*
怯えて
泣いて
傷ついて
逃げ出して
あら、随分と楽な生き方ね。
羨ましい限りだわ。
*
冷たい感覚があった。
それは、指先から伝わり、身体を包み、足の先まで覆っている。
ぼんやりと開いた瞼の向こう側で、揺れているのは水面のようだ。
差し込む光が揺らいで、水面の揺らめきに応じて形を変えながら落ちている。
「――――」
声を出そうとしたシェリアは、気泡が上がっていく様子に水中なのだと気が付いた。ゆっくりと、ただゆっくりと身体が沈む。
長い髪がゆらゆらと揺れながら、水面に向かって伸びるように広がっている。光を受けて、きらきらと瞬く髪色は銀。
不思議と息苦しさはなかった。
背中から沈んでいく中で、四肢には力が入らない。
上がっていった気泡が水面近くで弾けたとき、ぼやけた視界に強い光が紛れ込んだ。
白にも近かった淡い光が溶けて薄くなる。
代わりに太陽が水面越しにきらめいたとき、シェリアは目を見開いた。
視界に入る銀色が、毛先から急速に色を変えていく。
ぞっとするほどに美しい金色――
瞼の裏に焼きついた金から視線を反らした直後、けたたましい音が鳴り響いた。 どこから響いているのか。それすら分からないほど、音が激しく反響している。
シェリアが飛び起きた時、既にテオドールはベッドから抜け出していた。水中ではなく寝台にいる事に安堵する暇もない。
「テオ、どうしたの……?」
窓を開いて外を眺めているテオドールに、シェリアは困惑と共に問いを向けた。
今は真夜中のはずだが、外が妙に明るい。
騒がしさばかりが伝わってきて、シェリアは妙な胸騒ぎを覚えていた。
外の様子が見えている訳ではない。
ただ、不安ばかりが増していく。
振り返ったテオドールは「分からない」と答えるなり窓を閉じ、椅子に引っ掛けておいた上着を手にした。
「様子を見てくる」
「ま、待って……っ」
「見てくるだけだ。ここにいろ。鍵を忘れるな」
「やだ、待って……!」
ドアに手を掛けたテオドールは、背中に飛びついて来た小さな身体に動きの全てを止められた。
「……シェリア?」
今まで、彼女がこうも必死になって引き止めようとすることはなかった。
問い掛けても、シェリアはすぐに声を返さない。それどころか。少し震えているようだ。
テオドールはドアノブから離した手で、自分の服を握り締めている細い指先に触れた。
「どうした。何かあるのか」
更に問いを重ねる。
しかし、テオドールの声にシェリアは答えられなかった。あの夢を、どう説明すればいいのか分からなかったからだ。
「……シェリア」
振り返ったテオドールは、服に引っ掛かっている手指を柔らかく引き離した。そして、静かに向き直ると、腰を屈めて細い肩に両手を当てる。
小さく震えているシェリアの様子に、自然とテオドールの眉が寄った。こんなにも不安がっている彼女を置いて、外になど行けるはずがない。
「……ま、魔女が」
異変を知らせる音が鳴り響いている。
その中で、シェリアは懸命に声を絞り出した。
「……魔女が、来るかもしれないの」
あの夢が、もし暗示していたのなら。
もしも、本当に魔女が出たのなら。
万が一にも、そんなことになってしまったら。
恐怖心が足元から身体を震わせる。
「……何故、そう思うんだ?」
静かに問い掛けるテオドールの声は低い。
だが、強く問い詰める響きはなかった。
「だって……」
夢に見たから――などと、説明できるはずがない。
分かっているのだ。魔女がいるのであれば、彼はきっと行ってしまう。
彼の目的は魔女にある。それは分かっている。だが、もしものことがあったら。
そう考えると、どうしても引き止めておきたかった。
魔女を求めている彼に、魔女がいるから行かないで――などと、矛盾した話だ。
「……大丈夫だ、シェリア。魔女ではない」
だが、テオドールは否定した。
「魔女の襲撃であれば、もっと――」
――もっと。
広範囲に被害が広がっているはずだ。
助けを呼ぶ暇もなく、家族を探す時間さえもなく、あっという間に何もかもが失われる。それは直感だった。襲撃された経験があるとはいえ、ただの勘に過ぎない。
テオドールは溜め息を飲み込んで、シェリアの肩を撫でた。
「だが、図書館の方が騒がしい。何か起きているようだ」
「……うん」
「もし手が必要であれば、手伝いたいと考えている」
「……うん」
「いいか、シェリア」
来るな――といえば、彼女は必死に頷くだろう。
ここにいろと。隠れていろと。そういう言い方をする事は簡単だ。
テオドールは迷った。
しかし、不安がる様子を無視することはできない。
外で異変が起きていることは確かだ。彼女を連れて行きたくはないが、一人で残しておくことも心配ではある。
「――……シェリア。上着を」
結局、テオドールはそう言って壁に掛けた外套を示した。
そして、テーブル上のペンダントを見遣る。
ファムビルがお守りだと言っていたものだ。
僅かな可能性であっても、単なる気休めであっても、構わない。
テオドールはペンダントを手に取り、彼女の首に紐を引っ掛けた。