*
傷は癒えても、なかったことになんてならないわ。
ええ、そう。――ずっとね。
*
大聖堂を改築して作られたという巨大な図書館――通称"プラタナス"。
御者に礼を告げて馬車から降りたテオドールとシェリアは、まずはその大きさに圧倒された。
街の入り口から伸びるのは、馬車が二台ほど並んでも支障がなさそうな大通りだ。その両脇には、比較的新しい建物が整然と並んでいる。
元々この場所には大聖堂と呼ばれる建物しかなかったらしい。あとから街が出来上がったと考えれば、建物の新しさには納得がいく。
テオドールは大通りの先に佇む、一際目立つ大きな建物を見つめた。
「……あれが図書館か」
「すごく大きいね」
二階建ての建物が立ち並ぶ中、四階建てになっている図書館はまるで壁のようだ。
花の街では温室のドームが際立っていた。
そしてこの街は、確かに図書館のためにある街と言っても差し支えない姿をしている。
「……まずは宿を決めるか。荷物を置いたら、図書館に……」
そこで言葉を切ったテオドールは、どうしたものかと思案げにシェリアを見た。
花の街と同様、この街の規模を考えると人の出入りも激しい。よそ者だからと目立つことこそないだろう。
だが、人が増えれば増えるほど、魔女の目撃者がいる可能性は高い。
もしも遭遇してしまったら、シェリアに辛い思いをさせることになってしまう。
とはいえ、宿で待機させることにも不安があった。
「……テオ?」
ささやくような声でシェリアに呼ばれ、テオドールは荷物を担ぎ直した。
「……宿を探そう」
結局、すぐに結論は出せなかった。
情けないものだ。
落としかけた溜め息を飲み込んだテオドールは、彼女をうながして歩き始めた。
広すぎるメインストリートを行き交う人々の波は激しい。
だが、道が広い分だけ混雑の煩わしさは緩和されている。
テオドールは、傍らのシェリアが人の流れに押されないよう気に掛けながら宿を探した。
どの街も大通りには店が連なるものだ。図書館の街とはいえ、ここも例外ではないらしい。そのほとんどが飲食店か食料品店だ。
雑貨類の店は大通りを中ほどまで進めば、ちらほらと目に付くようになる。
「あれか」
宿を示す案内板に従って角を曲がれば、建物が見えた。
少しくすんだ白を基調とした落ち着いた雰囲気の建物だ。通り沿いのものよりも、更に少し古い印象ではある。
受付のある一階フロアには、客らしい姿はない。
カウンターで申し出れば、どの階でも空いていると言われた。
テオドールはちらりとシェリアを見たが、困ったように眉を下げられてしまう。
確かに、今まで部屋をきちんと選ばせたことなどなかった。
「……一階で構わない」
行動の利便性を考えて一階を指定すれば、すぐに了承が示された。
宿帳に必要事項を記入していると「ご兄妹ですか?」と問いが向けられる。
こうも似ていない兄妹がいるのか。
だが、親子と呼ぶには無理がある。
「……そう見えるか?」
テオドールが低い声で言葉を返せば、受付の青年は慌てて首を振った。
余計なことを言ったと思ったのだろう。すぐさま「お部屋はあちらです」と、フロアから伸びる廊下を示してから鍵を差し出した。
足元に置いた荷物を担ぎ始めたテオドールに代わり、シェリアが礼と共に鍵を受け取る。
「あの、テオ……」
荷物を持ちたがるシェリアに、テオドールは首を振った。
体力の温存を考えれば、自分が持つ方が妥当だと判断したまでだ。
解錠を任されたシェリアは、少し急ぎ足となった。
テオドールの横を通り過ぎて、鍵についたタグと同じ番号の部屋を探す。
「テオ、ここみたい」
見つけたのは角部屋だった。
ドア同士の間隔からして、他の部屋より少し広いようだ。
自分の返答によって、変な気を回されたのかもしれない。そう考えたテオドールは、それはそれで何ともいえない気持ちになった。
鍵を開けたシェリアが、一足先に入って扉を押さえる。
その扉を抜けて部屋の奥に向かったテオドールは、荷物を寝台脇に置いた。
「……シェリア。別行動はなしだ。鍵は一つだからな」
扉を閉じる彼女に背を向けたまま、テオドールは少し硬い声を出した。
別行動をしない言い訳として鍵を使ったが、結局は離れることが恐ろしいだけでしかない。
港街の一件もある。あの時はうまく逃れられたが、次もまたそうなるとは思えない。
「うん、わかった」
シェリアは小さな声と共に頷きを返した。
「……図書館に向かうつもりだが、構わないか」
「うん、いいよ」
「例のロサルヒドという男に会う必要がある。大丈夫か」
「うん。……大丈夫だよ」
控えめな肯定を繰り返すシェリアを振り返ったテオドールは、物言いたげに眉を寄せた。
ファムビルが言うには、魔法研究家の男は少しクセがあるらしい。彼女には、何かが起きた場合の覚悟が必要になるかもしれない。
それが負担にならないかどうか。
聞きたいというのに、うまく言葉が出て来なかった。
「……そうか」
聞き方によっては、誘導の形になってしまう。
彼女の本音がどこにあるのか。テオドールには、いまいち分からなかった。
怖いのならば怖いと、嫌ならば嫌なのだと。
そう言って欲しいというのに、彼女はいつも"最善であろう"選択をしようとする。
謗りを受けようとも、魔女の痕跡を辿ることを優先してしまう。
それは自分が魔女の情報を欲しがっていると知っているからだ。
少なくとも、テオドールはそう考えていた。
「……テオ、どうかしたの……?」
テオドールは、困ったように眉を下げるシェリアを見つめたまま。
すぐには、何も答えられなかった。