「ところで、リリス……」
アスモデウスは、ふと軽く目を伏せ、彼女に問いかけた。
「お前は最近、人間界に行っているのか?」
リリスはぎくりとし、目をそらして言葉に詰まった。あまりにも突然で、しかし鋭いその問いに、内心を読まれたかのような恥ずかしさが胸をざわつかせる。
「……仕方ない子だ。」
小さな微笑みを浮かべながら、アスモデウスは優しくリリスの顎に手を添え、彼女の顔を自分に向けた。リリスはふてくされたように口を尖らせ、頬を膨らませている。彼女はさらに拗ねたように視線を逸らした。頑なに彼の顔を見ようとしないその態度に、アスモデウスは畳みかけて質問する。
「この様子だと、食事もしてないんだろう?」
アスモデウスは穏やかに問いかけたが、その声には静かな諫めが含まれていた。
「……だって。先生がくれるエネルギーで生きていけるもん。」
リリスはぼそりと答えるが、その声には甘えとわずかな怯えが交じっている。
「やれやれ。」
アスモデウスは仕方なさそうにため息をつき、リリスの頬をそっと両手で包み込むと、ゆっくりと彼女の唇に自分の唇を重ねた。
その瞬間、リリスの心と体に、温かなエネルギーがじんわりと満ちていく。ほろ苦いキャラメルのような濃厚な味が口内に広がり、彼のエネルギーが唇を通して流れ込むたび、体が熱を帯びていく。リリスは目を閉じ、その感覚に浸りながら無意識に彼の唇に吸い寄せられ、もっと多くを求めるように唇を貪った。これがリリスにとっての唯一の「食事」だった。
ようやく唇が離れると、アスモデウスは微笑んで彼女を見つめ、静かに言った。
「お腹が減っていたんだね。」
リリスは、彼の言葉に恥ずかしくなって少し俯き、小さくこくりと頷く。そして、アスモデウスの手を握り返し、まるで頼るようにもじもじと身を寄せた。
「リリス、厳しいことを言うようだが……お前には独り立ちしてほしいんだ。」
アスモデウスの言葉は静かで温かいものだったが、その内容はリリスの胸をひどく締め付けた。リリスは驚いたように顔を上げ、その瞳に悲しげな光を宿しながら彼を見つめ返した。
「……あたしが、役立たずの穀潰しだからですか?」
悲しい瞳で、ぽつりと絞り出したその言葉には、サキュバスとしての未熟さへの深い劣等感が滲んでいた。アスモデウスは、リリスの頭をそっと撫で、首を横に振った。
「違うさ。お前のことが心配なんだ。その体じゃ、エネルギーを効率的に使えないはずだからな。」
その言葉に、リリスは言葉を詰まらせた。彼の言うとおり、彼女の体は未熟なのだ。未熟なサキュバスは、体内におけるエネルギーの循環システムが不安定で、必要以上にエネルギーを消費してしまったり、うまく魔力に変換できなかったりと、生活に支障をきたすことが多い。
「……やっぱり、あの出来事が尾を引いているのかい。」
アスモデウスの優しい声が静かに彼女の心を撫でた。リリスは彼の言葉に、思わず遠い過去を思い出していた。成人の儀に失敗し、誰にも言えない恥や悔しさを抱えて隠れるように過ごしていたあの頃。暗い路地裏で身を潜め、空腹に耐え、身も心もボロボロだった。そんな彼女を見つけ、そっと肩に手を置き、優しく抱き寄せてくれたのがアスモデウスだった。
しばらく黙って遠い思い出に浸るリリスに、アスモデウスは小さく微笑んで提案をした。
「私の知人から、仕事の依頼が来ている。試しに受けてみないか?」
リリスはふとアスモデウスの顔を見上げた。その眼差しには、心からの思いやりと期待が宿っていた。彼女は迷うように視線を落とし、自分の未熟さや弱さが脳裏をよぎり、やがて小さな声で言った。
「……ここで逃げたら、きっと一人前になれない……!」
リリスの声はかすれており、その中には焦燥と恐れが含まれていた。それを聞いたアスモデウスは、優しくうなずき、彼女を励ますようにそっと肩を抱き寄せた。
「リリス、大丈夫だよ。少しずつでいい。人間界の空気に慣れていけばいいんだ。」
彼の言葉は、リリスにとってまるで温かい灯火のようで、彼女の心にわずかだが、確かに安らぎを与えてくれた。
「先生……」
リリスは呟き、彼の穏やかな声に浸りながら、安心感とわずかな決意が芽生えていくのを感じた。だが、それでも完全に不安が消え去るわけではなく、まだ心のどこかに、迷いが残っていた。
「でも、先生……あたしが人間界に行っても、ちゃんと生きていけるんでしょうか?」
彼女の声には、魔界と異なる人間界の環境への不安が色濃く滲んでいた。アスモデウスは、優しく彼女の肩を抱き寄せたまま言った。
「確かに、人間界は魔力の維持が難しい特殊な環境だ。だが、何かあれば私がすぐに駆けつけよう。」
彼のその力強い言葉は、リリスの心の中に小さな安堵の灯をともした。それでも、その灯はまだ彼女の心の奥底で揺らめくばかりで、完全な安心感とは程遠いものだった。リリスはかすかに微笑んだが、その表情はどこか釈然としないままだった。
「ありがとう、先生。」
リリスはぼんやりと、未来に何が待っているのかを思い浮かべながらも、内心ではまだ深い不安を抱えていた。
「でも……運命の相手なんて、本当に見つけられるんでしょうか?」
彼女の問いに、アスモデウスは小さな笑みを浮かべ、静かにうなずいた。彼の瞳には、リリスを包み込むような温かさが溢れている。
「お前ならきっと見つけられる。辛い道のりになるだろうが、いつでも私が見守っていることを思い出しておくれ。」
アスモデウスのその言葉に、リリスは小さく頷いた。どこか遠くに見える光に向かって、恐れを抱きながらも進む覚悟を胸に、彼女は人間界への第一歩を心の中で決意しつつあった。
アスモデウスはリリスを大きな鏡の前に立たせ、穏やかに微笑んでみせた。そして、彼はゆったりと煙管を手に取り、深く一息を吸い込むと、紫色の煙がまるで命を宿したかのようにゆらゆらと立ち昇った。
「そうと決まれば、早速準備だ。」
アスモデウスの声はどこか誇らしげで、彼の優美な仕草が魔界の夜にふさわしい厳かさをまとっている。
紫煙がリリスの周りでふわりと円を描きながら広がり、やがて彼女を包み込むように巻きついていく。リリスは不思議な心地よさを感じ、目を閉じた。すると、ふわりとした温かさと共に、体がどんどん軽くなるような感覚が広がり、まるで新たな自分に生まれ変わる瞬間を迎えているかのようだった。
煙がゆっくりと晴れていくと、鏡の中には見違えるような美しい姿が映し出された。ぼさぼさだった髪は、艶やかな波打つような光を放ちながらさらりと流れ落ち、まるで闇夜に降り注ぐ星の煌めきを映しているかのように輝いている。そして白く滑らかな肌は、まるで真珠のようなきめ細やかな輝きを帯び、吸い込まれるような透明感を醸し出していた。
リリスの体つきは柔らかさとしなやかさのメリハリが整えられ、丸みを帯びた胸元が自然な美しさでふっくらと膨らんでいる。女性らしいラインをなぞるようにくびれができ、お腹は適度な筋肉で引き締まりながらも柔らかな温かみを保っていた。
抑揚のないただの線のようだった彼女の足も腕も、細くしなやかな彫刻のようなラインを描き出している。その姿は、まさに彼女が憧れていた艶やかで自信のある一人前のサキュバスそのもので、彼女が求めていた「美しさと力」をまとうものだった。
リリスは思わず鏡に映る自分の姿に見惚れ、指先でそっと髪の一房、頬、ボディラインを撫でる。そのしなやかな動きも、どこか優雅で自然と華やかさを生み出していた。
「どうだい、リリス?」
アスモデウスが静かに問いかけた。彼の表情にはどこか満足げな笑みが浮かんでいる。
リリスは輝く自分の姿に心を奪われながら、小さく息を呑んだ。まるで本当に魔法にかけられたように変身した自分が、まばゆく美しい未来へ一歩を踏み出す準備を整えたかのような気持ちで、彼女はゆっくりと笑顔を浮かべた。
「先生、すごい!」
リリスはまるで歓声を上げる子供のように目を輝かせ、思わずアスモデウスに飛びついた。その華奢な腕が彼の首にしがみつくと、アスモデウスも笑みを浮かべ、リリスの細い体を軽々と持ち上げてぐるぐると回した。まるで、彼女の喜びが自分にも伝わったかのように。
彼の腕に抱かれたリリスは、心から無邪気に笑い、幸せそうに目を細めている。その姿はどこか儚げな美しさを持ちながら、同時にこれから始まる未来への期待感で輝いていた。アスモデウスはそのまま、リリスをふんわりとベッドに放り投げる。柔らかく弾む感触に包まれたリリスは、夢見心地で上を見上げながらクスクスと笑った。
アスモデウスはそんなリリスを温かい眼差しで見つめ、隣に静かに腰を下ろした。そして、彼女の頭を優しく撫でながら、ふとその笑顔に言葉を紡いだ。
「これがお前の本来のポテンシャルだよ。私は魔力をほんの少し分けただけだ。」
彼の穏やかな声が、心地よい低音となってリリスの耳に響いた。彼の表情には、彼女が本来持っている力を信じているからこその、深い自信と誇りが浮かんでいる。それを見たリリスは、先ほどまでの不安など吹き飛ばされたかのように、何度も何度も元気に頷いた。
アスモデウスは、彼女の姿を見て穏やかに目を細めたあと、リリスに向かって指を一本立てて「では、まずは人間界で私の仕事をこなし、精魂の集め方を学びなさい。」と言い添えた。
リリスは胸を張り、自信満々の表情で、「わかりました!」と意気揚々と返事をする。彼女の目には、もう迷いや戸惑いはなく、次なる挑戦へと向かう決意と希望が満ち溢れていた。
アスモデウスはその熱意に微笑みを返しながら、さらに優しい口調で続けた。
「まずは、精魂を一定量集め、そしてコントロールできるようにすることだ。それが、今のお前にとって大事な第一歩になるだろう。」
「はい!……でも、具体的には何をすればいいんでしょうか。」
リリスが小首をかしげて尋ねると、その無垢な表情にアスモデウスの目が優しく細められる。
「そうだな……まずは、その新しい姿を維持できるようにしてみようか。」
その言葉にリリスは、未来への期待で胸を高鳴らせながら再び力強く頷き、輝く瞳で彼を見つめる。アスモデウスの言葉には、彼女を見守る師としてのあたたかな愛情が込められていた。
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