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第10話:深淵に魅入られて(4)

「こちらリップ。ターゲットを逃がしたわ。」


レイアの冷静な声が無線から返ってくる。


「何が起こったか説明して。」


リップは淡々と状況を報告したが、その言葉には悔しさが滲んでいた。


「ターゲットとの交渉中に第三者の介入があった。突き飛ばされた隙に、彼女を奪われたの。」


「まだ追える?」


「わからない。私たちの使うポータルみたいに、目の前で消えたの。」


「わかったわ。他の二人はどうしてる?」


リップは扉の隙間から二人の様子を窺い、レイアに伝えた。


「交戦中よ。敵は人の形をしているけど、何か特別な力を持っていると思う。」


レイアは短い沈黙の後、新たな指示を告げた。


「作戦変更。交戦中の相手を鎮圧、拘束して。」


「了解。」


リップは気を引き締め、扉の陰に身を潜め、攻撃の機会をじっと待った。スライム男は女性の姿が消えたことに困惑しているのか、所在なさげにその場でうろついていた。そしてふとリップの潜む扉へと近づき、ゆっくりと扉を開けた。


リップはその瞬間を逃さず、バングルの隠し針を男の喉元へと突き刺した。男の体がぐらりと揺らぎ、リップは得意げに「ちょろいもんね」と呟いたが、その笑みも一瞬で凍りついた。男の肌は赤くただれ、腫れあがるものの、彼の目はぎょろりとリップに向けられた。すぐに彼は触手状の腕でリップを強く締め上げた。


「くっ……!」


リップは苦痛に顔を歪め、必死に腕を引き抜こうとするが、触手の締め付けは彼女の体を圧倒していた。毒針が刺さったはずなのに、男には効いていないことで、リップは激しく動揺していた。なんとか抗おうとするが、スライム男はリップを振り回し、壁や窓ガラスへと容赦なく叩きつけていく。


「やめろ!」


シャンスは鋭い眼差しでスライム男の背後に忍び寄り、ためらいなく後頭部へ強烈な頭突きを叩き込んだ。その瞬間、鈍い音と共にスライム男の体が揺らぎ、リップを縛っていた触手がゆるんで、彼女はようやく解放された。


「リップ!」


アポロは抑えきれない焦りと恐怖に駆られ、声を張り上げて叫んだ。彼の足は震えていたが、意を決してリップのもとへと駆け寄る。息を切らしながら彼女を抱き上げ、慎重に暗がりへと身を隠した。シャンスがスライム男の注意を引きつけている間、アポロはリップを守ろうと必死だった。


アポロは震える手で彼女の傷口を抑え、必死に治療を試みたが、その力は思うように発動しなかった。焦燥がじわじわと彼を支配し、呼吸が浅くなる。


「なんで……どうすればいいんだ……」


アポロの額には冷たい汗が浮かび、彼の心臓は不安と焦りで激しく鼓動を打ち続けた。一刻でも早く彼女を癒さなければというプレッシャーが彼を追い詰めていく。


リップは額に冷や汗を滲ませながら、浅い呼吸を繰り返していた。彼女の苦しそうな表情がアポロの視界に焼き付く中、スライム男の触手が音を立て、鞭のようにこちらを狙って襲いかかろうとしていた。


「てめえ!」


シャンスは激しい怒りに突き動かされるように、力強く拳を振り上げた。スライム男の攻撃を正面から弾き返し、強烈なカウンターを繰り出した。拳が男の体に触れると、彼の体が廊下の壁に吹き飛ばされた。ぐちゃりと嫌な音を立てて、粘着質な黒い液体が周囲に飛び散った。男の眼窩から、まるで腐った果実のようにどろりと垂れた目玉が重力に逆らえず、ぽとりと床に落ちた。


そのおぞましい光景を目の当たりにし、アポロの背筋は凍り付いた。恐怖と嫌悪感が彼の心を突き刺し、吐き気を催す。


「アポロ、リップを連れてすぐに屋敷から出るぞ。」


シャンスの声は冷静さを装っていたが、その奥には緊張が色濃く宿っていた。アポロが戸惑っていると、リップがかすれた声を絞り出した。


「だ、だめ。あいつを拘束しなきゃいけないの……」


彼女の瞳には悔しさが滲んでいたが、シャンスは冷静に言い放つ。


「一時撤退だ。無理に戦えば、俺たち全員ここでおしまいだ。」


シャンスはリップを担ぎ上げると、階段を下り始めた。アポロも震える足を無理やり前に進め、彼らの後を追った。


その時、廊下の奥から異様な音が響いてきた。その音に振り返ると、暗闇の中から青黒いスライムが津波のように押し寄せて、アポロたちを狙っていた。スライムは先ほどとは比べ物にならないくらい速く、さらに凶暴さを増していた。その粘着質な体は怒りに震え、ブルブルと揺れている。


「まずい、追ってきた!」


アポロの胸に焦りが広がったが、シャンスは冷静に彼に言った。


「アポロ、彼女を頼む。」


その言葉にアポロは一瞬ためらったが、震える手でリップを抱き上げた。前に進み出てスライムと対峙する彼の背中は広く、頼もしく映り、アポロに「大丈夫だ。」と言っているようだった。


「リップを安全な所へ。」


「シャンスは?」


「心配すんな。早く行け。」


シャンスは振り向くことなく、スライムの触手を掴んで動きを封じていた。アポロは何も言えないまま、シャンスの指示を守ってリップを抱きかかえて階段を駆け下りた。


小さな部屋にたどり着き、アポロはリップをソファに慎重に横たえた。彼女の顔は蒼白で、冷や汗が額を湿らせ、浅い呼吸に苦しげな様子がうかがえた。


「ざまあみろって……思ってんでしょ。」


意外な言葉に、アポロは息を飲んだ。


「そんなこと思ってません。」


「だったら何で、あたしを治さなかったの?あんたならそれができるんでしょ?」


アポロは彼女の言葉に胸を締め上げられるような焦燥感を覚えた。冷や汗が背中を伝い、息苦しさが増していく。


「さっさとシャンスと合流しなきゃ。ほら、治せるんならやってみせてよ。」


リップの言葉は焦りと苛立ちを含み、アポロの精神に鋭く突き刺さった。アポロはその重圧に耐えながら手を彼女の傷にかざしたが、エネルギーが思うように流れず、ただ震えるだけだった。苛立ったリップが彼の手を振り払い、思い切り頬を叩いた。


「この役立たず!」


その言葉がアポロの胸に突き刺さり、深い傷を残した。彼の体が凍りつき、喉が詰まり、言葉も出なかった。


「もういい、あたしは放っておいて!シャンスのサポートに行きなさい!」


「でも……」


「口答えすんな!」


リップの怒りがアポロを圧倒し、彼は耐えきれず部屋を飛び出した。廊下を走る彼の足音が、かすかに響いていた。


——————————


階段まで戻ったアポロは、先ほどまでいたシャンスの姿が消えたことに気づき、不安が胸に広がる。薄暗い通路に目を凝らすと、床にはまだ乾ききっていない黒い痕跡が続いていた。それは不気味なほど真っ直ぐに、何かを誘導するかのように伸びている。アポロは無意識に息を呑み、胸の鼓動が速まるのを感じながら、その痕跡を頼りに慎重に歩みを進めた。


たどり着いたのは地下室だった。空気は冷たく湿り気を帯び、闇が辺り一面を覆い尽くしている。息を詰めたアポロは、支給されたペンライトを握りしめ、手が震えるのを意識的に抑えつつ周囲を照らした。光が壁をかすめ、何かがそこにいるのを視界に捉えた瞬間、アポロは息を止めた。


壁にもたれかかるシャンスの姿があった。しかし、彼の姿はいつもの屈強で快活なものとはかけ離れていた。顔色は土気色で、口元や鼻から黒い液体が垂れている。


「シャンス!」


アポロの声は反射的に響き渡ったが、答えはない。倒れた彼の肩からは荒々しい息が漏れ、その傷つき方が尋常でないことを物語っていた。アポロは駆け寄り、シャンスの腕を掴んで力強く揺り起こそうとする。


「シャンス、大丈夫?」


その問いかけに、シャンスの瞼がゆっくりと持ち上がった。しかし、その瞬間、アポロの背筋を冷たい戦慄が走る。シャンスの瞳は漆黒に染まり、いつもの温かさや親しみは影も形もない。代わりに、底知れない暗闇が彼の目の奥底で蠢いているようだった。そこには、彼自身の意志など存在しないかのような、冷たい虚無が広がっていた。


シャンスはゆっくりと立ち上がる。その動きは異様で、いつもの軽快さや屈託のない笑顔など欠片もなかった。彼の周りに漂う気配は、敵意と冷酷さに満ち、アポロにじわじわと迫ってくるようだった。アポロは唾を飲み込み、意を決して問いかけた。


「どうしたんだ……?」


その言葉が終わるよりも早く、シャンスが目にも止まらぬ速さで動き出す。アポロが反応する暇もなく、鋭い拳が彼の顔の前に現れる。すでに逃げ場はなかった。シャンスの拳は、いつもの訓練で受けた力強さや技術とは異なり、圧倒的な破壊力と速さが込められていた。その拳は、アポロの防御をいとも簡単に突き破り、彼の体を壁に叩きつけた。


「ぐ……っ!」


骨が軋む音が耳に響き、口の中に鉄の味が広がる。視界が揺らぎ、霞む中、アポロは痛みをこらえて意識を保とうとする。だが、その間にもシャンスの攻撃は一切の容赦もなく続き、黒い瞳の奥には何も映っていない。ただアポロを破壊しようとする無機質な意志だけが彼を突き動かしているようだった。


アポロは必死に意識を繋ぎ止めようとするが、痛みが深く意識を削り取っていく。やがて視界が完全に白みがかり、耳鳴りが脳を突き刺すように響く。極限状態に達したその瞬間、アポロの中で何かが目覚めるような感覚があった。


それはまるで、長い間深層で眠っていた力が応えたかのように、自分の奥底からあたたかいものが沸き上がってくるのを感じた。その力は心臓の鼓動に合わせて脈打ち、瞬く間に全身に行き渡り、体を包み込んでいく。そして、次の瞬間、アポロの体は爆発的に回復し、吸い込んだ息が深く体全体に行き渡っていくのを感じる。


自分の奥底から湧き出た力を感じながら、アポロはシャンスの懐に滑り込む。その手には、彼の力が込められた温かな光が宿り、震える指先から放たれたその光がシャンスの体を包み込んだ。少しずつ、だが確実に、彼を侵食する闇が後退していくのが見て取れた。


「シャンス、目を覚ませ……!」


アポロの声に呼応するように、シャンスの体が微かに反応し、低いうめき声が漏れた。そして、彼の口から黒い液体が溢れ出し、その中から何かが転がり出る。冷たく光る目玉がアポロの足元に落ち、硬質な音を立てて止まった。目玉は恨めしそうにアポロを睨んでいる。その目玉からは、ぞっとするほどの邪悪な気配が漂っている。


アポロの脳裏に、「あいつを拘束しなきゃいけない」というリップの言葉が浮かぶ。視線を巡らせた先で、彼は偶然、近くの棚に置かれた瓶を見つけた。瓶の中には大きな貝殻が入っているが、そんなものは気にしていられない。アポロは瓶を掴むと、その目玉を素早く瓶の中に収め、厳重に蓋を閉めた。


シャンスは力を失い、崩れ落ちるようにその場に倒れ込んだ。荒い息を整えながら、アポロは彼の肩に手を添え、必死に支えた。気を失ったシャンスの体は重く、アポロの体力を容赦なく奪っていくが、彼は歯を食いしばりながら、シャンスをなんとかしてリップの待つ部屋へと引きずっていった。

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