リリスがオフィスに足を踏み入れたとき、周囲の視線が自分に集まっていることにすぐ気がついた。ざわざわとした低い声で交わされる会話の断片が、耳に届いてくる。
「タイラーの新しい女か?」
「そうだろうな。今朝も、タイラーの車の助手席に乗って出勤してた。」
リリスはわざと何も気づかないふりをして、デスクに向かう。背中に感じる視線や、聞こえてくるささやき声を無視しようと努めたが、その内容はどれも気に障るものばかりだった。
「いい女だな。お近づきになれないかな。」
「ばか。そんなことしたらまた秘書がいなくなるだろ。」
「……ああ、それもそうだな。しかし、前の子も可愛かったなあ。」
リリスは手に持った書類をぎゅっと握りしめた。自分が人間の男たちの視線や噂話にさらされることなど、特に何も感じない。それでも、ここで人間のふりをしている以上、彼女はどこかで「普通に働く人間」として扱われたいという思いが少しだけあった。
「前の秘書、確かエリオットにパワハラされて辞めたんだっけ?」
「それだけじゃないって噂もあるよ。」
「どういうことだよ?」
「エリオットに傷物にされたんじゃないかって話もあったろ。さすがに公にはなってないけどさ。」
その言葉を聞いた瞬間、リリスは胸の奥に何かが引っかかるのを感じた。昨夜のことが頭をよぎり、知らず知らずのうちに歩みが遅くなる。エリオットのあの冷たい視線、何かに苛立ち、彼女を責めるような言葉で詰め寄った様子。それが、今ここで囁かれる噂と重なって見えた。
リリスはそのまま視線を落とし、自分のデスクに向かって歩き続ける。道すがら、彼女の視界にタイラーが現れた。彼はリリスに気づくと、にこやかに手を振り、彼女のもとへ向かってきた。
「リリー!おはよう。昨日は遅くまでありがとう。」
タイラーは周囲の視線をまるで気にせず、いつも通りの朗らかな笑顔を向けてくれる。
「ありがとうございます、社長。早く役に立てるように頑張りますね。」
リリスは少し笑顔を浮かべて返事をしたものの、その心はどこか上の空だった。タイラーは気にした様子もなく、彼女の肩を軽く叩き、「困ったことがあったらなんでも言ってくれよな!」と親しげに笑いかけてからその場を去って行った。しかし、その光景を目にした周囲の人々は、また何かを囁き始めていた。
タイラーがいなくなると、リリスはふと誰かの視線を感じた。そちらを見ると、オフィスの奥に立つエリオットの冷たい視線とばったり目が合った。彼は腕を組み、彼女を無表情でじっと見ている。彼の視線が鋭く絡みつき、あたかも彼女を試すかのような、冷たくも苛立ちのこもった目だった。その瞬間、あのクラブでの夜のように、再び目の前で火花が散るように目の前がチカチカと光った。
(……相当嫌われているみたいね。)
リリスはそう思いながらも、その視線に負けないようにエリオットをまっすぐに見返した。彼女の中には、昨夜の出来事が心に色濃く残っていたのだ。彼の言葉、態度、そして彼の周囲に漂うさまざまな噂が、今まで何も知らなかった彼女に疑念と不安をもたらしている。
(人間社会で生きるのも、楽じゃないわね。)
リリスは軽くため息をつくと、与えられた仕事を黙々とこなしていった。
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その夜、タイラーはリリスのために歓迎会を企画した。突然の呼びかけだったにも関わらず、タイラーの人望のおかげで、あっという間に仲間たちが集まり、店内は活気に満ちた雰囲気に包まれていた。タイラーが「さあ、みんな!」と声を張り上げてみんなの注目を集めると、リリスに向き直り、満面の笑みを浮かべて彼女を紹介する。
「みんなも気づいてると思うけど、彼女がオレの秘書であり、恋人のリリスだ!」
その言葉に店内のざわめきが増し、周囲の人々から「おめでとう!」「社長を射止めるなんてやるね!」と声が飛ぶ。リリスも軽やかな笑顔で一人ひとりに愛想よく応じ、場を楽しんでいる様子だった。
彼女は持ち前のサキュバスらしい魅力を発揮し、自然と周囲の視線を引きつける。会話が弾むたびに人々の笑い声が響き、リリスは自分が注目される中での社交性を遺憾なく発揮した。
そんな中、エリオットだけは一歩引いた様子で、場の熱気には加わらず黙々とグラスを傾けていた。時間が経つにつれて場の賑わいが増してくると、エリオットは静かに席を立ち、喧騒を抜け出してバルコニーに出た。
バルコニーは薄暗く、喧騒から切り離された静寂が広がっている。エリオットは煙草を取り出し、火を灯す。深く吸い込んで吐き出す煙の中で、彼はただ静かに夜の空気を楽しんでいた。