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目覚めの悪い朝であれば 2


 宿に戻る途中、パン屋で瓶に入ったミルクと柔らかな白パンを購入したテオドールは道を急いだ。

 大通りを進み、宿が見えてきたあたりでその歩みは一層に早まる。

 宿の入り口をくぐり抜けると、すぐさま階段を駆け上がった。


 その足が向かうのは、彼自身が借りている部屋――では、ない。


「――シェリア。戻った。起きているか?」


 自身が泊まった部屋の、ひとつ隣の扉を叩いたテオドールは室内の様子を窺った。

 少し遅れて施錠が解かれ、ゆっくりと扉が開かれる。

 ほんの薄く、指先が入る程度の控えめな開き方だ。


「……テオ?」


 小さな声と共に顔を覗かせたのは、まだ十代半ば程度の少女。

 珍しい銀色の髪と目を持っている少女が少々不安がっている様子に対して、テオドールは確認するように廊下へと視線を巡らせた。


「ああ、俺だ。俺以外にはいない。安心していい」


 今のところ、廊下には誰の姿もない。

 テオドールは、声を小さくしてそのように返した。

 声が消えて数秒ほどすれば、軋む音と共に扉が開かれていく。

 少女が後ろに下がれば、テオドールはすぐに室内へと入り込んだ。


「遅くなってすまない。ミルクとパンを買ってきた。果物もある。他に何か欲しいものは?」


 後ろ手に扉を閉じたテオドールは、室内に視線を巡らせてから苦々しく目を伏せた。

 癖になってしまっているが、ここは彼女──シェリアが借りている部屋だ。

 誰かが潜んでいるはずもない。


「ううん、大丈夫。ありがとう。……テオは、もう食べたの?」


 荷物をテーブルに置けば、シェリアはそっと袋の中を覗き込んだ。

 テオドールはその様子を眺めながら、椅子を引き出して腰を下ろした。


「いいや、まだだ」

「よかった。なら、用意するね」

「ああ」


 袋の中からミルクの瓶を取ったシェリアは、ゆっくりと踵を返した。そして、荷物の中からカップをふたつを取り出し、すぐにテーブルの傍へと戻ってくる。

 カップにミルクを注ぎ、パンを並べて僅かなジャムが入った小瓶を取り出す彼女の様子を眺めるテオドールは、何かを言うわけでもなかった。


 それは食事を始めても同じこと。

 ふたりの食事は、基本的には静かなものだ。



 テオドールとシェリアの出会いは、今から半年ほど前に遡る。


 ──あの街には魔女がいる──そんな情報を手に入れたテオドールは、とある港街を訪れていた。

 だが、待てども待てども魔女による被害の話は浮かんで来ない。

 港には多くの船が行き交う。あらゆる人間が入れ替わり立ち代り流れていく街だ。何らかの騒動が起きたところでたかが知れていた。

 せいぜいが酔っ払いの喧嘩や、商人同士のちょっとした争いだ。

 荒事に関わる仕事を引き受けていたテオドールは、馬鹿げた小さな争いにうんざりしていた。


 そんなある日のこと。

 酩酊状態の大男同士が殴り合いの喧嘩を始めた、だから少し手を貸してくれ──と呼ばれた。


 駆けつけた酒場は、その港街で最も大きいとさえ言われるほどの規模だった。

 素面の客に酔っ払い、そして従業員に通行人。とにかく野次馬が多く、暴れ回る男を取り押さえるにも一苦労だった。

 それでも酒に酔って暴れ狂う大男を酒場の外に引き摺り出し、何とかその上に乗って腕を押さえつけていた時だ。


 ふと、視線を上げた先に、酒場の出入り口から様子を窺う少女の姿を見つけた。

 酒場内の灯りにぼんやりと輪郭が浮かぶ。

 ほのかな橙色の灯りが髪に触れて金色に見えたその瞬間、テオドールは叫んだ。


 ──魔女だ!


 周囲の目が一斉に彼女を捉える。

 驚きの表情を浮かべた直後に震え上がった少女の様子もまた、確かに視界に入っていた。だが、テオドールは耐え切れずに立ち上がり、すぐさま距離を詰めたのだ。

 彼が剣を抜いたことに少女が悲鳴を上げる。

 それが、テオドールを更に刺激したことは確かだった。


 惨い仕打ちで両親を。

 そして、まだ幼かった弟さえも手に掛けた女の悲鳴が、ひどく癪に障った。


 混雑した酒場内へと逃げ込んだその背を追う。

 やがて、少女が裏口から外に出たと知った時、テオドールはひどく苛立った。


 止める給仕達を押し退けて開いた扉の先には、地面にへたりこんだ少女がいた。


 ──魔女めっ、この魔女め! か弱い娘の振りをして、何のつもりだ! 卑怯者!


 そう怒鳴りつけて剣を振り上げた時にはもう、少女は彼を見てはいなかった。少女はただただ両手で頭を覆い、あまりの恐怖にうずくまって震えていたのだ。


 その髪が金ではないと知ったとき、テオドールの中であらゆる感情が急激にしぼみ始めた。


 これがあの魔女なのか。血に濡れて、尚も笑っていた魔女なのか。

 こんな女に殺されたのか。こんな女が、人を殺めたというのか。


 急激に体温が上がり、全身に汗が噴き出した。


 ──シェリア!


 背後から声がする。

 テオドールが押し退けて転ばせた給仕達が、口々に声を上げていた。


 ──逃げて!

 ──シェリア、立て!

 ──押さえているから!

 ──逃げろ!


 腕に、足に、腰に。

 口々に声を上げた彼らは、すがり付くようにテオドールの動きを止めようとした。

 テオドールは、言いようのない罪悪感に苛まれた。


 必死になって止めようとする彼らの姿が、

 やめてくれと、子どもだけは逃がしてくれと――そう言って、魔女にすがっていた両親の姿と重なる。


 あの瞬間の、沸騰したかのような怒りが体温と共に下がっていった感覚は、今でも忘れてはいない。


「……」


 もしもあの時、剣を振り下ろしていたら──そう考えたテオドールは、思わず首を振った。

 想像したくもない。


 少しずつ、味わってミルクを飲むシェリアの髪はやはり銀色。魔女の金とは、明らかに異なる。

 ちらりと視線を向けたテオドールは、口の中に入れたパンをミルクで一気に流し込んだ。

 一足先に食事を終えると、テオドールはその目を窓の外へと向けた。

 そろそろ、通りには人が溢れて来る頃だろう。


 遅れること数分ほど。

 シェリアがパンを食べ終えると、テオドールは静かに口を開いた。


「……シェリア。話がある」

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