リリスは長い10日間の仕事を終えて、夜の街を歩いていた。彼女は様々な役割をこなしながら、少しずつ人間界に馴染んでいた。占い師やエステティシャンといった多種多様な仕事を通じて、たくさんの人と触れ合い、彼らの恋や悩みに耳を傾けた。彼女の天真爛漫な性格は自然に会話の糸口を作り、相手の心にそっと入り込むように癒しと共感を提供し、そこで生まれる精魂を集めるのが今回の任務だった。彼女は見た目を美しいまま保つようにというアスモデウスの言いつけ通り、肉体的にも精神的にも無理のない範囲で仕事に従事してきた。
「精魂の集め方って、いろいろあるのね。」
リリスは夜風に吹かれながら、ふっと微笑んだ。
サキュバスとしての経験が浅いリリスは、これまで「精魂はキスや行為を通じて得るもの」とばかり思っていた。しかし、この仕事では相手の話に耳を傾け、共感を示し、自然な触れ合いを通して精魂を引き出すことで、負担を感じることなくエネルギーを得ることができた。
「これなら、なんとかやっていけそう。」
リリスは小さくうなずき、いい報告ができそうだとひとりでほっと胸を撫で下ろした。
やがて、街灯が少なくなり薄暗い路地裏に差しかかると、リリスは心を集中させて魔界へのゲートを開こうとした。ところが、いつもなら闇に浮かび上がるはずの印は姿を現さず、黒い闇の中には何の反応もない。
「え、なんで……?」
リリスは眉をひそめ、焦りを感じながら再び念じたが、魔界の気配は何も感じられない。それどころか、まるで霧のように遠のくような感覚がじわりと手元に広がる。
リリスは戸惑い、もう一度、さらにもう一度と何度も試みるが、ゲートが開く気配はない。彼女の中に不安がじわじわと広がり、心臓が早鐘を打つ。冷や汗が頬を伝い、手元がわずかに震えているのを感じた。
「魔界に戻れない……」
これまで一度も考えたことがなかった事態にリリスは息を呑み、不安の色が顔に浮かんだ。
とりあえず状況を落ち着いて受け止めようと、リリスは深呼吸をし、今の立場を整理してみた。魔界に戻れないだけでなく、人間界で住処としていたホテルはチェックアウトを済ませており、すでに戻ることはできない。だが、それ以上に彼女が恐れていたのは「食料」の問題だった。
人間界では魔界以上にエネルギーが必要で、消耗も激しい。しかも「精魂」の供給を怠ると、体が保てなくなる可能性もある。アスモデウスからもらった美しい姿を保ちたいという思いもあり、リリスは真剣な表情で周囲を見回した。
「とにかく、食料と住処を確保しないと。」
自分に言い聞かせるようにそうつぶやき、リリスは再び街の明るい方角へ歩き始めた。
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煌びやかなライトが音楽のリズムに合わせて明滅し、人々の熱気とざわめきが一つの塊となって揺れている。ここは夜の世界を彷徨う者たちが集まるナイトクラブ。暗がりの中、リリスは不安を胸に秘めつつ、サキュバスとしての本能に従って、人間たちのエネルギーを探っていた。いつもと違うこの土地で、彼女の目に留まったのは、対照的な雰囲気を纏う二人の男だった。
一人は、陽気で人懐っこそうな金髪の男。周囲にいる人間たちとは比べ物にならないほどの圧倒的なエネルギーが、まるでオーラのように漂い、リリスにはそれが眩しいほどに見える。全身から活力が泉のように溢れているその姿に、リリスは思わず唇の端を上げて、「ふーん、あの子いいじゃない。」と内心でつぶやく。
リリスの視線に気づいたのか、金髪の男は軽くウィンクをして陽気な笑顔を返した。彼の屈託のない笑顔にはどこか安心感があり、リリスも自然と表情を緩める。けれども、彼の隣に立つもう一人の男がふとリリスの視線に入ると、その明るい気分が一瞬にして翳りを帯びた。
ダークグレーの髪をしたその男は、冷たい目つきで彼女を観察するように見つめている。彼からは金髪の男のような強いエネルギーは感じられず、むしろ何か重く陰のある雰囲気を漂わせていた。リリスの視線がその冷たい視線と交わった瞬間、火花が目の前で弾けたように視界がチカチカした。
リリスは、さりげなく心を落ち着け、持ち前の明るさを装って金髪の男に声をかけた。
「ねえ、楽しんでる?」
その声に反応するように、彼は手に持ったグラスを掲げて無邪気に笑う。
「もちろんさ!」
陽気な笑顔とともに返ってきたその言葉に、リリスは人間界での最初の「食事相手」として彼を選ぶ決意を固めた。どれだけ豊かな生命力が彼から溢れているかというと、近くにいるだけでもリリスの空腹がじわじわと刺激されるほどだった。
「そっちの彼はどう?」
リリスが人懐っこい笑顔で問いかけるも、彼の隣にいるダークグレーの髪の男は何の反応も見せなかった。そして、楽しそうな二人を見て、不機嫌そうに眉をひそめた。
その男は「相手が見つかってよかったな。それじゃあ、俺は帰る。」と冷たく言い残し、無表情のままその場を離れていった。
リリスは彼の反応に驚き、すぐにそれが苛立ちに変わった。挨拶もなしに、いきなり冷たい態度を取られた理由が分からず、なんとなく心に棘が刺さったような気がした。しかし、今はエネルギーの確保が第一。彼への不快感を振り払うように、リリスは再び金髪の男に微笑んでみせる。
「ねえ、もっとお話しない?」
彼は楽しそうにうなずき、リリスとグラスを軽く重ねる。
「もちろんだよ。オレはタイラー。君の名前は?」
「リリスよ。リリーって呼んで。」
「君にぴったりの可愛らしい響きだね。」
タイラーと名乗ったその男の目が、好意を隠さずにリリスに向けられる。彼の屈託のない笑顔や、陽気なエネルギーがリリスの空腹をさらに刺激してくる。会話が弾むうちに、彼女は自然とタイラーの隣に寄り添うようにし、その生命力に触れる準備を整えた。
「じゃあ、もう少し静かな場所に移動しない?」
リリスがささやくと、タイラーはうれしそうに頷き、リリスを誘うようにしてタクシーに乗り込む。
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