夕暮れが静寂を染める中、イーサンのスマートフォンが震えた。画面に映る名前を確認しながら、彼は冷静にその振動に手を伸ばし、通話を受け取る。
「どうした?」
イーサンは無駄を削ぎ落とした簡潔な言葉で応じた。
「ちょっと気になることがあったんだ。すぐに話しておきたくて。」
リカルドの低く落ち着いた声が聞こえるが、その声にはわずかながら不安の色が混じっていた。
「カルヴィンのことだ。例の洋館に行って精神をやられた子だよ。」
一瞬、言葉を飲み込むような沈黙が続き、リカルドは重々しい口調で話し始める。
「数時間前、彼がカウンセリング中に話したことについてだ。かなり込み入った話だから、共有しておくべきだと思って。」
「聞かせてくれ。」
リカルドは一息つき、言葉を選びながら続ける。
「ある夜、カルヴィンは友人とパーティーをした後、泥酔状態で車を運転していたらしい。その時に、若い女性をはねてしまったそうだ。」
イーサンは無言のまま、重い事実を受け止めた。カルヴィンが背負ってきた罪が、想像以上に深く恐ろしいものであることに驚かされた。だが、リカルドの口調が、この話はまだ終わっていないことを暗示していた。
「彼女の遺体を処分したのはカルヴィンの父親の知人だ。事故は公に出ることなく、証拠もすべて消され、事件は闇に葬られた。間違いなく裏社会の手が絡んでいる。」
イーサンは内心で、あまりにも倫理観を逸脱した行為の数々に苛立ちを覚えた。カルヴィンが抱える罪、そしてそれを裏から支える影の存在。その複雑さに、彼の表情もわずかに険しくなる。
「それだけじゃない。その後、カルヴィンがあの洋館を訪れた際に、信じがたいものを目撃したんだ。彼が轢いたはずの女が、冷たく見下すように彼の前に現れたらしい。まるで、生気を失ったまま蘇ったように。」
その言葉がイーサンの胸に重くのしかかった。彼はリカルドの話に沈黙で応えながら、無意識のうちに眉間に皺が寄っていた。この島国リトルガーデンには、常識では片付けられない現象が数多く存在する。そして、イーサン自身もかつて「死者が蘇る」という不思議な出来事に遭遇した経験がある。
「……願わくば、それがカルヴィンの見た幻覚であってほしいと思う。しかし、現実は違うのだろうな。」
リカルドもまた、沈黙を保ったまま、その言葉を嚙みしめるようにしていた。
「そうだね。カルヴィンが見ているものは現実なのか、それとも彼の罪悪感が形を変えて現れているのか……今のところ断定はできない。」
リカルドの言葉に、イーサンは再び重い沈黙に包まれた。やがて、深い息をつきながら、リカルドは静かに口を開いた。
「やっぱり、調査は避けて通れないと思う。」
「そうだな。今から部下たちを洋館に向かわせるところだ。カルヴィンが見た『死んだ女』が本当に存在するなら、必ず対処する必要がある。」
リカルドは深刻な声で、「よろしく頼むよ。」と応えた。その低く響く声には、複雑な思いが滲んでいた。
通話を切った後、イーサンはしばらくの間、過去の記憶に思いを馳せていた。死者が蘇るなど、本来あり得ないことだ。しかし、彼は確かに、かつて失った大切な存在が再び目の前に現れた瞬間を知っている。
廃墟と化した洋館で待つものは、一体何なのだろうか。この一件が単なる調査で終わるはずがないと、イーサンは直感していた。
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「以上が、先ほどリカルドから共有された追加情報だ。」
静かな部屋に緊張が走った。アポロ、シャンス、そしてリップの三人はイーサンの指示に集中し、その一言一言を重みとともに受け止めていた。
「だいぶきな臭くなってきたな。」
シャンスは腕を組み、眉間に深いしわを刻み込む。いつも陽気で飄々としている彼が、真剣な面持ちでこう呟く姿にアポロも無意識に身を引き締めた。
「想定していたよりも危険が伴うだろう。警戒を怠るな。」
その冷静な警告に、アポロは強く拳を握りしめる。彼の中に湧き上がるのは、不安とも期待ともつかない、複雑な感情のうねりだった。この任務がどれほど過酷なものになるか、まだ想像もつかないが、彼は仲間とともにやり遂げる覚悟を決めた。
「任務の内容をおさらいしましょう。最優先されるのは、女性の保護ね。交戦はなるべく避けてほしいけど、やむを得ない場合は鎮圧して拘束すること。それから、人の出入りの痕跡があるかどうかを確認することよ。」
作戦のリーダーであるレイアの目が三人に向けられ、鋭く光る。その冷静な指示に全員が同時にうなずいた。
イーサンとレイアの見送りを背に、アポロたちは廃墟と化した洋館へと歩みを進めた。空には大きな満月が昇り、夜の海辺を静かに照らし出している。その光は波に揺られ、廃墟の影をぼんやりと浮かび上がらせていた。月明かりに照らされた石造りの古びた屋敷は、屋敷そのものがまるで何かの意思を持ち、息を潜めているかのよう不気味な錯覚を誘う。
「おお。いい月が出てるな。」
シャンスは気楽な口調で言いながらも、目は鋭く周囲を見回している。こんな状況でも自分のペースを崩さない彼の姿に、アポロはふと緊張が和らぐのを感じた。夜の潮風が冷たく肌にまとわりつき、何者かに触られているような気持ち悪さを感じる。
「静かにして。もう任務は始まってんのよ。」
リップは冷静だが鋭い目つきで周囲を見渡す。その目に潜むのは、暗闇に潜む危険を見逃さないという決意だった。アポロも頷き、リップの後ろを無言で追う。まだ戦闘経験が浅いアポロにとって、任務に対する恐怖と期待が心の中で激しくせめぎ合っている。
三人は古びた館の中へ足を踏み入れた。階段が軋む音が響き渡り、風に揺れる窓が不気味にきしんでいる。冷たく湿った空気が漂い、腐りかけた木材の臭いが鼻を刺した。
「思ったよりでかい屋敷だな。二手に分かれて探そう。」
シャンスの提案に、リップはすぐに同意した。
「賛成。さっさと終わらせましょ。」
アポロは不安そうに彼らのやり取りに耳を傾けていたが、シャンスは二人を振り返り落ち着いた声で言った。
「俺が一階を探索する。お前たちは二階を頼むよ。」
「あたしがこいつのお守りなの?」
リップは露骨に嫌な顔をしてアポロに冷たい視線を送る。
「何かあればアポロはケガの治療ができる。能力的に、俺よりもリップの方がケガのリスクが高い。だから同行させる。」
シャンスはいつになく冷静な口調で、理路整然とリップに説明した。
「……わかったわよ。」
リップは少し不満そうにアポロを見やりながらも了承する。
「足引っ張んじゃないわよ。」
「わ、わかりました。」
「いいか、二人とも。何かあったら助け合うんだぞ。」
シャンスの声が背中を押すように響く中、アポロとリップは二階へ向かい、館内の闇に消えた。
薄暗い廊下を進む二人の足音だけが、静寂を切り裂くように響いている。しばらくして、彼らはある部屋の前で足を止めた。ドアがわずかに開いており、中から淡い光が漏れている。リップは片手を上げてアポロに動きを止めさせ、慎重に中の様子をうかがった。
薄暗い部屋の中、ひとりの女性が窓辺に腰かけ、静かに外を見つめていた。彼女は繊細な装飾が施されたドレスに身を包み、淡い茶色の髪が月の光に反射して神秘的に輝いている。細い首が月光で青白く照らし出され、まるでこの世のものではないような美しさが漂っている。しかしその横顔には、何かを悟り切ったかのような静けさがあり、哀しみすら感じられる。
リップは無線機でレイアに報告を入れる。
「こちらリップ。ターゲットを見つけたわ。」
「彼女の様子はどう?」
「落ち着いてる。まだこっちには気付いてない。」
「敵意がなければ、平和的に連れてきたいところね。」
「わかった。接触して様子を見てみる。」
「ええ。もし交戦になった場合は鎮圧して。」
リップはアポロを部屋の外に立たせて周囲の警戒を促し、ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れた。ドレスの女性はそれに気づき、静かに振り向くと微笑んだ。その微笑みには、敵意のかけらもない。彼女の柔らかい声が静寂を切り裂いた。
「どなた?」
その問いかけに、リップはレイアの指示を思い出し、柔らかく答える。
「あたしはリップ。あなたを迎えに来たわ。」
女性は小首をかしげ、「お迎え?思ったより早いのね。」と穏やかな口調で返した。その言葉にリップは一瞬、彼女の言葉の裏にある意味を探ったが、その表情には何の疑いも見つからない。
「あなたに聞きたいことがあるの。一緒に来てもらうわよ。」
リップは女性の手をそっと取るが、その手は冷たかった。まるで、そこに魂が宿っていないかのような不気味な感覚が伝わってきた。
手を掴まれた女性は動揺することもなく穏やかに微笑んだまま、首を横に振る。
「ごめんなさい。友達と約束があるの。」
一方、外で待つアポロは無線でシャンスに現状を伝えていた。
「ターゲットとの交渉は少し難航してる。彼女にはここを離れられない理由があるみたい。」
「なるほど。彼女には悪いが、最悪の場合は力づくで行くしかないな。俺もそっちに向かってる。」
アポロは「わかった。」と頷きながら、再びリップと女性のやり取りに意識を集中させた。この不可思議な女性が何を隠しているのか、そして、彼女が語る「友達」とは一体誰なのか。その答えを知るため、彼は耳をそばだてた。
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シャンスと連絡を取ってから間もなく、静寂に包まれた廊下に階段を上る音が響いた。古びた木製の階段が重々しく軋む。その音は不気味さを伴い、アポロの心臓をじわりと冷たく締めつけた。
「シャンス、早かったね。」
アポロの声が闇に吸い込まれるが、返事はない。まるで彼の呼びかけなど聞こえなかったかのように、階段の軋む音だけが続いていた。さらに耳を澄ませると、音の中に微かに水が滴るような湿った響きが混ざっていることに気づいた。息を飲んで目を凝らし、闇の中に潜む何かを探ろうとする。
次の瞬間、鋭い破裂音とともに、アポロが立っていた場所に得体の知れない何かが床に叩きつけられた。その物体は薄暗い月明かりに照らされて、まるで生き物のように動くスライム状の塊だった。ぶよぶよとした形状は定まらず、まるで鞭のように力強く床に打ちつけられた。床には深い痕が刻まれ、強烈な衝撃力がそこに込められていることを物語っていた。
「何だ……これ?」
アポロの言葉はほとんど自分に向けた問いかけのように低く響く。視線を這わせてその物体を辿っていくと、闇の奥から痩せこけた男が現れた。月光に照らされたその姿は、異様な存在感を漂わせている。肌は青白く、瞳は虚ろに彷徨っていたが、細身の体には信じ難いほどの異様な力が宿っているように見えた。男の髪は濡れたまま乱れて垂れ下がり、どこか水の中から這い出てきたかのようだった。その唇がわずかに開き、低く不気味な唸り声が漏れる。
(この男、普通じゃない……!)
アポロの体が無意識に戦闘態勢に入る。胸の鼓動は高鳴り、彼の呼吸も次第に荒くなる。しかし、男はそんなアポロの様子など意に介さず、ゆっくりと体から液体を滴らせながらにじり寄ってくる。アポロは恐怖で足がすくみ、喉の奥から悲鳴を上げたい衝動を必死に飲み込んでいた。
「下がってな!」
男の背後からシャンスの声が響いた。男が振り返る間もなく、シャンスがスライム男とアポロの間に割って入る。男は二人を虚ろな目で捉えると、先ほどと同じようにスライム状の腕を鞭のように振り回し、鋭い勢いで二人に襲いかかってきた。シャンスは素早くアポロを抱え、その攻撃を難なくかわし、男との距離をとった。
その瞬間、スライム男の視線はアポロとシャンスを通り越し、部屋の奥にいるドレス姿の女性に向けられた。
「来たわ。」
女性はうっすらと口元に微笑みを浮かべ、まるで長く待ち続けていたものがやっと姿を見せたかのように目を輝かせていた。彼女がフラフラとスライム男の方へ歩き出そうとすると、リップがしっかりとその手首を掴み、毅然とした態度で彼女を制止した。
「行かせない。これ以上抵抗すると痛い目に遭うわよ。」
彼女の警告に対して、ドレスの女性は困惑したように首を傾げ、「でも、一緒に星を見る約束をしているの。」と悲しげな表情を浮かべた。言葉に揺らぐことなく、リップは大きなため息をつき、手首に装着したバングルから鋭い針をのぞかせた。
「眠っててもらうわよ。」
リップは素早く針を女性に突きつけようとした瞬間、突如として強烈な衝撃が彼女の体を襲った。視界がぐらりと揺れ、彼女は何者かに突き飛ばされ、無防備に壁へと叩きつけられた。視界が暗転する中で、フードを被った謎の人物が女性の手を掴み、闇の中へと消えていくのを捕らえた。
「待て!」
リップは歯を食いしばり、拳を握り締めたが、彼女の制止も虚しく、女性はフードの人物と共に闇に溶けるように消え去ってしまった。悔しさが胸を締め付け、リップは無意識に地面に拳を叩きつけた。その無力感と怒りを抑えつけながら、レイアへの報告のため無線に手を伸ばした。