――それは、水の中だった。
淡く上がっていく気泡が見えている。
吐息を漏らせば、更に気泡が増えていく。
見つめる先の水面から、キラキラと光が差し込んでいた。
ゆっくりと、少しずつ沈んでいく。
息は苦しくない。だが、声も出せないままだ。
四肢は動かない。指先一本たりとも、力が入らなかった。
少しずつ、少しずつ、ただ水面が遠ざかっていく。
――シェリア――
彼の、テオドールの呼ぶ声が聞こえた気がした。
そこにいるの。どこにいるの。どうして。ここはどこなの。
声にならない言葉を出して、水面に手を伸ばそうとした時だ。
真後ろから伸びてきた二つの白い手が、口許を覆った。
水中で揺らぐ銀の髪に、金色が混ざり込む。
息を飲むことさえできないまま目を瞠る。
シェリアは、逆さまに覗き込んできた誰かの顔を見た。
『――ほら。御覧なさい。なんて無様なのかしら? ……ああ、本当に。くだらないわね』
笑っているのは、金の双眸。
水中に広がっていくのは、金色の髪。
笑みを形作る唇。そして、冷たい手と白い肌。
開いた唇からは、細かな気泡が固まりとなって水面へと舞い上がって――
「――……っあ」
水中へと引きずり込まれた瞬間――目が覚めた。
夢だ。あの夢は、知っている。いや、本当にそうなのかは分からない。
ただ、図書館で火が出る直前に見ていた夢とよく似ていた。
起き上がれば、宿の一室ではなく馬車の中だ。
一瞬ばかり、今の状況を理解できなかった。
確か馬車に乗って。
水を飲んだら、眠たくなって。
それから。
それから――どうだったか。
激しく暴れる鼓動を抑えながら、視線を巡らせていく。
しかし、テオドールの姿はない。
もう日が暮れたのだろうか。
周囲は、少し薄暗くなっていた。
前方にいたはずの御者もいなくなっている。
停止した馬車の中に、取り残されたようだ。
「テオ……?」
何も言わずに彼がいなくなったことなど、今までにはなかった。
妙な静けさが不安で、そっと呼びかけてみる。
そこでやっと、馬車の外に人の気配があることに気が付いた。
一、二、いや、三人か。
それならば、同行者と明らかに人数が合わない。馬車に乗っていたのは、自分達と御者だけだ。
外から聞こえて来た声は、テオドールのものでも御者のものでもない。
乱暴に引き上げられた幌の向こう側にいたのは、見知らぬ男二人組だ。
「オイオイ、まだ荷物が残ってんぞ」
「やっぱ嘘ついてやがったな!」
げらげらと、品のない笑い声が周囲に響く。
身を竦ませたシェリアは、指で示された瞬間に喉が詰まる心地を覚えた。
「ほら見ろ、やっぱオンナだ」
「あァ? まだガキじゃねェか」
「初物の方が高いっていうだろ?」
「そりゃ好き者の話だろうがよッ!」
何が起きているのかも分からないまま、腕を引っ張られた。
僅かばかりの抵抗など何の意味もない。
呆気なく馬車の外へと引っ張り出されたシェリアは、あまりの恐怖に声も出せなくなっていた。
見る限り、男達は商人でもなければ旅人でもなさそうだ。
ならば、何なのか――。脳裏に浮かんだのは、御者が口にしていた「盗賊」の文字。
手首を掴む男に差し出された先で、髭面の男に顔を覗き込まれたその時だ。
「――触れるなッ!」
テオドールの怒鳴り声が響き渡り、何かを地面に叩きつける音がした。
頬に触れようとしていた髭面男の太い指先が止まる。
振り返った男の向こう側。
そこには、二人組とはまた別の、細身の男を地面に叩き付けたテオドールの姿があった。
「テオ……!」
堪らずにシェリアが声を上げるが、手首を掴む男は手を離すどころか力を込めた。締め付けられるような痛みに眉を寄せて視線を持ち上げれば、男はニヤニヤと笑っている。
「オイオイ、兄ちゃん。乱暴はよくねェぜ。うちの三男坊を離してやってくれや」
髭面男は、動かなくなってしまった細身の男について心配した様子などない。
むしろ、揶揄の材料にしている有様だ。
「荷物はソレで全部って言ったよなぁ? じゃあ、こいつは何だろうなぁ?」
手首を掴んでいる男もまた同様だ。
逃げてしまったのだろうか。周囲に御者の姿はなかった。
シェリアの手首を掴む男、その脇にいる髭面の男、そして傍らで棒立ちになっている中年男――足元に転がっている者を除けば、三人だけだ。
しかし、二人組がシェリアの傍にいることでテオドールは手を出せなくなっている。
テオドールは舌打ちをした。
盗賊と遭遇したことよりも、御者が馬と逃げてしまったことが最悪だ。
幸いにも、というべきか。男達は、客がテオドールだけだと勘違いしていた。それならば荷物を引き渡すことで気を引き、馬車から遠ざけようとしたのだ。
だが、男達にシェリアの存在がばれてしまった。
「……彼女は荷物ではない」
テオドールは地面に叩き付けた男の頭部から手を離して、ゆっくりと立ち上がった。彼の剣は、傍らに立つ中年の男が持っている。
「そりゃそうだ! こいつは上玉だもんなぁッ! 荷物どころか立派な"商品"だ!」
げらげらと笑い声を上げた男は、シェリアの腕を更に引っ張った。
明らかに痛がっている様子を楽しんでいる。
「オンナは楽でいいよなぁ。ガキだろうがババアだろうが、オンナってだけで役に立つんだからよ」
下劣な笑みを浮かべた男は、明らかに怯えているシェリアに顔を近づけた。そして、傷跡のない白い肌をじっくりと眺めたあとで「値が張りそうだ」と笑う。
髭面の男は随分と幼さを残している少女には、あまり興味がない様子だ。
「……おい。それ以上、暴れるなよ。ガキがどうなっても知らんぞ」
傍らに立つ中年男からの忠告に、テオドールは歯噛みした。
もう少し早く、気が付いていれば。せめて、御者が逃げてしまう前に引き留めていれば。
あるいは、彼女だけでも逃しておくべきだった。
いや。後悔しても意味などない。
最善を考えなければならない。
いいや。最善でなくとも、最悪だけは避けなければならない。
彼女を傷つけずに助ける術は、この距離を縮めるためには――。
テオドールは考えを巡らせながら、中年男を睨み見た。
珍しい色合いのためか。
男の視線は、傍らのテオドールではなくシェリアに向いている。
つまり、武器を奪い、彼女を人質にした時点で、男はテオドールを戦力外と見なしたのだ。二人組はシェリアに気を取られている。
三人対一人。
ならば、相手の人数を減らすしかない。
一拍の呼吸を挟んだテオドールが中年男に殴りかかり、強引に剣を奪い返した次の瞬間――。
「――……っ!」
シェリアの悲鳴と同時に、深紅の火柱が立ち上がった。