触れなければ棘が刺さることはなく、刃が肌を裂くこともない。
だが、言葉は違うのだ。
声は決して防げない。放たれた言葉の刃は、いとも容易く心を引き裂く。
引き裂かれた心は見えもせず、悲鳴も上げられず、ただ黙して傷を重ねるしかない。
「──……」
唇を薄く開いたシェリアは、結局は何も言い返すことができずに再び視線を落としてしまう。テオドールは、警戒する目をミレーナに向けた。
「やめなよ。そう怖い顔しなくてもいいじゃない」
ミレーナはおどけた調子で肩を竦めた。
そして、俯いてしまったシェリアを再び見遣る。
「──顔をお上げ、シェリア。アンタの髪と目、すごく綺麗だよ」
また何か。ひどいことを言われるのではないか。
そのように思って顔を伏せていたシェリアは、予想外の言葉を前にして動けなくなっていた。
テオドールもまた、何を言い出すのかと警戒していた分だけ反応が遅れる。
ミレーナは続けた。
「世の中にはね、物知りと馬鹿がいるんだ。価値が分からない奴らの言葉なんて、気にすることないよ」
ミレーナのその言葉に対して、シェリアが遠慮がちに顔を上げる。その輪郭をなぞるように落ちる銀の髪を見つめたまま、テオドールは何も言わずにいた。
銀色の瞳と目が合えば、ミレーナは喜ぶように笑みを浮かべていく。
「銀ってのは、縁起がいい色だよ。"知恵"と"清純さ"の象徴でさ。そりゃあ珍しいけど、素敵な色じゃないか」
そう言って前のめりの姿勢を解いたミレーナは、ソファの背もたれに重みを預けた。やっと緊張感が抜けたシェリアの肩から力が抜けていく。
テオドールだけが、姿勢を変えはしない。
「──さて。わざわざ来てもらったのは、話があるからだよ」
当然だ。テオドールは内心で身構えた。
シェリアはまだ少し不安げではあるものの、警戒心という意味では彼ほどではない。その無防備さこそが、テオドールを不安にさせることを彼女は知らないのだ。
「アンタ達のせいじゃないけどね。今、港は混乱してるんだ。情報も嘘だか本当だか分かんないものだらけで、正直使い物にならなくてさ」
その混乱は、まさしく魔女が引き起こしたものだ。
わざわざ空を歩いて船を沈めた魔女。
目的も狙いも理由も分からないままでいるこの状況に、テオドールは歯噛みした。
何故だ。何故なんだ。疑問ばかりが重なって、何も真実が見えて来ない。
「宿もあのザマでね。だから、ここに泊まりな──って言ってやりたいけど、私も野暮用でね。出なきゃならない」
街から出て行け──ということか。
テオドールはゆっくりと息を逃して、身体の強張りを何とか解そうと試みた。思うところはあるが、だからといってむやみに噛みついたところで良い結果は偉そうにない。
「ああ。軽率なことをしてすまなかった。今すぐに──」
「──ああ、待て待て。話は最後まで聞きなって。せっかちだね?」
言葉を遮られたテオドールは、眉間に皺を寄せた。だが、シェリアからの視線に気がつけば、努めて表情を和らげていく。
そんな様子を正面から眺めていたミレーナは、くすくすと笑った。
「悪いね。アンタ達のためにも、あの馬鹿共のためにも、私についてきてほしくてさ」
「……どこへ?」
怪訝そうにしているテオドールからの問いに、ミレーナは気を悪くした様子もない。
「次の街まで送っていくよ。ここにいるより、ずっといいはずだからね。また、落ち着いたら来てやって」
本当はいい街なんだよ──と続けるミレーナに、他意はなさそうだ。
少なくとも、テオドールにはそう見えた。
確かに魔女だと疑われている彼女と共にこの街に残るメリットはない。既に魔女は姿を消している上に、これといって大きな収穫もない。
シェリアは、困惑の眼差しでテオドールを見た。
「……情報は得たからな。本来の目的は果たしている」
テオドールがそうやって言ってやれば、シェリアは少しだけ物言いたげにしたものの程なくして頷いた。
「それなら決まりだね」
「移動の足は?」
「私の馬車さ。乗り合いよりずっと乗り心地はいいはずだから、心配しなくてもいいよ」
いったい何の心配だ。
テオドールは眉を寄せかけて、ミレーナの視線に気がついた。
シェリアのことを言っているのだろう。彼女に無理をさせたくないのは、テオドールも同じだ。
「もちろん、お金だって取らないよ。私がお願いして、ついて来てもらうんだからね」
テオドールは、まだ幾分かの警戒を残しつつも頷いた。
現状は、それが最善であろうと思えたからだ。
「シェリアはどう? 構わない?」
ミレーナは、シェリアにも視線を向けて問い掛けた。
「は、はい……」
「よしよし。それじゃ、決まりだね」
シェリアの控えめな頷きを得たミレーナは、軽く手を叩いて立ち上がった。
「話は馬車の中でね。荷物は全部、積んでいいよ。私はちょっと部屋に戻るけど、うちのメイドが来るから──」
「……話?」
さっさと扉へと向かったミレーナの背に、テオドールは低い声で問いを投げた。
てっきり、街から出ろという話だったと思っていたのだ。
まだ続きがあるのかと、彼の声は知らず知らずのうちに怪訝がる調子になっていた。
「そう、話だよ」
扉の前で振り返ったミレーナは、口の端を薄く釣り上げた。
ゆっくりと、扉が開かれる。
廊下に控えているのは、数名のメイド達だ。
女主人であるミレーナが廊下に出れば、メイド達は一斉に頭を下げた。
そのうち、一名だけが主人と入れ替わりで室内に入って来る。
「私も、魔女を探しているからさ」
その言葉は、一瞬にして場を緊張させた。
当のミレーナだけが、平然としている。
「──その子じゃないってのは分かってるよ。だからお前たち、余計なことはしないように。私の客人だからね。丁重に扱って」
伏せた顔を強張らせたメイド達に対して、ミレーナはぴしゃりと言い放った。
既に室内へと入り込んでいる一人だけは、顔色ひとつ変えてはいない。かしこまりました、と、定型文を口にするだけだった。
「そういうわけだから、馬車で話をさせてちょうだい。聞きたいことがあるだけだからさ」
ミレーナは軽い調子でひらひらと手を振り、あまつさえウインクまで残して去っていった。室内に取り残されたのは、テオドールとシェリア。そして、メイドが一人。
「……ではお荷物を」
メイドは深く頭を下げたあとで声を発した。
それによってシェリアが、ハッと我に返る。
テオドールは荷物の運搬については丁重に断り、案内だけをメイドに頼んだ。
「大丈夫か」
メイドに続いて部屋を出る際、テオドールは背後の彼女に問いを向けた。
「……うん」
シェリアは、曖昧な調子で頷く。しかし、いつものように「大丈夫だよ」とは言えなかった。