やがて、アポロは広々としたリビングルームに通された。そこには大きな窓があり、西日が柔らかく差し込んでいた。ふわりと紅茶の香りが漂い、その瞬間、少し張り詰めていた空気が和らいだ。
「おお、きたきた!」
まず目に飛び込んできたのは、筋肉質な体格の金髪の男だった。彼の澄んだ青い瞳は太陽のように輝き、明るい笑顔と屈託のない態度がその存在感を一層際立たせていた。彼はソファから立ち上がり、大きな手をアポロに差し出した。
「お前がアポロだな?俺はシャンス!歓迎するぜ!」
その声は、部屋全体を明るくするかのように響いた。アポロは一瞬戸惑ったが、シャンスの熱意に押されるようにして差し出された手をしっかりと握り返す。彼の握手は驚くほど力強く、肩から手の先ががくんと大きく揺れた。同時に、その暖かさがアポロの緊張を少しずつほぐしていった。
「ありがとう。よろしくお願いします。」
アポロは少しぎこちなく答えたが、シャンスの笑顔に励まされ、次第に心が軽くなっていくのを感じた。
その時、シャンスの後ろから細身の少女が現れた。彼女は無表情で、冷ややかな雰囲気をまとっている。緩く巻かれたツインテールの髪は毒々しさすら感じるピンク色で、彼女の個性を際立たせている。彼女は青紫色の鋭い瞳でアポロを見つめ、その視線には警戒と無関心が入り混じっていた。
「リップよ。」
彼女は短く名乗り、それ以上何も言わずに少し距離を取った。その態度は突き放すようなものだったが、その存在感は強烈だった。 シャンスがアポロをじっと見つめ、腕を組んで頷いた。
「本当に怪我が治ってる。すごいな。」
その言葉にアポロは一瞬驚いたが、すぐに彼がアポロの回復能力について言っているのだと理解した。
「心配してたんだよ。酷いケガだったからさ。無事で何よりだ。」
シャンスの言葉は真っ直ぐで、彼の面倒見の良さと誠実さが伝わってきた。
「あなた……もしかしてあの時の?」
アポロは突然、アビゲイルを助けた日のことを思い出した。薄暗い廃工場に現れた二つの影――それがこの二人だったのだ。
「おうよ。間に合ってよかったぜ。なあ、リップ?」
シャンスが振り返ると、リップは一瞬だけ彼を見たが、そっけなく答えた。
「別に。仕事だから。」
アポロはその冷たい返事に少し戸惑いながらも、シャンスに尋ねた。
「あの後、アガタを連れて行った人たちはどうなったんですか?」
シャンスは少し眉をひそめ、真剣な表情で答えた。
「ああ、全員アジトに帰ったところを捕まえたよ。リップが小型発信機をつけてくれてさ。」
「小型発信機?」
アポロは驚き、リップの方を見た。
「それくらい余裕。だってあいつらトロいんだもん。」
リップはそれ以上語ることなく、冷たい表情のまま肩をすくめた。しかし、その冷静さの裏には、彼女の高い技術と迅速な判断力が隠されているのは明らかだった。アポロは、リップの冷ややかな態度の裏に何か深い思いが潜んでいる気がしたが、今の自分にはそれを探ることはできなかった。
「ともかく、お前がここに来られてよかったよ。これから頼りにしてるぜ!」
シャンスが明るい声で話し、アポロの肩を軽く叩いた。アポロは頷き、新たな日々に向けて決意を固めた。
「そうだ、アポロ。お前のためにトレーニングメニューを考えたんだが、試してみないか?」
シャンスの目が輝き、熱意に満ちた声が部屋に響く。アポロは一瞬たじろぎ、どう答えればいいのか迷いながら口を開いた。
「あ、えっと……」
その戸惑いを察したレイアが、柔らかな微笑みを浮かべて間に入った。
「シャンス、焦らないで。まずはみんなでお茶にしましょう。」
その言葉に、シャンスは照れたように頭をかいた。
「そうだな、悪い悪い。」
リビングの中央にはアフタヌーンティースタンドが置かれており、色鮮やかなサンドイッチ、スコーン、ケーキが上品に並べられている。テーブル中央のティーポットからは豊かな香りが漂い、部屋全体にほっとする暖かさが広がっていた。ティーポットからは湯気が立ち上り、まるで部屋全体を温かく包み込むかのようだった。
「シャンス、紅茶を淹れるのを手伝ってくれる?」
レイアが穏やかに頼む。
「おう、任せてくれ。」
シャンスは元気よく答え、さっそく行動に移した。キッチンにあったティーカップに残っていた熱湯を捨て、慣れた手つきで紅茶を注いでいく。立ち上る紅茶の香りに、アポロは少し肩の力が抜け、ほっとした気分になった。
「どうぞ。」
レイアは優雅にティーカップを手渡し、微笑んだ。その笑顔にアポロはまた一つ、安心感を覚えた。
「ありがとうございます。」
アポロは少し緊張しながらも、カップを受け取った。紅茶の香りを吸い込むと、自然と心が落ち着いていくのを感じた。
「さあ、遠慮するなよ。」
シャンスは笑顔で並んだお菓子を指さし、アポロに勧めた。
「体を鍛える前に、まずはエネルギー補給だな。」
アポロは少し迷いながらも、シャンスの明るい笑顔に引き込まれるようにスコーンを手に取った。一口食べると、サクサクの食感とチョコチップの甘みがホロホロと口の中に広がり、思わず笑みがこぼれた。
その時、リップが静かにカップを持ち上げた。彼女は無言でアポロをじっと見つめていた。その視線には無表情の裏に、何かしらの感情が隠されているようにも思えた。
「リップも食べるか?」
シャンスが問いかけたが、リップは淡々と答えた。
「後で。」
そのやり取りに、アポロは少し戸惑った。リップの冷淡な態度が気になりつつも、見えない壁に阻まれいるようで、話しかけるのをためらった。
「リップの分はお皿に取り分けておきましょう。」
レイアが穏やかに言った。リップは短くうなずき、無言でカップの縁に口をつけた。彼女のクールな振る舞いを、レイアとシャンスはそれを自然に受け入れている。
「そうだ、アポロ。」
シャンスが再び口を開いた。
「お前、戦いの経験は?」
「この前助けてもらった時が初めて……だと思います。」
「そうか。じゃあ、俺たちがしっかり鍛えてやるから安心しろよ。」
「はい、よろしくお願いします。」
アポロは真剣に答えたが、まだどこか緊張が解けない様子だった。
「ふふ。頼もしいわ。でも、無理は禁物だからね。」
レイアの優しいフォローには、豊かな人生経験に裏打ちされた余裕がにじみ出ていた。アポロは頷きながらも、自分がこの新しい環境でどれだけやっていけるのか、不安と期待が入り混じる心境だった。未知の世界に飛び込む恐れと、仲間と共に未来を切り開く希望が交差する中で、少しずつ自分を馴染ませていこうとしていた。
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夕闇がリトルガーデンの街並みをゆっくりと包み込んでいく。リカルドは会長室の広い窓から、その光景を無言で眺めていた。街の明かりが点々と灯り始め、遠くに見える港には船の灯が揺らめく。リカルドの手には紙タバコが握られており、先端からは白煙がゆっくりと天井に向かって立ち昇っていた。
彼は無表情のまま、タバコの灰を灰皿に軽く叩き落とした。その瞬間、机の上に置かれた内線電話が鳴った。耳馴染みのある電子音が静かな室内に響く。リカルドはタバコを口から外し、受話器を取る。
「ありがとう。通してくれ。」
彼は手短にそう告げると、タバコを灰皿に押しつけて消した。煙が一瞬立ち昇り、すぐに消えていく。
受話器を元に戻すと、彼はゆっくりと反対側に座っているイーサンの方へ視線を移した。二人は数々の困難を共に乗り越えてきた戦友のようなものだった。リカルドはイーサンと長い付き合いがあり、互いに信頼し合っていた。年齢を重ねたイーサンの顔に刻まれた深い皺と、彼の持つ威厳と優雅な佇まいは、彼の人生の密度の高さを感じさせる。
「さて、彼らは何かいい情報を持っているかな。」
リカルドは静かに呟き、窓の外から視線を戻してイーサンに向けた。イーサンは短く頷き、何も言わないまま、静かにその場の空気を見守っていた。すると、重厚な木製の扉がノックされ、リカルドが「どうぞ。」と声をかけると、精悍な顔つきをした赤毛の青年が静かに部屋に入ってきた。その瞳は、リカルドと同じ深い緑色をしている。
「失礼します。」
青年は毅然とした態度で一礼し、室内の静かな空気を一瞬で切り裂いた。イーサンは彼の姿をじっと見つめ、穏やかな笑みを浮かべた。
「アルミュールか。」
「ご無沙汰しております。」
アルミュールは一礼し、イーサンに敬意を示した。そして、手に持っていた封筒をリカルドに差し出した。
「こちらが例の調書です。ご確認をお願いします。」
リカルドは封筒を受け取り、冷静な目で中身を確認し始めた。その調書には、先日の事件でラストリンクに拘束された男たちの情報が詳細に記されていた。彼らの所属や犯罪歴、そして事件の背景に関する情報が、整然と並んでいる。
「なるほど。一応、話してはくれたんだな。」
リカルドは紙を指先で繰りながら言った。
「はい。しかし彼らの中には、当時現場にいたはずのアガタという男の姿はありませんでした。」
アルミュールの声は落ち着いているが、どこか緊張感が漂っている。
「足を怪我してたって聞いたけど、逃げ足が速いね。同じ脱獄囚にでも手を借りたのかな。」
リカルドはそう呟くと、調書を丁寧にまとめ、机の上に置いた。
「ありがとう。もう下がっていいよ。」
リカルドが指示を出すと、アルミュールは再び一礼して部屋を去ろうとした。しかし、リカルドは何かを思い出したかのように彼を呼び止めた。
「あ、そうだ。今週末、予定を空けておいてくれないか。連れて行きたいところがある。」
アルミュールは驚いたように一瞬表情を緩めたが、すぐに真面目な顔に戻った。「もちろんです。」と短く返事をして部屋を出て行った。その様子を静かに見守っていたイーサンが、軽く顎を上げてリカルドに尋ねた。
「どこかに出かけるのか?」
「そう。うちの次男が店を出すんだ。一緒に見に行こうと思ってね。」
リカルドは楽しそうに答え、アルミュールの姿が消えた扉の方へと視線を向けた。
イーサンはリカルドの様子に思わず微笑み、「みんな立派になったもんだ。」と静かに言った。
「僕の教育がよかったのかな?それとも、優秀な遺伝子を受け継いだのかな?」
リカルドは軽口を叩きながら、手元に残ったタバコの箱を弄んだ。イーサンはその言葉に苦笑し、「まったく、褒めるとすぐに調子に乗る。」と軽く返した。彼の声には親しみと懐かしさが滲んでいた。
しばらく沈黙が続き、リカルドは再び窓の外の夜景を眺めた。リトルガーデンの街は、遠くのビル群に輝くネオンが映え、忙しさを増す夜の様子が伺える。車のライトが川のように流れ、無数の人々が一日を終えて家路に着いているのが見える。
「俺は、お前がそうしてくれているだけで嬉しいよ。」
イーサンはふと呟いた。その言葉には、リカルドに対する感謝と信頼が込められていた。リカルドはその言葉を受け止め、わずかに微笑んだ。長年の絆が、言葉を超えて二人の間に漂っていた。