぽく微笑んで「嫌なことがあったら、泣いて暴れるのが一番よ」などと言う。
シェリアは少し困って、しかしおかしくなって、やがて小さく笑った。
「あなたも、特に目的地がないならいらっしゃいな。発散したら、すぐに街へ戻れるわ」
「……クワカスまでは、どのくらい掛かりますか?」
「そうね、一時間と少しくらいよ。でも、坂道があるから、もう少し掛かるかもしれないわ。お馬さん次第ね」
ほとんど同時に御者席を見たシェリアと女性は、互いに顔を見合わせた。
それから、数秒ほどでどちらともなく笑う。
「たくさん泣いてたくさん食べてたくさん笑って、そしてたくさん眠るの。嫌なことなんて、それで大体なくなるものだわ」
女性の言葉に、シェリアは小さな頷きを返した。
そして思うのだ。
本当に、なくなってくれたら良いのに――と。