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第8話:深淵に魅入られて(2)

数日後、リカルドはカウンセラーから届いた報告書を手にしていた。その厚みのある紙束に視線を落とし、一枚一枚を丁寧にめくりながら内容を咀嚼する。昼の微かな光がカーテンの隙間から射し込み、彼の冷徹な表情に影を落としていた。報告書には、カルヴィンという青年が深刻な恐怖とパラノイアに支配され、日常生活すらままならないほど追い詰められていることが記されている。しかし、単なる心的ストレスの域を超えた不穏な兆候があった。彼の記憶は曖昧で途切れがちで、問いかけにはただ「あの女、生きてやがった……もう終わりだ……」と何度も繰り返すばかりだった。何が彼の心をここまで深く蝕んでいるのか、洋館で本当に何が起こったのか。答えは依然として闇の中だ。


リカルドはゆっくりと報告書を閉じ、しばし沈黙の中で考えを巡らせた。この件には、彼の経験則では説明のつかない異質なものが潜んでいると感じた。恐怖を抱いた青年たちの表情がふと頭をよぎり、これは単なる学生の悪戯では済まされないと確信する。リカルドの直感が「もっと調査すべきだ」と告げている。その声に従い、リカルドは迷いなくスマートフォンを手に取ると、素早くイーサンに発信をかけた。数回のコール音の後、冷静で温かみのあるイーサンの声が受話器越しに届く。


「どうした?」


「イーサン、頼みがあるんだ。」


その一言で、イーサンはすぐに事の重大さを悟ったようだった。彼の声は変わらず穏やかだが、どこか緊張感がにじんでいる。


「仕事か。詳しく話してくれ。」


リカルドは報告書に目を落としつつ、依頼を受けた経緯とカウンセリングの結果を要点だけに絞って話し始めた。


「最近、大学生たちから依頼を受けてね。彼らは肝試しに行った洋館で何かを目撃して、その後仲間の一人が精神的におかしくなったらしい。カウンセラーを紹介したんだが、どうやら単なるパニック障害じゃ片付けられないかもしれない。」


「ふむ……何か霊的な問題だと思うのか?」


イーサンは慎重に言葉を選びながら問いかけた。


「まさか、そんな単純じゃない。ただ、説明のつかない何かがあるのは確かだ。カウンセリング中、カルヴィンは断片的にしか思い出せていないが、妙に曖昧な言葉を繰り返している。彼らが足を踏み入れた洋館、それが一つの鍵になる気がするんだ。」


イーサンは電話越しに「ふむ。」と呟くと、静かに言った。


「わかった、調査してみよう。詳しい情報を共有してくれ。」


「助かるよ、イーサン。」


リカルドは思わず安堵の息をつき、パソコンの画面上で資料ファイルをまとめ始めた。液晶画面に映るカルヴィンのファイルをメールに添付し、「詳細はこれにまとめてある」と短く打ち込んで送信を完了させた。


「仕事が早くて助かるよ。引き続き進展があれば知らせてくれ。」


イーサンの声は落ち着き払っていたが、その奥に感じられる責任感がリカルドをさらに奮い立たせた。


電話を切ると、リカルドは再び報告書に目を落としながら、この案件の複雑さを改めて噛み締めた。カルヴィンの記憶はまだ謎めいているが、いくつかの断片が浮かび上がっている。例えば「あの女」という曖昧な表現。それが具体的に何を指しているのか、誰を意味しているのか。現時点の情報で考察するには不確定要素が多すぎた。


リカルドは椅子に深くもたれかかり、目を閉じたまま頭の中で情景を再現する。古びた洋館が静かにそびえ立つ姿が、暗闇の中に不気味な影として浮かび上がってくるように感じられた。漆黒の窓からは何も見えず、ただ物言わぬ静寂が支配している。外見は朽ち果て、そこに刻み込まれた歴史の深さ感じさせるが、それとは対照的にその場所には異様な力が生々しく息づいているようだ。それは、現実の時間軸から切り離された異界のように、冷たい沈黙の中で来る者を待ち構えている――その背後には、何か恐ろしいものが潜んでいる予感が拭えなかった。


「一筋縄ではいかないか……」


リカルドは小さく呟くと、改めて気を引き締めた。


——————————


澄んだ青空が一面に広がる朝、アポロはトレーニング場の中央に立っていた。激しい鍛錬を経て、汗が彼の額から滴り、顎を通ってマットへと流れ落ちる。呼吸を整えるたび、彼の体中に力がみなぎる。シャンスから学んだ戦闘の技術が、少しずつ自分のものになっていくのを感じていた。筋肉は悲鳴を上げながらも、その一つひとつの積み重ねによって戦士としての本能に目覚めていく。


「いいぞ、アポロ。ついてこれるようになったじゃないか。」


シャンスはその大きな手にミットをはめたまま、アポロの拳に軽くタッチした。分厚い手のひらから伝わる振動に、アポロは無意識に唇の端を上げた。シャンスの笑顔はいつも彼に安心感を与えてくれる。それが、信頼する兄のような存在としての重みを持っていた。


「予備動作の無駄もなくなってきたし、距離感も掴めてきたんじゃないか?」


まっすぐな眼差しで語るシャンスの称賛に、アポロは息を整えながら少し照れくさそうに答えた。


「シャンスのおかげだよ。一から教えるのは大変だったでしょ。迷惑かけちゃったね。」


「何言ってんだよ、後輩が真剣なら俺も全力で応えるさ。それが礼儀ってもんだろう?」


シャンスは豪快にアポロの背中を叩き、白い歯を見せて笑った。その笑顔は、何度もアポロが弱音を吐きかけたとき、真摯に支えてくれた。シャンスの前向きな言葉と温かい励ましがあったからこそ、アポロは立ち上がり続けることができたのだ。二人の間には、もう簡単に壊れない絆がしっかりと芽生えていた。


「魔力の制御はどうだ?」


シャンスがふと真剣な顔に戻って呟くと、アポロは笑みを浮かべて頷いた。


「うん、まだ不慣れだけど、コツはつかめたと思う。」


自分の力で傷が癒えた瞬間の感覚は不思議なほど心地よく、同時に緊張感が走るものでもあった。イーサンから学んだ魔力の制御法を続けてきたおかげで、意識を集中させることで体の中心から力が湧き出し、まるで川の流れのように体中を満たしていく感覚が掴めるようになった。アポロはその感覚に集中し、腕に意識を集中させる。彼が静かに力を解放すると、淡い光が彼の周りに広がり、柔らかな輝きをまといながら消えていった。手のひらに流れたエネルギーが徐々に和らぎ、アポロはふうっと息を吐いた。


「おお。やるじゃん。何かあった時には頼りにしてるぜ!」


シャンスはわしわしとアポロの頭を撫でまわした。わずかな成長ではあったが、ともに喜んでくれるシャンスの屈託のない笑顔に、アポロは喜びを覚えた。


そのとき、ふと胸の奥から疑問が浮かび上がってきた。ここ数日間、鍛錬と成長に夢中だったが、そもそもなぜ自分がこの場にいるのか、ラストリンクとは何をする団体なのかという根本的な問いに明確な答えを持っていないことに気づいたのだ。


「……そういえば、ラストリンクって何をする団体なんでしょう?」


アポロは訓練場の隅でストレッチをしていたリップに向かってぽつりと尋ねた。リップはその質問に一瞬動きを止め、アポロをじろりと睨むように見つめた。まるで呆れ果てたかのような声が響く。


「あんた、そんなことも知らずにここに入ったの?」


リップの目には軽蔑の色が浮かび、その冷たい視線にアポロは一瞬たじろいだ。


「す、すみません……」


アポロは居心地悪そうに苦笑いを浮かべながらも、内心ではリップの冷淡な反応に少し傷ついていた。リップはため息をつき、腕を組んでアポロを見下ろした。


「私たちが軍隊や警察じゃないってことくらい、わかるでしょ?」


彼女の口調は冷ややかで、それでもどこか諦めたような調子が混じっていた。アポロはその言葉に頷いた。


「普通の人には処理できない超常現象を取り扱う、ってことですか?」


「まあ、簡単に言うとそんな感じよ。」


リップは渋々といった表情を浮かべ、まるで言葉を飲み込むように説明を続けた。


「つまり、正義の味方、みたいな?」


アポロはなんとか状況を理解しようと頭をひねりながら、少し困惑した表情を浮かべた。


「ああ、もう!」


リップは呆れたように頭を抱えた。


「まあ、そう思ってればいいわ。」


その時、場の空気を和らげるように軽やかな足音が響き、レイアが訓練場に現れた。彼女はその美しい黒髪をふわりと揺らしながら二人のやり取りに気づき、微笑んだ。


「あら、リップ。アポロにはまだ説明していなかったのよね、ごめんなさい。」


レイアは優しい微笑みを浮かべながらアポロに歩み寄り、彼の肩に手を置いた。


「ラストリンクはね、超常現象やそれを引き起こす超能力者たちがこの世の秩序を乱さないように、監視し管理するための存在なの。私たちは、力を正しく使う方法を学び、その力を使って世界の秩序を守っているのよ。」


レイアの穏やかな声が心に染み渡るように響いた。


「じゃあ、俺もその一員として?」


瞳を輝かせながら問いかけるアポロに、レイアは優しく笑みを浮かべて頷いた。


「ええ。あなたは適性があると判断されたから、『世界を守る側』として選ばれたの。その力を正しい目的のために使ってね。」


その言葉に、アポロは少しずつ自分の役割と存在意義を理解し始めていた。自分の力は何のためにあるのか。それは、単に自己のためではなく、大きな目標の一部なのだという実感が胸に満ちる。


すると、訓練場のスピーカーからイーサンの低く落ち着いた声が響き渡った。「全員集合、任務だ。」その声に緊張と期待が走り、レイアは微笑んで「みんな、行きましょう。」と告げた。アポロは拳を握りしめて頷き、次なる挑戦に向けて心を燃やしていった。


——————————


作戦ブリーフィングルームに、緊張が漂っていた。淡い照明の中、メンバーたちは重々しい沈黙で席に着き、目の前に立っているイーサンを見つめていた。彼は普段の冷静さを保ちながらも、その目には普段より鋭い光が宿っており、彼が抱える覚悟と責任感の大きさを暗示している。


「これから、廃墟となった海辺の洋館に調査に向かってもらう。」


イーサンが低く響く声で話し始めると、メンバー全員の意識が一気に集中した。彼はプロジェクターに映し出された洋館の写真を指差す。薄暗い夕陽に照らされ、崩れた壁と窓枠が寂寥を放つ館の姿が現れる。そこには、かつて人が暮らしていた温もりのかけらも感じられず、ただ陰鬱な静寂だけが残っているように見えた。


「我々の役割は、この洋館で起こっている不可解な現象の原因究明だ。」


イーサンの説明に、リップが眉をひそめ、腕を組みながらため息を漏らす。


「お化け屋敷探検?正直、気が進まないんだけど。」


「なんだよリップ、怖いのか?」


シャンスがからかうように笑いかけると、リップは即座にシャンスの足を蹴りつけ、睨みつけた。


「ふざけんな。」


そんな二人の小競り合いを一瞥し、イーサンは冷静に「静かに。」と一言で制し、続けた。


「いいか、リップ。超常的な現象が絡んでいる場合、我々にはそれを調査し、解明する責任がある。」


リップは小さく「わかってるって……」と呟き、視線を外した。どこか不安そうな顔のアポロはその様子を静かに見つめていたが、イーサンの命令に一抹の使命感が湧いてくるのを感じていた。これは彼にとって初めての実戦任務であり、自らの力で仲間の役に立てるかどうか、その答えが試される瞬間が近づいているのだ。


「シャンス、リップ、アポロ。現地に向かい、調査を開始してくれ。日没までに準備を整え、現地へ向かうように。」


シャンスは軽く頷き、リップも肩をすくめて不承不承ながらも納得した。イーサンの指示を受けたアポロの心には、自分が「世界を守る側」であるという覚悟と責任感が芽生えていく。アポロは迷いを押し殺し、「はい!」と力強く応えた。その声が静かなブリーフィングルームに響き渡り、次なる試練への気持ちを奮い立たせるようだった。

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