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第9話:運命の人は過労死寸前?!(7)

「え、なんで……」


リリスの言葉は、ひどくかすれて震えていた。目の前の男──エリオットの監視役だという天使は、彼女の困惑に気づくと、煙草を指先で弄びながら肩をすくめた。


「嬢ちゃんは見たところ、まだ未熟な悪魔だな。おおかたそいつを“食って”覚醒しようって算段だろう。」


彼の無慈悲な指摘に、リリスは無言で彼を見つめ返す。その視線には動揺と反発が入り混じっていたが、次第にそれらは薄れていき、代わりに自分自身でも何を言えばいいのかわからない沈黙が残った。


「……そう、だけど……」


男は苦笑を浮かべ、冷静に答える彼女を見下ろしていた。その鋭い眼差しは冷たく、どこか人間離れした厳しさがあった。


「悪魔の覚醒ってのはな、それなりの犠牲を伴うもんだ。とんでもない量の生命エネルギーが必要なんだよ。つまり、そいつが持ってるエネルギーを根こそぎ持っていくくらい、な。」


その言葉の重さがリリスの心にゆっくりと沈んでいく。彼女はエリオットの疲れ切った顔を見つめたまま、かすかな震えを指先に感じた。彼が自分の「運命の人」であるという可能性を感じたのは、ほんの束の間のこと。だが、その裏には、彼を支えられないという厳しい現実が立ちはだかっている。リリスは知らず知らずのうちに唇を噛みしめ、胸の中に広がる罪悪感と共にエリオットを見下ろした。


「そんな……。あたし、人殺しをしに来たんじゃありません。」


リリスの呟きは、夜風に溶けるように静かに消えた。自分のために誰かの命を奪うなんて、考えたこともない。だが、自分の存在が彼に危険をもたらしているのだと知ってしまった今、どうしたらいいのかわからない。


「嬢ちゃん、見かけによらず“甘い”こと言うんだな。」


天使の男は冷たい笑みを浮かべ、容赦なく言い放つ。


「悪魔が人間の感情に縛られてちゃ話にならないぜ。覚醒しなきゃ、悪魔の世界じゃ下層のまま、早晩命も危ういってことだろう。」


「でも……」


「嬢ちゃんはその程度の覚悟で人間界に来たのか?」


彼の言葉が鋭い刃のように突き刺さる。リリスは下唇を噛みしめ、肩を落としながら視線をそらした。


「……わかってる。でも、あたし……」


リリスの中で、あの日アスモデウスに教えられた「覚醒」への道がちらつく。愛する相手との結びつきこそが淫紋の覚醒を導き、サキュバスとしての成長を遂げるための道だと。


だが、目の前で静かに息づくエリオットを見つめるたび、その方法があまりに非現実的に思えてくる。彼を傷つけずに覚醒することが本当にできるのかという疑念が、彼女の心を暗い影のように覆っていく。


ふと、リリスはエリオットの疲れた顔にそっと手を伸ばし、優しく彼の髪を撫でた。彼女の指が滑ると、彼の表情は少し安らいだように見えた。


「……彼、悲しい目をしてたんです。だから、ほっとけなくて。」


天使の男は、何も言わずにリリスを見つめていた。やがて、溜息をつき、煙草の火をもみ消すと、少しだけ口角を上げて冷たい言葉を投げかけた。


「なら、その覚悟の上で“そいつを支えてみる”ってのも、案外悪くない選択かもな。」


リリスは驚いて男の顔を見上げた。そこには、ほんの一瞬だけ、彼女を励ますような色が宿っていた。


「それいいですね!ナイスアイディア!」


リリスは天使の男の意見を真に受けて、瞳をきらきらと輝かせながら答えた。


「彼の生命力を強化してからやることやれば、あたしも覚醒できるし彼も健康になって生き延びられる!『WIN—WIN』ですね!」


リリスの朗らかな宣言に、天使の男は唖然としたままぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。呆れるのと同時に、その無邪気な楽観主義には妙な可愛らしさすらあって、彼は一瞬どう返事をしたものか迷う。だが、結局は額に手を当てて肩をすくめた。


「嬢ちゃん、本当に悪魔かよ。そんな生半可な覚悟で覚醒できるのか?」


「やってみなきゃわかりませんよ。あたし、何だかやれる気がしてきました!」


天使の男は、彼女の言葉にもう一度深い溜息をつく。しかし、諦めの色と微かな苦笑を浮かべた顔で、彼女を見下ろした。


「そうかい、好きにしな。でもな、さっきも言ったが覚醒には途方もないエネルギーが必要だ。『食べる』相手も相当鍛え上げなきゃいけない。茨の道だってこと、覚悟しておくんだな。」


「ふふん、それも全部含めて、がんばりますよ!」


リリスは天使の男の忠告を聞いてもなお、胸を張って答えた。


「あたし、リリスっていいます!おじさんは?」


彼女が笑顔で手を差し出すと、天使の男はその言葉に眉をひそめ、「おじさんじゃねえ、マルコムお兄さんだ」と返した。


「マルコムさんかあ!よろしくお願いします!」


リリスはマルコムのことを気に入った様子で、うんうんと大きく頷いている。彼の肩を軽く叩くと、まるで旧知の友人にでも話しかけるように親しげに話し始めた。


「それじゃあ、マルコムさん!まずはエリオットのこと、いろいろ教えてもらっていいですか?」


「……あのな、俺は天使で悪魔とは対立する存在なの。ちょっと図々しいぞ。」


「いいじゃないですか、教えてくれても減るもんじゃないでしょ?」


リリスの無邪気な返しに、マルコムはしばし口を閉ざして考え込む。彼は元来、厳格な役割を与えられた監視天使で、魔界の者と馴れ合うなど論外だった。だが、目の前のリリスは、他の悪魔と比べて何かが違っているのも確かだ。彼女は彼の冷たい言葉にも怯まず、むしろその無防備さで懐に飛び込んでくる。マルコムは一瞬迷ったが、結局諦めるように短く頷いた。


「……わかった。少しだけなら、情報を教えてやる。ただし、あんまり期待するなよ。」


「わーい!頼りにしてます、マルコムさん!」


リリスのはしゃぐ声に、マルコムはうっすらと笑みをこぼした。

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