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第12話:深淵に魅入られて(6)

アポロはウッドデッキのソファに身を沈め、冷たい夜風が肌を撫でるのを感じながら、ぼんやりと月を見上げていた。天空には静かに浮かぶ満月が、その柔らかな銀光で周囲をやさしく照らしている。夜空に映えるその光は、どこか幻想的で、心の隅に溜まっていた疲れや緊張を和らげてくれるかのようだ。かすかに揺れる木々がざわめき、葉と葉が触れ合って微かな音を立てる。そのさざめきが、安らぎをもたらす静かなメロディのように、彼の心に沁み込んでいく。


遠くからは誰かが奏でるピアノの音が、まるで夜空に溶け込むように淡く響き渡っていた。その静謐な調べがアポロの疲れた心を穏やかな波で包み込み、彼はふかふかのソファにさらに体を沈めてクッションを抱きしめると、ゆっくりと目を閉じた。


しかし、その静寂は一瞬にして破られた。頬に触れる冷たい感触に驚き、アポロは思わず小さく声をあげて飛び上がった。目を開けると、そこにはラフな部屋着姿のシャンスが立っていた。彼はハーフパンツにパーカーという軽装で、いつもの鍛え抜かれた筋肉が見える訓練時の装いとは異なり、肩の力を抜いた柔らかな雰囲気をまとっていた。


「よう、お疲れ。これやるよ。」


シャンスがニヤリと微笑みながら、袋をアポロに差し出してきた。袋の中を覗くと、アイスクリームが入っている。アポロは思わず笑みを浮かべ、シャンスに「ありがとう」と礼を言った。


「俺に一発食らわせるなんて、大したもんだ。」


その言葉にアポロは思わず胸がじんわりと温かくなった。あの強靭なシャンスに一撃を与えられたなんて、訓練中は精一杯で実感する余裕もなかったが、こうして褒められると不思議な誇らしさが湧き上がる。シャンスは袋からアイスを取り出し、アポロの隣に腰を下ろした。


「これ、俺のお気に入りなんだ。」


シャンスがアイスをかじると、嬉しそうな表情がその顔に浮かんだ。アポロもシャンスの真似をしてアイスをかじってみる。ナッツが散りばめられたチョココーティングがカリッと音を立て、中のバニラアイスがひんやりと口の中に広がった。その豊かな味わいと冷たさが、どこか子ども時代に戻ったような懐かしさを感じさせ、自然と微笑が浮かんでしまう。


しばらくすると、シャンスはふと夜空を見上げ、小さなため息をつくように呟いた。


「悪い。今日はちょっと熱くなりすぎた。」


その一言の奥には、昨夜の任務に対する複雑な思いが見え隠れしていた。アポロもその言葉の意味を悟り、アイスをゆっくりと舐めながら、昨夜の任務が脳裏に鮮やかに蘇ってきた。


「ううん。あんな事があったんだ。俺も早く強くならないと。」


「あれだけ動ければ上等だよ。お前は本当によくやってる。」


その慰めにも似た言葉に、アポロは救われていた。あの任務は決して計画通りに進んだわけではなく、想定外の事態がいくつも起きてしまった。全員がそれぞれに力を尽くしたが、それでも心残りがある結果だった。


とりわけアポロは、リップとのやり取りが胸に引っかかっていた。任務中に、彼女が荒々しく非難の言葉を投げつけてきた姿が今も目に焼き付いている。今になって振り返ると、リップもまた、自分が成し得なかった結果に苦しんでいたのかもしれない。アポロはようやく胸に詰まった重石の正体に近づいた気がして、彼女の気持ちに寄り添えなかった自分の未熟さを悔いた。


しかし、全てが失敗だったわけではない。彼らは謎の凶暴なスライムを捕獲するという、予想外の成果も得られていた。あのスライムが野放しにされていれば、甚大な被害をもたらす危険な存在だっただろう。アポロは咄嗟の判断でスライムを捕獲し、本部に持ち帰った。レイアの話によれば、それは現在イーサンによって無力化されているという。


「なぁ、アポロ。」


シャンスが星空に視線を向けたまま、ぽつりと口を開いた。


「俺たち、どこまで強くなればいいんだろうな。」


その言葉には、自分と仲間たちの命を背負い、戦い続ける者の覚悟が滲んでいた。ふと彼の横顔を見つめると、その眼差しは鋭く、昼間の陽気で無邪気な表情とはまるで別人のようだった。その一方で、彼の瞳はどこか優しい光を宿していた。


「見当もつかないよ。」


アポロもシャンスに倣うように星空を見つめ、大きく息を吐いた。


「それでも俺たちは、前に進む力を身につけないといけないんだね。」


その言葉に、シャンスは短く笑い、アポロの肩を軽く叩いた。「そうだな。」


再びアポロはアイスをかじり、その甘さと冷たさを味わいながら、シャンスの言葉を心の奥にそっと刻み込んだ。沈黙が流れ、二人はそれぞれの思いを抱えながら静かな時間を共有した。


やがてアイスを食べ終えたシャンスは、棒を口にくわえたまま大きく伸びをして、ゆっくりと立ち上がった。


「じゃあ、また明日な。」


「うん。おやすみ、シャンス。」


彼の背中が闇の中に消えていくのを見送ると、アポロは再びソファに深く腰掛けた。彼の中では、次の戦いに備えた新たな決意が芽生え始めていた。


アポロはウッドデッキに一人取り残された。夜の静けさがゆっくりと辺りを包み、月光が柔らかく光のヴェールを広げている。夜風が彼の髪をそっと揺らし、冷たい空気が肌を刺すように触れると、アポロは思わず肩をすくめた。思っていた以上に体が冷えきっていたのだ。そろそろ部屋に戻ろうと立ち上がりかけたその時、足元に何か柔らかなものが当たるのを感じ、アポロは驚いて身を引いた。


「なんだ……?」


足元に視線を落とすと、そこには大きな貝殻が転がっている。淡い光を浴び、貝殻についた小さな傷がキラキラと反射している。その貝殻を拾い上げると、不気味なほどに滑らかで冷たく、凍てつくような冷気が指先を伝ってじわりと広がってきた。もっと近くで見ようとしたその瞬間、アポロの胸に重く冷たい衝撃が走り、心臓がギュッと締めつけられたような感覚に襲われた。


暗闇の中から、ぎょろりとした紫色の瞳がこちらを睨んでいた。まるで悪夢の底から這い出してきたような異様な眼光に、アポロは思わず悲鳴を上げ、手に持っていた貝殻を放り投げてしまった。貝殻はガタガタと音を立てて転がり、デッキの上で静止する。


「うわっ!な、なんだよこれ!」


その声に、リビングのガラス戸がすぐに開き、イーサンが現れた。冷静そのものの表情で周囲を見渡し、怯えた様子のアポロに落ち着いた声で尋ねる。


「大丈夫か、アポロ。」


息が上がる中、アポロは何とか言葉を繋ごうとしたが、喉が引きつったように詰まり、代わりに震える指先で足元の貝殻を示した。すると、貝殻から青みがかったスライムがゆっくりと這い出してきた。薄暗がりの中で蠢きながら、まるで生き物のようにアポロに視線を向けるスライムの姿に、アポロは再び身を引く。


スライムは不気味な触手を両側に伸ばし、抗議しているかのようにアポロに向かってゆっくりと動き始めた。耳を澄ますと、まるで隙間風のようなかすかな音が聞こえる。子犬が寂しげに「ピーピー」と鳴いているような、そんな響きだった。


「ああ、こんなところにいたのか。」


イーサンが穏やかにほほ笑み、かがみ込んでそのスライムを丁寧に拾い上げた。スライムはイーサンの手の中でくにゃりと形を変え、ぐずるように体を揺らすが、イーサンが優しく撫でると「キュウ」と甘えるような小さな声を上げ、徐々に落ち着きを取り戻していった。


「驚かせてすまない。目を離した隙に逃げられてしまってな。」


「ボス、これって……もしかして?」


「昨日の任務でお前が捕獲したスライムだ。」


イーサンはそう言って、スライムを手のひらに乗せてアポロの前に差し出した。つい昨日までは狂暴そのもので、見るものすべてに襲いかかっていたはずのスライムが、今ではどこか無邪気な雰囲気を漂わせており、アポロに視線を合わせている。


「これが、あのスライム……?」


アポロは困惑したまま、イーサンの手の上でちょこんと座っているスライムをじっと見つめた。スライムはまるで返事をするように小さく跳ね、「ピーピー」とかすかな声を上げた。その瞳にはかつての鋭い輝きはなく、ただ穏やかな眼差しでアポロを見つめ返している。


「一体、何があったんです?」


「彼にまとわりついていた悪いものを一つずつ剥がしていった。それだけだ。」


「レイアさんが言ってた『無力化』ですか?」


イーサンは軽く頷き、スライムを見つめる目に優しい光を宿した。


「おそらく、これが本来の彼の姿だ。」


その説明にアポロは驚きと妙な安堵感が胸に広がるのを感じた。あんなに凶暴だった化物が、こうして人懐こい姿に変わり、小さく跳ねて自分に応えている。それはどこか愛嬌すら感じさせ、昨日見た恐ろしさはかけらも残っていなかった。


「今後はここで彼を管理する予定だ。近いうちに全員に周知するつもりだったが、一足先に見つかってしまったな。」


イーサンが微笑みながらアポロに言うと、スライムは再び「キュウ」と声を上げ、アポロの指先に触れるように触手を伸ばしてきた。その柔らかな感触が指先に伝わり、アポロは自然とスライムを撫でた。スライムが嬉しそうに体を縮めて丸まり、小さく震える様子に、アポロもまた、疲れきった心がふっと和らぐのを感じた。


「なんだか、可愛いかも。」


そう笑うと、スライムもそれに応えるように小さく跳ね、その微笑ましい反応がアポロの胸に温かい絆のようなものを生み出していた。


「アポロ、こいつの観察を頼めないか?」


イーサンがスライムをアポロの手に乗せながら頼んだ。まるで子猫のように小さくふにゃりとアポロの掌に収まったスライムは、わずかに冷たい感触を伝えてきたが、同時に奇妙な親しみをも感じさせるものだった。


「観察、ですか?」


アポロが驚き気味に聞き返すと、イーサンは頷いた。


「こいつもお前を気に入ってるようだ。しばらく一緒に生活してみてくれ。」


スライムはアポロの手の中で小さく跳ね、その姿はイーサンの言葉に同意しているように見えた。その様子に、アポロの口元にも自然と笑みがこぼれた。


「観察って、具体的にはどんなことをすれば?」


「まずは観察日記程度でいい。スライムが何に反応したか、何に興味を持ったか。それで十分だ。」


「わかりました、やってみます。」


「もし何か異変があればすぐに知らせてくれ。」


アポロが返事をすると、スライムも「キュ!」と声を上げ、触手を一本上げて同意を示すように動かした。イーサンは「仲良くするんだぞ。」と言ってスライムの頭を撫でた後、アポロを見つめて軽く頷き、自らのオフィスへと戻っていった。


静かな夜のデッキに、アポロと小さなスライムが二人きりで残された。


———————————


アポロはスライムを腕に抱え、自分の部屋へと静かに戻っていった。廊下の薄明かりの中で、スライムは彼の腕の中にまるで柔らかなクッションのように収まり、彼の存在がアポロの心をほぐしていく。アポロが視線を向けるたびに、スライムはその紫色の瞳で彼を見上げ、「ピーピー」とかすかな声を漏らした。その小さな声が耳に届くたび、不思議とアポロの胸の奥に温かなものが広がり、任務の緊張や疲労が少しずつ解けていくのを感じた。


部屋に戻ると、アポロはベッドにゆったりと身を横たえ、スライムをそっとお腹の上に置いた。窓から差し込む月の光が部屋を淡く照らし、アポロの白いシャツに青みがかったスライムの体が静かに浮かび上がる。アポロはその様子に目を細め、心の底から安らぎを感じる。


「お前、意外にのんびり屋さんなんだな。」


アポロが微笑みながら声をかけると、スライムは「キュウ」と短く鳴いて、ほんの少し体を伸ばした。その仕草があまりにも愛らしく、アポロの口元にも自然と笑みが浮かぶ。スライムはまるで月光に体を預けるようにして伸びると、青い体が光をまとってきらめき、まるで小さな精霊がアポロの胸元で息づいているかのように見えた。


「昨日はごめんよ。俺も必死だったんだ。」


アポロが呟くように謝ると、スライムはその言葉に応えるようにゆっくりとアポロの顔ににじり寄り、柔らかな体で彼の頬にくっついた。アポロはそのひんやりとした感触をしばらく楽しむように目を閉じ、静まり返った夜の空気を深く味わった。心の中には静かな安らぎがじんわりと広がり、まるで自分がスライムと一つに溶け込んでいるかのような不思議な一体感が芽生えてくる。


しばらくの間、穏やかな時間が流れる中で、ふとアポロはスライムに視線を落とし、思いついたように言葉を漏らした。


「せっかく一緒に暮らすんだ。名前を決めたいな。」


その何気ない言葉に、スライムがピクリと反応する。アポロはその仕草に「どうしたの?」と小声で問いかけた。その途端、スライムは突然ぴょんと跳ね上がり、ベッドから滑るように降りて、机の方へと跳ねていく。


「ま、待ってよ!」


驚きの声を漏らすアポロをよそに、スライムはデスクの上に器用に移動し、ボールペンにぴたりと触れる。そして、紫の瞳をアポロに向け、何かを伝えるようにじっと見つめた。


「え、まさか……」


スライムはそのままボールペンを掴むと、ゆっくりと動かしながら、メモ帳に文字を書き始めた。ペン先が滑ってはインクの跡を残しつつも、スライムは一筆ずつ、丁寧に書き進める。アポロは息を飲みながら立ち上がり、机に近寄ってメモ帳を覗き込んだ。そこには、ゆっくりと書かれた「ファニー」という名前が浮かび上がっていた。


「ファニー……?」


その名前を呼ぶと、スライムは嬉しそうに跳ね、「キュウ!」と明るい声を上げた。その音が部屋に響くと、アポロの胸に温かな感情がじわりと広がっていく。彼はファニーを両手で抱き上げ、愛しさに満ちた笑みを浮かべた。


「ファニーか。いい名前だな。」


ファニーは満足そうに体を丸め、アポロの手の中で心地よさそうに揺らめきながら、その小さな体で彼の温もりに包まれていた。

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