洋館での任務は、アポロにとって最悪の初陣だった。
あのスライム状の怪物と対峙した瞬間、アポロの心は恐怖に支配され、理性は霧のようにかき消されていった。脳裏には命の危機を知らせる警鐘が鳴り響き、身体はまるで凍りついたかのように動かなかった。目の前で仲間のリップが敵の攻撃を受け、苦痛に顔を歪めているにもかかわらず、彼は一歩も進み出ることができなかった。
「役立たず!」
リップの怒鳴り声が頭にこびりつき、彼女の冷たい目と鋭い平手打ちの感触が、何度も蘇ってくる。リップは倒れ込んだまま、氷のような視線を彼に突き刺していた。彼女の目には、軽蔑と苛立ちが滲んでいた。アポロは、なぜ自分が何もできなかったのか、その理由さえも理解できず、ただ彼女の視線を受け入れることしかできなかった。あの後からリップは口を利いてくれず、アポロの治療を拒否し続けている。
帰還してからも、心の中の重さは消えない。ベッドに横になり、瞼を閉じても、リップの冷たい目が焼きついて離れない。何度寝返りを打っても、胸に詰まった重石が少しも軽くならない。彼女を癒せなかった自分を、どこまでも責め続けるしかなかった。
「……何か飲もう。」
そう呟くと、彼はベッドから這うように起き上がり、キッチンへ向かった。重い足取りで静かな廊下を歩く。扉を開けると、そこにはイーサンが立っていた。彼は小さなオーブンの前に佇み、その鍛え上げられた大きな体を屈ませて中を覗き込んでいる。キッチンにはレモンのさわやかな香りが漂っている。イーサンはアポロに気づくと、温かい微笑を浮かべた。
「眠れないのか?」
その言葉は優しく、まるで父親が幼い息子を気遣うようにアポロの心をそっと包み込んだ。アポロは視線を下げて、消え入りそうな声で答えた。
「はい……。任務がうまくいかなくて……それで。」
自分の不甲斐なさを吐露したその声は、かすかに震えていた。イーサンは黙って頷き、「疲れてるだろう。座りなさい。」とアポロを椅子に座らせた。彼の動作は焦らず、まるでこの空間だけが静かに時を刻んでいるようだった。イーサンは冷蔵庫から牛乳を取り出し、ゆっくりと火にかけた。ティーパックと砂糖を準備する間、彼は何も言わず、時折アポロに向ける視線は温かく穏やかだった。その優しさが、アポロの緊張をほんの少しほぐしてくれるように感じた。
「何があったのか話してくれないか?」
イーサンの静かな問いかけに、アポロは一瞬言葉を失った。しかし彼の声には圧迫感がなく、ただ彼が安心して話せるように寄り添う道を示してくれているようだった。
しばし沈黙が流れ、アポロはようやく口を開いた。
「リップさんが……敵に傷つけられてしまったんです。あの瞬間、頭が真っ白になって、何もできませんでした。役立たずと罵られて……そう言われても仕方ないことをしたんだなって。」
彼は自分が無力だったことを改めて言葉にすることで、アポロは自分の行動を痛烈に後悔した。イーサンは何も言わず、彼の話を静かに聞き続けた。その表情は変わらず、責めるような気配は微塵もなかった。やがて、温かい牛乳がマグカップに注がれ、アポロの前に差し出された。その香りは、傷ついたアポロの心の裂け目に静かに染み込んでいくようだった。
「初めての戦闘というのは、誰しもが恐怖に直面するものだ。どんな任務も、すべてが理想的に終わるわけではない。しかし、そこから学べることがある。その経験こそが、お前を成長させてくれる。」
イーサンの声には、まるで自分が同じ経験を幾度となく越えてきたかのような重みが感じられた。その言葉が、冷えきったアポロの心をゆっくりと溶かしていくようだった。
アポロは彼の言葉を噛みしめ、視線を上げてイーサンを見つめた。その目には、憂いと優しさ、そしてやわらかな日差しのようなあたたかい光が宿っていた。
「信じられないかもしれないが、俺も未だに自分が誰かの役に立てているのかと不安になることがある。こんなに歳をとってもな。」
イーサンの静かな言葉に、アポロは目を見開いた。予想外の告白に驚いたのだ。
「ボスにも、そんなことが?」
「もちろんだ。」
イーサンはふと、温かい笑みを浮かべて頷いた。
「人間はみんな完璧じゃない。だからこそチームが必要なんだ。リップもお前にきついことを言ったかもしれないが、それは彼女なりの焦りや不安の表れだったのかもしれない。お前の力に期待しているからこそ、つい厳しく言ってしまったのだろう。」
イーサンの言葉が、アポロの心にそっと沁み込んでいく。重くのしかかっていた恐怖や焦燥、無力感は今、少しずつ色を失って薄れていくように感じられた。リップの言葉に傷ついていたことは事実だが、彼女が単に怒っていただけでなく、そこには彼への期待が含まれていたのかもしれないという新たな気づきが生まれたのだ。
「それでも、次はちゃんとできるか不安です。」
アポロはそう告げながら、ふと弱気な視線を床に落とした。イーサンは彼の肩に手を置き、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫だ。お前はもう立派に成長している。俺の大切な家族を、連れ帰って来てくれたじゃないか。」
その言葉は、アポロの胸の奥に小さな光を灯すように響いた。彼は、もっと強くなって、リップや仲間たちを守りたいという決意を新たにしていた。
「悔しいと思うのなら、同じことで悩まなくていいように、しっかり学びなさい。」
イーサンの穏やかな声がアポロの心を温め、安心と共に次への力を与えてくれる。
「……ありがとうございます。」
アポロの口からこぼれた言葉には、溢れんばかりの感謝と敬意が滲んでいた。イーサンは静かに頷くと、「一度しっかり体を休めて、前向きに考えてみるといい。疲れていると余計なことばかり考えてしまうからな。」と、優しく言った。
アポロは少しの間その言葉を反芻し、カップを手に取って牛乳を一口飲んだ。ほのかに香るカモミールの香りが心に染み渡り、甘さが疲れた身体と心を少しずつ癒していくようだった。
「そうだ、アポロ。お前に一つ課題を与えよう。」
イーサンの落ち着いた声がキッチンに静かに響く。彼はまっすぐアポロの瞳を見つめ、どこか温かさと親しみを込めて言葉を紡いだ。
「好きなこと、夢中になれることを一つでも見つけなさい。」
アポロは思わず驚いた表情を浮かべた。これまで任務や責任に追われる日々で、何かに「夢中になる」ことなど考えたこともなかった。彼は一瞬迷いながらもイーサンに尋ねた。
「一体、何をすればいいんでしょうか?」
その素直な問いかけに、イーサンは優しく微笑んで応えた。「じっくりと自分に向き合ってみろ。何が心地いいのか、何をしていると楽しいのか、自分の感情を素直に受け取るんだ。」
イーサンはオーブンから焼き上がったばかりのパイを取り出し、テーブルにそっと置いた。そのパイはどこか懐かしく、家庭的な雰囲気を感じる。
「俺の場合は、これだ。」
ふわりと漂うレモンの香りにアポロは思わず感嘆の声を上げた。パイの表面にはメレンゲの軽やかな波が刻まれていて、きつね色の焼き目が食欲をそそる。
「料理は、俺にとっていい気分転換なんだ。嫌なことを忘れられる。」
そう言いながら、イーサンは温めたナイフでパイを丁寧に切り分け、アポロに差し出した。断面からは、ふわふわのメレンゲと鮮やかなレモンクリームが顔をのぞかせ、爽やかな香りが鼻をくすぐった。
「自分が楽しめること、心から没頭できる何かを見つけるんだ。それがきっと、お前を強くする糧になる。」
アポロはイーサンの言葉をかみしめながら、すすめられるままにパイを口に運んだ。さくっとした生地の歯触り、シュワシュワと溶けるメレンゲの食感、そしてレモンクリームの絶妙な甘みと酸味が絶妙に調和して、彼の心を解きほぐしていく。
「……すごく美味しいです!」
目を輝かせてパイを夢中で頬張るアポロを見て、イーサンもまた満足げに微笑んでいた。
「戦いはこれからも続く。それでも、与えられた自由な時間の中では、自分に正直であってほしい。」
イーサンの静かな祈りは、アポロの胸の奥深くにしっかりと刻み込まれ、心の中に波紋を広げてあたたかく広がっていく。
「どんな小さなことでもいいんですか?」
アポロが問いかけると、イーサンはすぐに頷いた。
「もちろんだ。好きな音楽を聴いたり、散歩したり、本を読むことでも何でもいい。大事なのは、自分が解放されている瞬間を見つけることだ。」
その言葉に、アポロの視界は明るくなっていく。彼はこれまで仲間たちの背中を追いかけて、ただがむしゃらに訓練と任務をこなしてきた。しかし今、自分自身のために生きる時間、そして仲間たちと共に歩む時間の意味を改めて見つめ直す機会が与えられたのだ。
「ラストリンクの一員として戦うだけが、お前の人生ではない。それを忘れるな。」
アポロはカップを置き、深く息を吸い込んだ。イーサンの言葉が彼の心に温かな光を灯し、新たな道を照らしているように感じられた。
「探してみます。俺が夢中になれることを。」
アポロの言葉に、イーサンは安心したように頷いた。心もお腹も満たされたアポロは、静かに訪れる眠気を感じながら、次の一歩を踏み出す準備を整えていた。
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昼下がりの柔らかな光が窓から差し込み、アポロは微睡みの中から意識を取り戻した。薄い毛布に包まれた感覚と、窓から流れ込む風が運ぶ鳥のさえずりが、静かに現実へと彼を引き戻していく。彼はベッドに寝転がったまま、しばらくその温かな音と光に身を委ねていたが、ふと体を起こし、伸びをした。昨日の激しい任務がまだ体中に染み付いているようで、筋肉が張り、疲労が重くのしかかっているのを感じた。苦笑いを浮かべつつ立ち上がり、浴室に向かう。冷たいシャワーの刺激が、彼の眠気と重くこびりついた疲れをすっかり洗い流してくれるようだった。
キッチンに向かい、トーストとゆで卵、甘いフルーツジュースの簡素な朝食をとる。これといった味わいはないが、腹が満たされるたびに、疲れた身体に少しずつ力が戻ってくるようだった。アポロは食べ終えると立ち上がり、これから始まる訓練に向けて気持ちを引き締めた。
訓練場へ向かう廊下を歩きながら、アポロの胸には、複雑な想いが渦巻いていた。訓練の厳しさもさることながら、胸の奥には、共に戦う仲間への不安と希望が交錯しているのだ。訓練場に着くと、すでにシャンスが待っていた。彼はいつもと変わらない太陽のような笑みを浮かべ、鍛え抜かれた筋肉を誇るかのように胸を張っている。その姿はまるで、鋼でできた彫像のような強固さと洗練された力強さを感じさせた。
「よう。遅いぞ、アポロ。」
シャンスの朗らかな声に、アポロは小さく笑みを浮かべて応じたが、その心にはかすかな緊張が走った。
「シャンス、体はもう大丈夫か?」
「ああ、俺の取り柄はこの頑丈さだからな。任務の疲れなんてなんてことないさ。」
シャンスは胸を張り、ふっと笑う。陽気で親しみやすい彼の姿を見て、アポロも緊張がほぐれるのを感じた。しかし、リップのことを考えると再び表情が曇る。
「……リップは、まだ来ていないんだな。」
「あいつも色々と考えることがあるんだろう。今日はそっとしておこうぜ。」
シャンスの落ち着いた言葉に、アポロは静かに頷いた。彼の視線には、少しの寂しさが混じっていたが、すぐにその感情を胸の奥に押し込め、気持ちを立て直す。今日の訓練に集中しよう、そう自分に言い聞かせるようにして。
二人は軽くストレッチと体力トレーニングを終えると、訓練場の中心で対峙した。しかし、いつもの和やかな雰囲気とは違い、そこには隠し切れない重い緊張感が漂っている。シャンスの体は微動だにせず、鋭い眼差しでアポロを見据えている。彼の体からは、まるで野獣が獲物を狙うような凄まじい気迫が滲み出ていた。
「集中しろ、アポロ。油断していると、いつか命を落とすぞ。」
シャンスの低く、鋭い声が、場の静寂を切り裂くように響く。その言葉に、アポロは思わず息を飲んだ。シャンスの言葉には、単なる脅しではなく、これまで幾度も死線を越えてきた者だけが持つ説得力があった。
昨日の戦いの記憶が、彼の脳裏に鮮やかによみがえってくる。あのときのシャンスは、普段の陽気な姿とはまるで違っていた。鋭い眼差しと圧倒的な威圧感をまとい、彼の一撃一撃が容赦なくアポロの体を貫いていく。もし、偶然癒しの力が発現していなければ、アポロは命を落としていたかもしれない。その思い出が、彼の胸に冷たい恐怖を呼び起こした。
訓練の最中、アポロはシャンスの一挙一動に目を凝らし、体が反射的に動くよう意識を集中させる。しかしシャンスの動きは驚くほど正確で、彼が隙を狙って拳を繰り出しても、その攻撃はあっさりとかわされてしまう。
「甘い、敵に隙を見せるな。」
シャンスがアポロの肩に鋭い一撃を叩き込み、続けざまに回し蹴りを放つ。アポロは身を翻し、何とかその一撃を避けたが、その攻撃の正確さと容赦のなさに背筋が冷たくなった。彼の心臓が激しく鼓動し、全身にじわりと緊張が走る。シャンスは冷ややかな眼差しで、アポロのわずかな動揺を見透かしているように思えた。
「くっ……!」
アポロは奥歯を噛みしめ、拳を握り直す。訓練であるとわかっていても、シャンスの言葉と攻撃がアポロの戦意を奮い立たせる。しかし、その奥底には、あの戦いで味わった無力感と恐怖が深く根を張っていた。
再び攻撃の隙を伺い、アポロが前に踏み込んだ瞬間、シャンスは冷静に体をひねり、アポロの拳をいとも簡単に受け流した。攻撃が空を切る度に、アポロは苛立ちと焦りを募らせる。彼の頭には、「集中しろ。」というシャンスの言葉が何度も反響している。なんとか冷静さを取り戻そうと呼吸を整えたが、疲労と焦りで体は次第に鈍くなっていった。
「呼吸が乱れてる。お前の実力はその程度か。」
シャンスが鋭い眼差しでアポロを見据え、淡々と投げかけてくるその言葉には、励ましと挑発が入り混じっていた。アポロはその一言に、胸の奥がきしむような痛みを感じた。シャンスに追いつけない現実と、昨日の戦いで抱いた恐怖が再び胸を締めつける。しかしその中で、彼の中には次第に「もっと強くなりたい」という確固たる意志が芽生え始めていた。
「本気で来い。」
シャンスの声が鋭く響くと、アポロは深く息を吸い込み、自らの中に眠る本能を呼び覚ました。彼の瞳にはもはや迷いはなく、恐れや躊躇を振り払い、シャンスへと突き進む。その姿には、戦士としての自覚と成長の兆しが見て取れた。アポロは、その一歩一歩に込めた意志が彼を前進させることを感じ取りながら、再び立ち向かうのだった。