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第7話:深淵に魅入られて(1)

闇に沈むオフィスは、夜の街の冷たい光をほのかに遮り、他のどのビルとも異なる孤独な存在感を放っていた。窓の外に広がる無機質な明かりは、まるでこの場所を避けるように遠ざかり、ぼんやりとにじんでいた。薄暗い部屋の中、ジャック・ベルモンドはその姿をさらに薄闇の中へと沈め、重い吐息とともに葉巻の煙をくゆらせていた。


男の肌は不健康な浅黒さを帯び、古びたランプの仄かな明かりに照らされながら、苦悩の影を浮かべている。豪奢でけばけばしいスーツ、金色のチェーン、大ぶりのリングが男の指を飾り、どれも彼が無理に手に入れた権力の象徴であるかのように輝いているが、その全てがどこか虚飾じみて見え、上品さには欠けていた。


ジャックの目は、目の前のスクリーンに映る一連の報告書を食い入るように見つめていた。そこには、彼が管理していたアジトが次々と摘発され、手下が無力に拘束される様子が記録されている。計画が、逃げ道が、どこかで狂っていた。内通者か、予期せぬ敵の介入か、何が原因なのか、彼の思考は苦しみの中で彷徨い続けていた。彼の胸中には、不安と焦燥が渦巻き、ため息をつくたびにその重圧が深まっていく。


その失敗を報告する相手はただ一人、冷酷無比な上司、レオナール・ド・ロシュフォール。彼がどれほど無駄を嫌い、失敗を憎むかをジャックは痛いほど知っていた。報告が遅れるたびに、処罰はその分厳しくなるのが常だった。汗が背筋を伝い、焦燥が次第に増していく中、ジャックの脳裏には逃げ場のない絶望が広がっていった。


「なあ、頼むからお前からも口添えしてくれないか、カルロッタ。」


ジャックは救いを求めるように、目の前に立つ一人の女性に視線を向けた。カルロッタは昼間の微笑みとは一変した冷たい表情で、彼を見下ろしていた。彼女の深紫の瞳は冷徹に輝き、その胡桃色の髪は夜の闇に溶け込むように肩に流れ、鋭く美しいその姿がかえって冷たい威圧感を増幅させている。


「これはあなたの問題よ、ジャック。巻き込まないで。」


彼女の声は冷え冷えとしており、無機質な響きが空間を凍らせた。彼女はデスクの書類に視線を落とし、再び短くため息をつく。その動作の一つ一つに、ジャックに対する無関心が浮き彫りにされているようだった。


ジャックは唇を噛み締め、その無慈悲な拒絶にさらに追い詰められた。カルロッタは彼にとって最後の頼みの綱だったのだ。彼女が少しでもレオナールに好意的な言葉を添えてくれれば、何とかこの状況を切り抜けることができるかもしれないと信じていた。しかし、その儚い希望は、今カルロッタの冷たい態度によって粉々に砕かれてしまった。


「そんなに冷たいこと言うなよ。今度埋め合わせするから、頼むよ。お前のためなら何でもするって。」


ジャックは懸命に頼みながら、葉巻を咥えたまま彼女に近づく。そして、彼女の腰に手を回すと、煙を彼女の鼻先にふっと吹きかけた。だが、カルロッタはまるで動じることなく、冷ややかにジャックを見返すだけだった。


「ボスがお前には甘いのは知ってるんだ。特別な仲だろう。」


ジャックは無理ににやりと笑みを浮かべ、彼女の顎に指をかけてこちらを向かせようとした。その冷たく油じみた指先が彼女の肌をなぞり、彼女の表情にわずかな不快感が走る。しかしカルロッタは、その不快さを露わにせず、ただ冷たく見下ろしていた。


「話をする気がないなら、もう時間の無駄ね。」


カルロッタは優雅な動作で彼の手を払いのけ、一歩後ろへと下がった。彼女の視線には明らかに怒りが宿っており、ジャックの横暴な態度に対する強い拒絶の意志があった。ジャックの顔から不快な笑みが消え、焦りと恐怖が増幅していく。


「カルロッタ、頼むよ……お前が手を貸してくれれば、なんとかなるかもしれないんだ。」


彼の声は震え、完全に追い詰められた男の絶望感がひしひしと伝わってきた。背水の陣に立たされた彼には、もはや彼女しか頼れる存在がいなかった。しかし、カルロッタの冷淡な表情には変化はなく、その瞳は氷のように冷ややかだ。


「あなたがどれだけ懇願しようと、ボスがあなたを許すわけがないわ。あなたは失敗した。それが現実よ。」


その冷酷な一言が、ジャックの心を深く切り裂いた。カルロッタの無情な言葉は、彼の最後の希望すら打ち砕いてしまったのだ。


だが、彼女は一瞬の間を置き、ふと冷たく笑みを浮かべた。その笑みには、どこか底知れぬ恐ろしさが宿っている。


「まあ、そうね。今回は力を貸してもいいわ。ただし、条件がある。」


彼女の冷静な言葉に、ジャックは思わずその場に釘付けになる。彼の顔に一筋の光が差したかのように希望が戻り、彼女の言葉を待ちわびた。


「私が用意した仕事を完璧にこなすこと。多少の無理を言うけど、それくらいの覚悟はあるでしょう?もし成功すれば、ボスの信頼も取り戻せるはずよ。」


ジャックの身体は緊張で固まり、喉がカラカラに乾いていく。選択肢は二つしかない。彼女の指示に従うか、全てを失うか。どちらにせよ、彼の未来は今や完全に彼女の掌中にあった。


「……分かったよ。何をして欲しいんだ?」


ジャックが力なく問いかけたその瞬間、カルロッタの唇に冷酷な微笑が浮かんだ。それはまるで、彼を完全に支配したという証であり、彼女が握り締めた運命の鎖が、ジャックの首元にゆっくりと巻き付くようだった。


「お利口さん。」


カルロッタの声は甘く響き、その残酷さが際立った。ジャックは、彼女の冷ややかな一言によって、深い奈落の底へと引きずり込まれていく自分をはっきりと感じていた。


——————————


「ほら、もっと来い!」


シャンスの明るく力強い声が、訓練場の広い空間に響き渡った。陽の光が差し込む開けた場所で、緑と白が織り交ぜられた柔らかなマットが敷かれている。その中心には、汗で髪が額に貼りつき、荒い息をつきながらも必死でシャンスの動きを追うアポロの姿があった。訓練場の中で、彼の息遣いが鼓動のように空気を揺らしている。


「もっと速く、アポロ!動きが遅いぞ!身体の感覚を研ぎ澄ませ!」


シャンスの声には、優しさと激励の中に確かな強さが宿っている。鋭い眼差しでアポロの一挙一動を捉え、その動きに即座に指摘を入れる。アポロは何とかその声に応えようと全力で拳を繰り出し、足を踏み出すが、彼の体はすでに限界を迎えていた。


「くっ……!」


アポロの顔には苦悶が浮かび、まるで灼熱の重しが全身にのしかかるようだ。視界がにじみ、心拍は鼓膜を突き破るほどに高鳴っている。それでもアポロは諦めたくなかった。この場所での訓練は、彼にとって単なる戦いの準備ではない。仲間と共に戦い抜く力を、彼らの信頼を得るための重要な機会なのだ。彼はその思いを全身に込め、必死に踏ん張っていた。


「アポロ、もう少しだ!お前ならできる!」


シャンスの鼓舞する声に応えたい一心で拳を握りしめるが、その瞬間、アポロの膝がついに崩れ、全身の力が抜けるようにしてマットの上に倒れ込んだ。静寂が一瞬だけ場を支配し、彼の荒い息遣いだけが耳に残る。


壁際にはリップが座り込み、その一部始終を冷ややかな目で見つめていた。腕を組んだ彼女の表情には苛立ちがにじみ出ており、その瞳には冷たく鋭い光が宿っている。しばらくの沈黙の後、彼女は毒を含んだような声で言葉を放った。


「本当に大丈夫なの?この新人、こんな調子で役に立つのかしら。」


その言葉は無情で、アポロの胸に深く突き刺さる。彼は倒れ込んだ体をどうにか動かそうと必死だったが、筋肉は重く、まるで他人のもののように動かない。額を伝う汗がマットに落ちるたび、失望が重くのしかかり、悔しさが胸を締めつけた。


「すみません……」


アポロはかすれた声で呟いた。その謝罪がリップに向けられたものなのか、自分自身への言い訳なのか、彼にも分からなかった。


すると、その場に穏やかな声が響いた。


「苦戦しているみたいだな。」


イーサンが静かに訓練場に姿を現し、シャンスとリップ、そして倒れ込むアポロを見守っている。彼の瞳には、子供を見守る保護者ような温かさがあり、その柔らかな眼差しは、アポロの疲れ切った心に染み渡るように届いた。


「ボス……」


アポロは必死に体を起こそうとしたが、イーサンは穏やかに手を挙げて制止した。


「お前は真面目だから、全力を尽くしているんだろう。だが、今は自分の限界を知ることも大事だ。」


イーサンの言葉は、まるで優しい雨が乾いた土を潤すかのように、アポロの心を少しずつ軽くしていった。その瞬間、アポロは自分がどれほど焦っていたのかを自覚し、肩の力が抜けていくのを感じた。


しかし、イーサンの次の言葉が彼に再び緊張を与えた。


「だが、一つ確かなこともある。お前をすぐにでも戦力として迎えたいのも事実だ。」


その重みある言葉に、アポロは胸を突き刺されたような感覚に襲われた。仲間に頼られる存在でありたい、その願いは彼の中で一層強まる。彼は懸命に体を持ち上げようとするが、イーサンは再び優しくその動きを止めた。


「焦る必要はない。ただ少し、訓練のやり方を変えてみようかと思ってな。お前の適正から見て、魔力のコントロールも並行して学んでみてはどうだろう。」


イーサンは、手にしていた保冷バッグから冷たいペットボトルの水を取り出し、アポロに手渡した。アポロはようやく起き上がると、礼を言いながらそれを受け取る。水を一口含むと、その冷たさが火照った体をゆっくりと鎮めていくのを感じた。


「魔力のコントロール、ですか……?」


アポロは、どこか不安そうに問い返す。彼にはまだ、自分の癒しの力を自分の意思で制御できる自信がない。それでも、彼にはこの力をどうにか活かしたいという願いがあった。


「ああ。君の力は非常に貴重だ。だが、それを扱うためには心の平静が不可欠になる。焦りや恐れにとらわれていては、本来の力は発揮できない。まずは自分の感情をコントロールすることだ。」


シャンスも横で力強く頷き、「そうそう。戦いは力だけじゃない。冷静でいられる者こそが生き残るんだ。」と彼の言葉を補完するように付け加えた。


「はい」


アポロは小さく頷きながら、自分の内面を見つめ直し始めた。彼にはまだ、目指すべき道が曖昧なままだ。けれども、目の前にいる仲間たちの存在が、彼の未来への確信となりつつある。彼は、シャンスとリップの戦いぶりを思い出しながら、彼らのように強く、そして冷静に立ち回る術を模索し始めた。


その時、リップが再び口を開く。


「まあ、やることさえやってくれれば、こっちも文句はないけどね。」


リップの言葉はどこか冷たかったが、その目にはかすかな期待の色が浮かんでいた。


「リップ、そんなにきつく言うなよ。」


シャンスが苦笑しながらフォローを入れる。


「アポロはこれからどんどん成長する。期待しようぜ。」


「ま、せいぜい頑張りなさい。」


リップは無愛想にそう言いながらも、口元にはほんのわずかに笑みが浮かんでいる。アポロはそれに気づき、わずかに元気を取り戻した。


イーサンは、そんなアポロに優しい眼差しを向け「息を整えたら、魔力の制御を訓練する訓練をしよう。自分の内面に向き合い、心を静めてみろ。」と新たな訓練の方向性を示唆する。


アポロは再び静かに頷いた。自分の力、そして仲間と共に成長していくために、彼は新たな決意を胸に秘めていた。


——————————


リカルドは手にしたカウンセリングシートを乱雑に机の上に放り出した。紙が滑り、わずかに端が机からはみ出したが、彼は気にも留めず、深くため息をついた。昼下がりの曇った窓からは淡い光が射し込み、部屋の隅に佇む古いコーヒーメーカーが静かに蒸気を上げている。その香りが漂っているはずだが、彼の鼻には何も届かない。今の彼の頭を占めているのは、目の前の妙な依頼だった。息を詰めるように沈黙している三人の若い大学生たちの沈んだ目、落ち着きのない指先、時折互いに視線を送り合うその姿に、リカルドは疑念を抱かずにはいられなかった。


「で、何をしてほしいって?」


彼は淡々とした口調で尋ね、顎に手を当てたまま、静かにその場の空気を見据えた。真ん中に座る青年が、ぐっと息を吸い込み、少し震える声で語り始めた。その姿には何か決意のようなものが滲み出ているが、その奥底には恐怖が見え隠れしている。


「この前、肝試しに行ったんです。街はずれの古い洋館に……。でも、そこから帰ってきた仲間の一人、カルヴィンが、おかしくなってしまって……。精神的に不安定で……助けてほしいんです。」


リカルドは静かに頷いたものの、その目には冷徹な光が浮かんでいる。彼は大学生たちの言葉の裏にあるものを探るように、沈黙の重みで彼らの反応を引き出そうとしていた。


「それは気の毒な話だね。」


リカルドは、淡々としながらも声に一瞬だけ温かみを含ませた。


「だが、うちの探偵事務所は霊媒師や除霊師じゃないし、心霊現象の専門家でもない。正直なところ、君たちが期待しているようなことは提供できないよ。」


その冷静な返答に、青年たちは顔を強張らせた。視線を彷徨わせ、しばらくしてから真ん中の青年が必死に言葉を紡ぎ出す。


「そんなことはわかっています。でも……リカルドさん、あなたには広い人脈があるって聞きました。どうか、霊媒師や、そういった専門家を紹介してほしいんです。」


その一言にリカルドは目を細め、長く重いため息をついた。背筋を伸ばし、まるで彼らの内心を見透かすかのように青年たちを見据えた。


「残念だが、僕にはそういった知り合いはない。」


冷たく突き放すような口調でそう言い放ったが、内心ではこの依頼の裏に何か異質なものを感じていた。目の前の大学生たちの話は奇妙で、不穏で、ただの肝試しが引き起こすにはあまりにも深刻な状況だ。リカルドの職業柄、嘘や秘密を見抜く目は確かだが、彼らの話には奇妙なまでの切迫感が漂っていた。


「君たちは、この件を僕以外の誰かに相談しているのか?」


リカルドは静かに、そして疑念を含ませながら問いかけた。青年たちは一瞬目を見開き、怯えたように首を横に振る。


「い、いえ……まだ、誰にも話してません。」


その答えに、リカルドは短く頷いた。彼らの様子から察するに、既に精神的な限界に達しているのは明らかだった。リカルドは生来の面倒見の良さに突き動かされるように、少しだけ彼らに助言をすることにした。


「まずは、君たちの友人がしかるべき専門家に会うのが先だろう。僕には大学時代の知り合いで優秀なカウンセラーがいる。紹介しよう。ただし、一つだけ条件がある。」


リカルドの言葉に、青年たちは驚いた表情を見せた。彼が何かを頼むことは想像していなかったらしい。その中でもリーダー格の青年は、心を決めたように言葉を待っている。


「君たちの友人がカウンセリングを受けるなら、その内容を僕にも教えてほしい。もちろん、本人の同意を得た上で、ね。」


その瞬間、リカルドの目が鋭く光を帯びた。彼は探偵としての本能が働いているのを感じていた。この青年たちが語る「洋館での出来事」に何か真実が隠されているのか、それとも単なる恐怖が招いた妄想なのか。その謎を解明するためには、より詳細な情報が必要だった。


青年たちは不安そうに顔を見合わせ、やがてリーダー格の青年が意を決したように深く頷いた。


「……わかりました。カルヴィンに相談してから、また連絡します。」


リカルドはその言葉に頷くと、静かに背もたれに身を預け、目を細めた。薄暗い部屋にただ、コーヒーメーカーの低い蒸気音が響いている。若者たちが部屋を去った後も、彼の頭にはその奇妙な依頼の残響がこびりついていた。

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