来客用らしい一室に置かれている家具はシンプルで、あまり生活感はない。だが、放置されている様子はなく、ベッドやクッションなどは几帳面に整えられていた。
二階のリビングには水も果実も置かれていて、人を寄せ付けない割には来客の用意が出来上がっている。
寝室は二箇所。
一人用のベッドが2つ置かれている部屋と、二人用のベッドが1つ置かれている部屋だ。ひょっとすれば定期的に、あるいは不定期でも通っている誰かがいるのかもしれない。
迷うはずもなく、ふたりは一人用のベッドが置かれた部屋を選んだ。
互いにベッドへ入った後は、何を言うでもない。ロサルヒドの話はあくまで魔法使いに伝わっている魔女のことだ。
しかし、シェリアを見たロサルヒドが、魔女の話を聞きたいのだろうと言い当てた事実がある。彼は更に深い情報を持っているのではないか。金色の魔女について、もっと知っているのではないか。
テオドールは数分ほど考えたあとで、ちらりとシェリアへと視線を向けた。ベッド上で丸くなっている彼女は疲れた様子で、既に寝息を立てている。
「……」
ベッドから抜け出したテオドールは、彼女のすぐ傍に立った。横を向いて丸くなった身体が微かな寝息と共に小さく上下している。
あの時。出会った港街で。
酒場にいた彼女に、魔女だと叫ばなければ――彼女には別の道があったのだろう。
それは、今まで何度も後悔したことだ。旅の中で魔女の話を聞き、魔女が起こした悲劇を知る度に、そして彼女が魔女だと罵られる度に、後悔を繰り返している。
だが、その後悔と同時にテオドールの中には言い訳もまた浮かび上がるのだ。
自分が連れ出さなかったとしても、彼女はまた逃げ出す羽目になった可能性もある。たとえ、あの夜に自分が叫ばなかったとしても、他の誰かが彼女を襲ったかもしれない。
罪悪感に言い訳を上乗せして覆い隠してみても、事実は変わらない。
シーツの上に散らばった銀の髪に触れる。
それはさらさらと指先を流れ落ち、カーテンの僅かな隙間から差し込む月の光に煌いていた。
――シェリア。
テオドールは唇の動きだけで彼女を呼んだ。
――お前は違う。魔女ではない。
ゆっくりと唇を動かして、声にならない言葉を紡ぐ。
そう思いたいのは、自分の方だという自覚はあった。
今更、彼女が魔女であったとして、自分は彼女を殺せるだろうか。この少女の細い首に手をかけて、あるいは薄い胸に剣を突き立てて、その息の根を止めることが出来るだろうか。
「……」
答えは、分かっている。
テオドールは僅かに身じろぎをした彼女の肩まで毛布を引き上げた。
――翌朝。
早朝に目が覚めたテオドールは、書き置きを残して館を後にした。
一度、街に戻ること。
宿の荷物を持って帰ること。
ついでに少し買い物をすること。
その間、待っていて欲しいこと。
彼が書き記したシンプルな内容に目を通したシェリアは、その書き置きの紙を折り畳んでポケットに入れた。
顔を洗って階下に向かったものの、一階のリビングにロサルヒドの姿はない。廊下の奥にある扉は閉ざされている。館はしんと静まり返っていて、本当に彼がひとりで暮らしているのだろうと知れた。
起こすなと念押しされたということは、朝が遅い人なのかもしれない。
玄関の戸を振り返った。外では、鳥のさえずりが響くばかりで人の気配はない。
「――……」
本当に静かだ。
野宿をした時のように木々のざわめきもなく、宿で目覚めた時のように賑やかな音が聞こえることもない。
少しばかり迷ってから、シェリアはそっと扉を開いて外に出た。何もテオドールの言いつけを破るつもりはない。ただ、外の空気を吸いたかった。
普段なら宿の一室で、彼が戻るまでじっと待っている。
誰かが廊下を通る度に、何か起こるのではないかと、何も起こらないようにと、不安に駆られても動けはしない。周囲に建物のないこの場所は、少し気が楽だった。
扉を押し開いた先の庭は、囲いも何もない。白百合の大群を眺めてから、建物を振り返る。
雑草が抜かれた痕跡が少しばかり残っていて、こちらも几帳面に手入れされている様子が見て取れた。
建物に沿ってゆっくりと足を進めていけば、館の周辺は本当にきちんと整えられていると分かる。爽やかな朝の風と光が落ちる中、館に背を向けて空を見上げた。どこまでも高い空には、鳥の姿が見えるだけだ。
「――こんな朝っぱらから散歩か?」
その声にビクッと肩を跳ね上げたシェリアが振り返ると、窓辺で頬杖をついているロサルヒドと目が会った。
意識はしていなかったが、どうやら彼の部屋にあたる位置まで歩いてきたらしい。
「あっ、おはようございます……」
「おはよう。随分早いな。兄ちゃんはどうした。あ? っつーか名前聞いてねえか」
「えっと、シェリア、です。それと、テオ……テオドールです。少し街に行くと言って、出ちゃいました……」
「ふーん。どいつもこいつも朝一から元気なもんだな」
くぁあと欠伸を出したロサルヒドに、不機嫌そうな様子はない。
「んで。寝られたのか」
「あ、はいっ……おかげさまで……」
よく眠れましたと告げるシェリアに対して、ロサルヒドはまた欠伸を返した。
「――……ああ。魔女が"ふたり"って話だがな」
急にそう切り出されて、シェリアは思わず身体を強張らせた。しかし、ロサルヒドにはあまり気にした様子はない。
「双子って説が濃厚でな。その場合は、片割れが魔女じゃねえ可能性もある。俺としちゃ、身代わり説を推すけどな」
「身代わり……」
「ああ。魔法ってのは厄介な制約が多くてな。魔法使いとして双子が生まれりゃ、時代によっちゃどちらかを隠して育てたんだと」
「……時代、ですか?」
「正確には時代と地域だな。魔法が疎まれてりゃ、魔法使いじゃねえ方として育てる。逆なら魔法使いとして育てる。双子を、一人としてな」
そこでロサルヒドは姿勢を変えた。
窓枠に片手を当てながら、薄い雲が流れている空を見遣る。
そして、すぐにシェリアを見下ろした。
「どっちにしろ、片割れを隠すための身代わりにもなるってことだ。身代わりってだけなら、必ずしも双子である必要はねえだろ?」
「……は、はい……」
「実際はどうだか、確かめる術なんざねえけどな」
ロサルヒドの言うことはもっともだ。
実際に魔女が双子であったのかどうかも、自分達が追う魔女がその伝承の魔女なのかも分からない。情報を得たところで、判断がつかなかった。むしろ、分からないことが増えたようなものだ。
うつむいてしまったシェリアを眺めたロサルヒドは、後ろ頭を乱雑に掻いた。
「ちぃと意地が悪かったか? だが、まぁ、そういう伝承があるって話だ。気にすることじゃねえだろ」
言い終わるなり、ロサルヒドはカーテンを揺らして部屋に引っ込んだ。残されたシェリアは、どうすればいいのか分からないままだった。
どうして、自分を見て魔女の話だと思ったのか――そう聞きたくて、しかし聞きたくなくて、聞けないままだ。
「……」
窓に対して軽く頭を下げたシェリアは、歩いてきた通りに引き返した。
空は、青く晴れ渡っている。
薄い雲が流れている様子は、とても穏やかで平和そのものだ。
あの空を、魔女は歩くのだと聞く。
「――シェリア」
入り口まで戻ってきた時、テオドールの声がした。
顔を上げれば、旅の荷物と紙袋を持った彼が立っている。
シェリアは少しばかり頬を緩めた。
「……テオ、おかえりなさい」
「ああ、戻った。……何をしていたんだ?」
「……少し、お散歩してたの」
「そうか」
ずり落ちてきた紙袋にシェリアが両腕を伸ばす。
受け取った紙袋の中には、果実とパンなどの食べ物が入っていた。
紙袋の中を見つめるシェリアを眺めて、テオドールは緩やかに首を傾げる。
少し、何か様子が違うように思えたからだ。
しかし、それは実に些細な変化にも感じられる。聞けばいい。それだけだ。だが、何となく問い掛けることは憚られた。
今は、魔女の件について触れたい気分ではなかったからだ。
彼女の話になれば、自然と魔女の影が付き纏う。
「……中に入るか」
「うん」
扉を開けば、廊下にはロサルヒドがいた。
ちょうど、玄関に差し掛かったところだったようだ。
彼はふたりをそれぞれ見比べたあと、顎先で一階のリビングを示して踵を返した。