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第14話:堕天使の噂(2)

ジーナは、アポロを連れて「太陽の広場」を見下ろすカフェにやってきた。日差しが窓辺に柔らかく差し込み、広場から聞こえる人々の賑わいが微かに耳に届く。彼女は注文したばかりのコーヒーを二人分テーブルに置き、椅子に腰を下ろした。そして、おもむろにアポロに向かって、すっとスマートフォンを取り出すと、柔らかな笑みを浮かべて尋ねた。


「録音してもいい?」


アポロの目が一瞬不安げに揺れた。「ええと…」と声を詰まらせた彼に、ジーナはそっと言葉を添える。


「この音声は、私があとで文字起こしする時にだけ使うわ。絶対に外には漏らさないって約束するから。」


彼女の声は、真剣さの中にもどこか温かみがあって、アポロの心に小さな安心をもたらした。しばらく迷っていた彼は、ついにうなずき、ジーナもほっとした様子でレコーダーアプリを起動させた。


「単刀直入に聞くわ。あの夜、広場に落ちてきたのはあなたよね?」


アポロは少し目を伏せ、そして深く息を吸い込むと、「はい」と答えた。その瞬間、ジーナの瞳には一層の好奇心と探究心が宿り、ノートパソコンのキーボードをカタカタと打ち始めた。


「どうやって、あんな場所に落ちてきたの?」


「それが、わからないんです。気が付いたら広場に倒れていて、巡回中の警察官に保護されました。」


ジーナは、アポロの一言一言に集中し、視線を逸らすことなく質問を続ける。その表情には、普段の穏やかな雰囲気とは違った、真剣さが宿っていた。


「でも、石畳に叩きつけられたらただじゃ済まないわよね?体は平気だったの?」


その問いにアポロは一瞬言葉を詰まらせた。記憶の底から、あの夜のことがよみがえる。自分の周囲には血の海が広がり、激しい頭痛と吐き気が全身を蝕んでいた。朦朧とした意識の中で、警告灯のチカチカとした点滅が視界にちらつき、彼の不快感をさらに煽っていた。もし、あの時、彼に治癒の力がなければ、今ここにいなかったかもしれない。


しかし、治癒の力を知られるのはまずい。彼は視線を落とし、咄嗟に答えを絞り出した。


「偶然にも、うまく受け身がとれたみたいで……。出血はしましたが、回復は早かったんです。」


ジーナはその説明に少し眉をひそめ、沈黙のままアポロをじっと見つめた。その視線はアポロを試しているかのようで、彼は少し身じろぎした。しかし、ジーナは視線を逸らさずに、また質問を重ねた。


「あそこに落ちてくる前は、どこで暮らしていたの?」


その問いには、言葉に詰まることなく答える。


「わかりません。記憶がなくて、本当の名前すら知らないんです。」


ジーナは、ノートパソコンに視線を戻し、アポロの言葉をタイピングしながら首を傾げる。


「じゃあ、アポロって名前も、本当のあなたの名前じゃない?」


「はい。俺を助けて、面倒を見てくれた人が名前をつけてくれたんです。」


「それって、どんな人?」


「リカルドさんという人です。彼は、街の人たちからとても慕われていました。」


その名前が出た瞬間、ジーナの手がピタリと止まり、彼女は一呼吸置いてから慎重に次の質問に移った。カタカタと再びキーボードが音を立て始め、視線はノートパソコンに向けられていたが、表情には何か思案げなものがあった。


「その人の元では、どうやって過ごしたの?」


「彼の仕事を手伝っていました。」


ジーナは手を止め、再びアポロを見据えた。その目には、単なる疑問ではない、なにか深い意図を秘めたものが宿っているように見える。彼女が何を知りたがっているのか、アポロには明確にはわからなかったが、不安が胸に渦巻くのを感じた。


「リカルドさんの仕事を手伝っていたって言ったけど、彼はどんな仕事をしていたの?」


アポロは一瞬言葉に詰まったが、「探偵です。俺は助手として、雑用やお使いがメインでした。時々、難しいこともあったけど……」と慎重に答えた。アポロは探偵助手時代の「守秘義務」という言葉を思い出し、リカルドが携わっていた事件や、彼の本当の仕事に踏み込むわけにはいかないと判断した。だが、ジーナの眼差しは鋭く、アポロの言葉の背後に潜む何かを、見逃していないように感じられた。


彼女は少し頭を傾け、まるで目の前のパズルを解こうとするような表情で、問いかけた。


「そのリカルドさん…もし、私が知っている『リカルド・ハイゼンベルク』だとしたら、彼はちょっとした有名人よ。そんな『街の守護者』と言われるような人に助けられたのは、何か特別な理由があるんじゃないかって、思わない?」


ジーナの問いに、アポロは息を呑んだ。リカルドが自分を助けた理由や、その明確な動機については聞かされていなかった。ただ、リカルドがアポロに宿る特殊な力を、何の疑問も持たずに受け入れてくれたのは確かだった。その理由は彼にも分からないが、リカルドの沈着な態度は、そのような状況に慣れているかのようだった。


ジーナはアポロの沈黙に気づき、さらに机に身を乗り出して言った。


「ねぇ、もしよかったら、私に話してみてくれない?あなたが感じている『違和感』について。もしかしたら、その何かが、私が追いかけている『堕天使』の真実に繋がっているかもしれないんだから。」


「えっ……」


アポロは動揺を隠せなかった。彼女が知りたいと思っているのは何なのか、どこまで話してもいいのか。自分のような存在を公にすることで、自分がどう見られるか、それが怖かった。カフェの窓から見える広場に目を移し、アポロは深く息をついた。太陽の広場と呼ばれるこの場所が、どこか異世界のように思えるのは、ここが自分の「落ちてきた」場所であるからだ。その記憶がよみがえるたび、彼は自分が何者なのかという問いが胸を突き上げてくる。


「アポロ?」


ジーナの優しい声が、彼を現実に引き戻した。彼女の瞳には、疑念も軽蔑もなく、ただ知りたいという純粋な好奇心があった。それを見ていると、アポロは一瞬、本当のことを語りたい衝動に駆られたが、やはり慎重に距離を保つべきだという考えが、彼を押し留めた。


その窓の向こうに広がる太陽の広場には、昼下がりの人々が忙しなく行き交い、穏やかな日常が広がっている。それが一層、自分の異質さを浮き彫りにしているようで、アポロは再び、黙り込んだ。


「どうして、俺にそんなに興味を持つんですか?」


アポロは視線を落とし、ほんのわずかに眉をひそめた。彼の問いには、好奇の眼差しにさらされることへの微かな警戒と、自分の内側に隠してきたものが、いま目の前にいる女性によって暴かれつつあることへの不安が入り混じっていた。


ジーナは一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに優しい微笑を浮かべて、目の前のディスプレイにそっと手を添えた。その仕草には彼女がただ単に好奇心で問いただしているわけではないという、慎ましさと優しさが滲んでいた。


「私はね、アポロ君、真実が知りたいだけなの。私の追いかけている都市伝説の一つとして、君が関わっているかもしれない『堕天使騒動』があるの。」


「都市伝説……」


彼はその言葉を静かに呟いた。ジーナにとって、それは都市の片隅でささやかれる噂の一つに過ぎないのだろうか。あるいは、一握りの噂や無数の証言の先に見える、何かもっと大きな真実に触れたいと渇望しているのかもしれない。彼女の穏やかで揺るがない瞳が、アポロの心に不思議な居心地の悪さと安心感を同時に与えていた。


ジーナは彼を見つめ、さらに語りかけた。


「深夜の広場で、『赤い瞳の青年が空から落ちてきた』って話がネットで広まっているの。最近になって、その現場を見たっていう匿名の証言も増えているわ。君は、もしかすると、その噂の青年かもしれない。私はそう思っているの。」


その言葉は彼の胸の奥に鈍い衝撃を走らせた。孤独と痛みに支配されていたあの夜に、ブルーノは自分を保護してくれた。その後も、リカルドの助けと、仲間たちとの暮らしが、彼にとってどれだけ支えであり、大切な絆となったかを思い返す。だが同時に、その絆は一般の人々と彼との間に厚い壁を築き上げてもいた。もし彼の力が広く知られてしまえば、居場所の少ない自分に更なる孤独が降りかかるかもしれないという恐れが、心の奥に巣食っていた。しかし、ジーナのまっすぐな瞳は、そんな彼を逃げられない場所に縛りつけていた。


「……俺は、あの夜、確かに広場に倒れていました。」


アポロは一言一言を慎重に選びながら語り始めた。


「でも、自分がどうしてあそこにいたのか、はっきりとした記憶がないんです。ただ気づいた時には地面に横たわっていて、体中が痛くて……」


ジーナはそれを聞き、静かに頷いた。その表情には、彼の言葉を丁寧に受け止め、深く考えを巡らせる様子が浮かんでいた。


「それで、警察に保護されたと聞いたわね。でもね、君の話を聞けば聞くほど、どうしても論理的に説明ができない部分が気になるの。」


「どういう意味ですか?」


「だって、君は何もない空から落ちてきたし、地面に叩きつけられて大けがしていたのに、いくらなんでも回復が早すぎる。それって普通じゃないでしょう?」


彼女の言葉に、アポロは無意識に手元のカップを握りしめていた。心の奥底で湧き上がる不安が、言葉にされることで彼自身の中にも露わになりかけていた。だが、彼はその不安を飲み込み、沈黙を貫くことを選んだ。するとジーナは、柔らかな微笑を浮かべてカップを手に取り、少しだけ身を乗り出して優しく囁くように言った。


「ねえ、アポロ君、嘘をつかなくていいのよ。私はね、あなたが特別な力を持っていると、心から信じているの。」


アポロの心臓は一瞬止まるような衝撃を受けた。もしここから話を続けてしまえば、彼が隠してきた力や仲間たちとの過去に触れざるをえなくなる。それは、彼にとって一番避けたいことであり、彼の中に築き上げてきた「秘密」の領域が破られる瞬間だった。しかし同時に、ジーナのまなざしには、ただの好奇心を超えた、彼の抱える孤独や不安に寄り添おうとする真摯な想いが映っていた。


「……これ以上は、ごめんなさい。」


アポロは視線を落とし、かすかに震える声でそう呟いた。彼の言葉を聞いたジーナは、驚いたように少し目を見開いたが、すぐに口元に手を添え、静かに頷いた。


「そう、分かったわ。今日はありがとう、話をしてくれて。」


「いえ……ご期待に沿えず、すみません。」


アポロが深く頭を下げると、ジーナは小さく微笑んで、テーブルに置かれたスマートフォンを手に取り、録音用のアプリケーションを静かに終了させた。


「あなたは賢い人ね。初対面の相手に簡単に秘密を話せないのは当然のことよ。」


彼女はカップにそっと指を添え、コーヒーを一口含んだ後、じっと彼を見つめた。


「せめて、何かお礼をしたいのだけれど、何がいいかしら?」


「いえ、お気遣いなく。コーヒー、ごちそうさまでした。」


「ダメよ。私は納得がいかないの。何か欲しいものがあれば、教えてちょうだい。」


「そんな無茶な……」


アポロはカップの縁を指でなぞり、苦笑しながらも考えを巡らせた。実際、彼の胸の奥には、リップとの関係についての不安があった。ジーナの善意溢れる視線を受けて、アポロはその話題をどう切り出そうか考えていた。やがて、日の浅い関係ながらも、彼女になら少し話してもいいかもしれないという思いがかすかに顔を出した。


「ジーナさん……実は、ちょっと相談があるんです。」


アポロは、迷いを振り払うようにして、重い口を開いた。


「もちろん。なんでも話してみて、アポロ君。」


ジーナの柔らかな声が耳に届くと、アポロは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。だが、胸の奥には重苦しい不安が残ったままだ。彼は内心の揺れを隠しながらも慎重に言葉を選ぶ。


「職場で、女性の先輩とうまくいかなくて。どうしたらいいのかわからないんです。」


その言葉を口にした瞬間、頭に浮かぶのはリップの厳しい表情だった。アポロは、任務中に彼女の期待に応えられなかったことが原因で、彼女を怒らせてしまった経緯をジーナに打ち明けた。リップは自分にも他人にも一切の妥協を許さない。そのため、戦場で力を発揮できなかったアポロを目の当たりにしたリップが、これまで以上に怒りを露わにし、荒れた様子を見せたことは理解できる。けれど、それでも冷たい沈黙が続く彼女との関係が、今もアポロの胸を痛めつけていた。


「俺のせいで、こんなことになったのは理解しています。でも、あんなふうに無視されたの、初めてで……どうやったらまた信頼を取り戻せるか分からなくて。」


アポロはうつむきがちに話し終えると、ジーナは思案顔で静かに頷いた。やがて、彼女は優しい視線をアポロに向け、言葉を紡ぐ。


「彼女は、きっと自分の仕事に大きな誇りを持っているのね。君が感じているように、まずはそれに応えようとする姿勢を見せることが大事だと思うわ。」


「少しずつ信頼関係を築いていくってことですよね。」


「そうね。具体的には、細かいサポートができるように準備しておくと良いかもしれない。例えば、彼女の得意分野について少し勉強してみるのもいいわ。」


ジーナの助言は具体的で筋が通っていた。アポロは「なるほど。」と頷き、さらに耳を傾ける。


「あとね、これは少し応用テクニックだけど、『努力している姿』を自然に見せられたら、心証も変わるかもしれない。」


アポロはその言葉に真剣に頷き、ジーナの助言を心に刻みつける。彼女の信頼を取り戻すには一朝一夕でできることではないと理解しつつも、今すぐにでも何か行動を起こしたい気持ちが湧き上がってくる。


「ありがとう、ジーナさん。できることから始めてみようと思います。」


アポロが真摯に礼を述べると、ジーナは微笑みながらスマートフォンを取り出し、何かを検索して彼に見せた。そこには、ファッションショーのオンラインチケットが表示されている。驚いた表情のアポロに向かって、ジーナは柔らかく微笑んで言った。


「その先輩、ファッションに興味あるかな?」


アポロは、先ほどシャンスがファッション雑誌を購入していた光景を思い出しながら、「たぶん、はい……。」と答えた。


「なら、これをプレゼントしてみたら?スマホ貸して。」


ジーナはアポロのスマートフォンを預かり、操作してから返却する。画面にはオンラインチケットのQRコードが表示されていた。


「え、いいんですか?」


「いいのよ、このチケットは譲渡OKなものだから。これが今回の報酬ってことで。」


ジーナの屈託ない笑顔に、アポロはしばし呆然としてから深々と頭を下げ、「ありがとうございます。」と礼を述べた。


「嫌なことがあったら、たまにはリフレッシュするのもいいと思うの。それで気持ちが切り替われば、彼女もきっと何か変わるかもね。」


その言葉に力づけられ、アポロはスマートフォンをぎゅっと握りしめ、彼女との距離が少しでも縮まることを期待した。

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