「とにかく、リリスは早めに覚醒を目指した方がいいだろう。魔界の法律が変わってしまったことは話したね。」
アスモデウスの声は、優しく諭すようでありながらどこか現実を突きつけるように冷ややかでもあった。
「……はい。未発達な悪魔は人間界との行き来ができなくなるって……」
「そうだ。つまり、覚醒できなければ、この人間界にとどまるしかなくなる。そして、このままではいずれ魔力の消耗で滅びることになるだろう。」
リリスは静かに言葉を飲み込んだ。魔界に戻れないまま力を消耗し尽くす――そんな終わりが彼女を待っているなんて、考えたくもなかった。ここ数日抱いていた不安が一気に形となって目の前に立ちはだかる。どうしたらいいのか、リリスの心は真っ暗な迷路に迷い込んだようだった。
「で、でも、質のいい精魂は毎日たくさん摂れるんです。そんなに急がなくても……」
「いくら栄養価の高い食事があっても、消化器官が機能しなくては何の意味もないよ。」
アスモデウスの厳しいその言葉に、リリスは視線を落とす。
「……どうしても、覚醒しなくちゃ、いけないんですね。」
リリスは自分自身に言い聞かせるように呟く。アスモデウスは静かに頷いた。
「そうだよ、リリス。けれど、その道のりがどれほど厳しくても、君にはその価値がある。」
アスモデウスはそう言って彼女の肩を軽く握った。彼の言葉は、まるで薄暗い道に射す一筋の光のようにリリスの心を照らす。けれども、それは彼女が抱えている葛藤や悩みを根本から解決するものではなかった。覚醒という道が、タイラーやエリオット、愛しい人たちと共に生きる道とどうしても結びつかない。彼女の目の前にあるのは、もはや風前の灯のか弱い命だ。
「先生、もし、どうしても覚醒できなければ……」
リリスが恐る恐る問うと、アスモデウスは微笑んで答えた。
「その時は、再びこの世界に戻り、君を守る手段を講じるだけさ。」
リリスの胸に、少しだけ安心感が広がる。いつもどこか現実的なアスモデウスのその言葉が、彼女にはなぜか不思議なほど頼もしく感じられた。しかしその一方で、アスモデウスの「悪魔」としての強大な力を恐ろしくも感じていた。
「ねえ、先生。」
リリスの囁くような声が静かな午後の日差しに照らされたカフェテリアに溶け込む。隣に座るアスモデウスがゆったりと彼女の方を向き、まるで次の言葉を待っているように穏やかな微笑を浮かべている。いつもと変わらぬ彼の優しさに、リリスは少しだけ安心したように息をつき、迷いを含んだ視線を落とした。
「どうしたんだい、リリス。」
その柔らかな声は、心に波紋を広げるように響く。リリスは口を開こうとして一瞬ためらったが、次第にその表情は切実な色を帯びていく。深く考え込んだ後、意を決したように震える声で言葉を紡いだ。
「……悪魔は、人間と愛し合っちゃいけないんでしょうか?」
その問いを聞いたアスモデウスは、一瞬だけ驚いたように瞳を瞬かせたが、すぐに優しい笑みに戻った。リリスが悩み抜いた果てに出したこの言葉を、彼は真剣に受け止める。ゆっくりと彼はリリスに向き直り、まるでその心を静かにほぐすかのように問いかける。
「ふむ……リリス、それは少し難しい質問だね。」
リリスの表情には、もどかしさと切なさが交差している。アスモデウスはそんな彼女の感情の揺らぎを包み込むように静かに語り始めた。
「もし君が運命の人と愛し合うのなら、それは相手のすべてを受け止める覚悟が必要になる。……たとえ、その愛が君自身や相手を壊すものだとしてもだよ。」
彼の言葉に、リリスの胸が締めつけられる。彼女の脳裏には、無意識に浮かび上がるエリオットの姿がある。彼との出会い、彼の冷たさの裏に隠れた寂しげな瞳、その全てが自分にとってかけがえのないものに感じられてしまう。だが、運命の人を愛した代償が、彼の命を奪うという破滅的な結果をもたらすかもしれないと考えると、あまりに残酷で耐えがたい思いが胸を締め付けた。
リリスは俯きがちに、唇を震わせながら呟くように言った。
「あたしは、彼を支えたい。彼が一人にならないようにしてあげたいんです。かつて先生が、あたしを救ってくれたみたいに。」
その言葉にアスモデウスは静かに頷く。どこか懐かしむように、リリスの肩にそっと手を置いた。その手の温もりが、リリスの張り詰めた心をわずかに解きほぐす。アスモデウスは彼女の瞳をじっと見つめ、ゆっくりと優しい声で問いかけた。
「リリス、もしその愛が破滅に繋がるものだとしても、それでも君はその愛を選ぶのかい?」
アスモデウスの問いは、まるで試されているかのようにリリスの胸に響き渡る。彼女の表情には、痛みに耐えかねたような迷いが浮かび、目を伏せたまま何も答えることができなかった。彼の言葉は、彼女の心の奥底に突き刺さり、その言葉の重みに心が軋むようだった。
「君がその愛を選べば、何らかの犠牲は避けられない。それでも、君がその人を愛し、共に歩んでいきたいと願うなら、私は何も言わずに見届けよう。」
アスモデウスはリリスの肩に手を置いたまま、微笑みを浮かべて彼女を見つめ続ける。その瞳には、まるで父親が娘の成長を静かに見守るかのような深い慈しみが宿っていた。リリスの目には、いつもの彼の気高い冷静さの中に、暖かい何かが静かに光っているように感じられた。
彼の温かなまなざしに、リリスの胸は一瞬だけ救われたような気がしたが、すぐに自らの葛藤が再び顔を覗かせる。自分の願いと相手への愛情、その両方を抱えていけるのか。その答えはまだ、彼女には見つけられないままだった。