久々の休日。エリオットはソファに沈み込み、タブレットで新聞を眺めていた。ページをめくるたび目は文字を追っているが、内容は頭に入ってこない。ただぼんやりと、あの夜のことが浮かんでは消え、何度も胸をかき乱していた。
その夜の記憶は、妙に鮮明だった。ふと気を失った彼が意識を取り戻すと、暗がりのバルコニーで膝枕をして見守っていたのはリリスだった。温かな柔らかさが頬に心地よく、ふんわりと漂う甘い香りが鼻先をくすぐる。その瞬間、自分が彼女に寄りかかっていることに気づき、慌てて体を起こそうとしたが、全身に重く響く疲労感がそれを妨げた。
「……気がついた?」
耳元で囁くような、優しい声がする。
エリオットが顔を上げると、すぐ目の前にリリスの穏やかな瞳があった。月光に照らされた彼女の顔は柔らかくほころび、心配そうに自分を見つめている。そんな彼女の視線に、エリオットはぎくりとして身を引こうとしたが、どうにも動けない。目の前にいるリリスがあまりにも近く、無防備に向けられる彼女の笑顔が、どこか自分を見透かしているようにさえ思えた。
「……何をしているんだ。」
エリオットはいつものように、吐き捨てるように冷たく言おうとするが、声は思いのほか掠れてしまい、喉の奥からふいに乾いた咳がこぼれた。リリスが彼の背中をゆっくりとさすってくれる。その無造作な仕草に、エリオットの胸はかすかに高鳴る。いつも冷静に振る舞おうとする彼の心の中に、焦燥と戸惑いが複雑に入り混じる。
「急に倒れちゃったから、放っておけなくて。」
そう微笑むリリスの言葉には、揺るぎない優しさと無邪気な包容力があった。エリオットは、思わず心の奥にどっと溢れてくる安堵感を隠そうと、視線をそらした。
かすかな抵抗として、「余計なお世話だ。」と呟くのがやっとだった。
それでも、リリスのそばにいることで感じる温もりと柔らかさが、彼の冷たく張り詰めた内面を、少しずつ溶かしていく。だが、ふと「これ以上自分をさらけ出してはいけない。」と理性が警鐘を鳴らし、再び突き放そうとするが、こんな時に限って言葉が出ない。
「こんなところ、来るんじゃなかった……」
エリオットが頭を抱えていたその時、バルコニーの扉がガラリと開き、タイラーが顔を出した。
「おお、二人とも。ここにいたのか。」
リリスが振り返り「夜風が気持ちよくて長居しちゃった」と微笑むと、タイラーは彼女に軽く笑いかけながら、エリオットに向かって言った。
「ねえタイラー、お水を一杯もらえるかしら。エリオットさん、飲みすぎちゃったみたいで。」
「ああ、いいとも。お前が飲みすぎるなんて、珍しいこともあるもんだな。」
その言葉に、エリオットはまた無駄に突っかかりたくなった。タイラーの人懐っこい視線が、なぜか目障りに思えてしまう。
「余計な真似しやがって。」
吐き捨てるように言うエリオットに、リリスはどこ吹く風といった様子で「困った時はお互い様ですから。」と返す。無邪気な笑顔が、いっそうエリオットを複雑な気持ちにさせた。
リリスのその無防備な表情を見ていると、何もかもが馬鹿らしくなり、急に自分の冷たさが嫌になる。自分の余裕のなさを突きつけられ、彼の胸は苦々しい思いでいっぱいだった。
しばらくしてタイラーが水を持って戻り、グラスを手渡すと「そろそろお開きの時間だ。落ち着いたら降りて来てくれ。」と言い残して仲間たちの方へ戻っていった。バルコニーには再び二人きりの静寂が戻る。エリオットは、リリスが隣にいることで沸き起こる安らぎと苛立ちが、自分の心を引き裂こうとしているのを感じていた。
「……なんで、こんな……」
彼の思わず漏らした言葉に、リリスが不思議そうに首をかしげ、じっと彼の顔を見つめる。その優しさと温もりが一つに溶けたような眼差しが、彼には耐え難かった。
「……お前がいると、落ち着かない。」
彼女に寄り添われることで、今まで抱え込んでいた孤独が、次第にほぐれていくような気がしたが、そんな自分を認めることが怖かった。彼はそっとリリスから視線を外し、唇を引き結ぶ。
リリスはそんなエリオットの迷いを敏感に感じ取ったのか、少しだけ笑みを浮かべ、彼の手にそっと触れた。その小さな手の温もりが、エリオットの心を驚くほど穏やかに包み込んでいく。
「……どうして、こんなことするんだ。」
かすかに震えた声で問いかけると、リリスは小さな声で「だってあなた、さみしそうだから。」と答える。
「あたしもなの。だから、一緒にいてよ。」
その言葉が、エリオットの胸の奥に静かに突き刺さる。今まで一人でいることが当たり前だった彼にとって、こんなふうに誰かに寄り添われ、心配されることなど想像もしていなかった。それが、こんなにも心地よく、安心できるものなのだと、エリオットは初めて知った。
「わけわかんねえよ……」
エリオットがつぶやくと、リリスは小さく微笑んで彼の手をもう一度、優しく包み込んだ。
「あなたのこと、もっと知りたい。」
その言葉が、エリオットの心の奥に小さな灯をともす。彼女の優しい声が胸に響き、今まで味わったことのない感情がじんわりと広がっていくのを感じた。しかし、彼はその感情に素直になれず、複雑な思いを飲み込んで目を伏せる。
リリスはエリオットの心の葛藤を感じたのか、少しだけ表情を曇らせたが、何も言わず、ただ静かに彼のそばに寄り添い続けた。
エリオットはまだ、あの夜に彼の心を乱していた出来事を受け入れることができなかった。エリオットはタブレットをスクロールする手を止めて、「なんであんなことしたんだ……」とリリスに近づいたことを後悔していた。