夜の湾岸線には、静寂の中で浮かび上がる街の光が、どこか寂しげで幻想的に瞬いていた。磨き上げられた白銀の車は滑らかに道を進み、フロントガラスに打ち付ける雨粒が、原始的な音を奏でる。リズミカルな音は、まるで思考の雑音を打ち消すかのように、心地よい安らぎを生み出していた。
助手席に座る男、イーサンは窓の外に視線を投げ、ぼんやりと流れる街の光と、窓ガラスに映る自分の疲れた顔を眺めていた。彼の指先が無意識に、右の頬に深く刻まれた傷跡を撫でる。重く垂れ込めた思考は、仕事や任務、チーム、そして自分自身に絡みつき、頭の中を占拠して離れない。長引く不眠と焦燥感に苛まれていたが、リカルドの誘いを断る気力もなく、気づけばこの深夜のドライブに同行していた。
「だいぶ疲れているようだな、イーサン。」
運転席のリカルドが、軽くハンドルを切りながら声をかけた。その声音には、彼を気遣う優しさが混じっている。イーサンは軽く眉を寄せ、苦笑いを浮かべた。
「そう見えるか?」
「顔に全部出ているよ。もう何日もまともに寝てないんだろう?」
リカルドがちらりと横目でイーサンを見た。その表情には、どこか余裕があった。彼もまた仕事に忙殺されているはずなのに、イーサンとは対照的だ。
「俺に何ができるだろうか。あいつらを守るために、任務を成功させるために。」
「考えすぎだよ。今までだって何とかしてきたじゃないか。」
リカルドは優しく言葉を遮る。彼の穏やかな口調が、イーサンの心にじわりと染み渡る。
「僕たちは頼れる仲間がいる。あなたが全部を背負う必要なんてないんだ。」
その言葉に、イーサンは静かにリカルドの方に目を向けた。リカルドの視線は道路に固定されていたが、その声には確かな信頼が込められていた。
「イーサンはもっと自分を褒めてあげないと。君の功績がどれだけ多くの人を救ってきたか、知っているだろう?」
リカルドはイーサンが自分をどれだけ追い詰めているのか、全てを理解している。それゆえ、彼に自分の価値を思い出させるために、このドライブを提案したのだ。
「……時々、自分が何をしているのかわからなくなる。救えた命もあっただろうが、その分多くの呪いの言葉も受けてきた。」
「すべての関係者を満足させるなんて無理だよ。そんなことは誰も求めていない。」
リカルドの言葉は淡々としていたが、そこには優しさがにじんでいた。
「僕は、イーサンを追い詰めるようなやつは誰であろうと絶対に許さない。たとえ、それがあなた自身であっても。」
その言葉に、イーサンは思わず顔を上げた。リカルドの目には、揺るぎない決意と、彼に対する深い愛情が宿っていた。リカルドにとって、イーサンは何よりも大切な存在であり、彼が自分を責める姿を見ることに耐えられなかった。
イーサンは苦笑を浮かべたが、その笑みにはわずかに安堵の気持ちが混じっていた。
「イーサンは強すぎる。そして優しすぎる。だからこそ、どんな任務も完璧にこなしてしまう。こんな役目を押し付けて、すまないと思っている。」
イーサンはふと深いため息をつき、前方を見据えた。彼は誰よりも強くあろうとし、誰よりも自分を犠牲にしてチームを守ろうとしてしまう。それがリーダーの宿命だと信じてきた。
「気にするな。俺が勝手に始めたことだ。お前は俺が動きやすい環境を作ってくれたんだ。むしろ感謝しているよ。」
リカルドはその言葉に微笑むと、イーサンにちらりと視線を向けてはっきりと伝えた。
「今も昔も、僕はイーサンを誇りに思っている。」
「お前がそんなことを言うなんてな。」
イーサンは仄暗く弱々しい光を宿した目を伏せる。
「みんな、イーサンを信頼しているし頼りにしている。でも、それはあなたが一人で全てを引き受けるということじゃない。僕たちにはそれぞれの役割がある。」
「それは上司としての指導か?」
「茶化すなよ。表沙汰にできない仕事を任せられるのはラストリンクだけなんだ。君という要が壊れたら、困るんだから。」
リカルドは肩をすくめながら冗談めかして言ったが、その言葉には真剣さが感じられた。
「明日すぐに産業医面談だからね。」
イーサンは「医者は嫌いだ。」と苦々しく言い返したが、胸の奥に溜まっていた重荷が少しだけ軽くなるのを感じていた。
「ありがとう、リカルド。」
静かにそう呟いたイーサンの言葉に、車内はしばし沈黙が続いた。雨音をバックに、リカルドの安定した運転で車は湾岸線を滑るように進んでいく。ワイパーのリズムがフロントガラスを拭うたびに、イーサンは少しずつ心の余裕を取り戻していくのを感じた。
リカルドはハンドルを握りしめ、じっと前方を見据えていた。彼の運転はいつも安定していて、幼い頃からは想像がつかないその一面から、イーサンは彼の成長と時の流れを感じていた。
「面接の件は平気?」
リカルドが静かに口を開くと、イーサンは少し身を乗り出し、腕を組んだ。
「予定通りで問題ない。時間も場所も確認済みだ。」
イーサンはリカルドの横顔を見つめながら、さらに問いを投げかけた。
「リカルド、お前の見立てを聞かせてくれ。彼はどんな男なんだ?」
「そうだな……」
リカルドは夜の道を見つめながら、少し考え込んだ。リカルドは慎重に言葉を選んで、今頃病室で眠りについているであろう青年のイメージを崩さないように、真摯に彼の特徴を伝えた。
「彼には驚異的な力がある。でも、人を傷つけるようなものじゃない。」
「ほう。」
「昨日、彼が超能力で自分と依頼人のケガを治している場面を見た。けど、彼自身はその時、気を失っていた。起きた時にはひどく混乱していたよ。おそらく、無意識にやっていたんだろうね。」
イーサンは窓越しに落ちる雨滴を眺めながら、リカルドの話に耳を傾けた。
「依頼人を守るために……か。」
「そうだ。普段はのほほんとしてるけど、いざという時は強い。それに、正義感もある。他人を守ろうとする気持ちは本物だ。実際、僕の探偵事務所で助手として雇おうかとも考えていたくらいだよ。」
リカルドはわずかに笑みを浮かべて話す。
「さぞかし優秀な人材だったんだな。」
イーサンは軽く眉を上げた。
「ああ。でも彼には、もっと適した場所がある気がしてね。それがラストリンクだ。彼の能力と性格を考えたら、きっとあのチームで活躍できると思うんだが、どうかな?」
イーサンは、アポロという青年の無意識の勇敢さと強い正義感について、ゆっくりと考えを巡らせた。今のラストリンクにとって、彼の存在がどれほどの意味を持つのか――その思いを噛みしめるように。
「お前がそこまで評価するなら、会ってみる価値はありそうだな。」
イーサンは静かに応じた。
「彼が本当にラストリンクにふさわしいか、直接見極める必要があるようだ。」
「もちろん。そのための採用面接だよ。」
リカルドは前方の道に目を戻し、小さく笑った。
「イーサンは誰よりも公平な目を持ってる。アポロにもきっと、ふさわしい居場所を見つけてくれると信じてるよ。」
車は雨音を背景に、静かに湾岸線を走り続けた。イーサンは口元をわずかに緩ませながら、再び窓の外に目をやり、流れる光の点滅をぼんやりと眺めた。
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翌日、アポロはリカルドから支給されたスーツを身にまとい、リカルドの指示通り、探偵事務所のソファに腰掛けていた。やがて、扉が開き、「お待たせ。」とリカルドが顔をのぞかせた。いつもカジュアルな装いの彼が、今日はフォーマルな姿で、髭も整え、まるで別人のような威厳が漂っていた。
高級車が事務所の前に停まっており、リカルドはそれに乗り込むと、アポロも助手席に導かれた。車内には張り詰めた緊張感が漂っていたが、どこか信頼感も感じられる静かな空気だった。アポロはふとリカルドの横顔を覗き見ると、普段の軽妙さとは異なる、何か深い真剣さを感じ取った。
車はしばらく走り、大きなビルの前に到着した。スーツ姿の男性がリカルドを出迎え、「車を頼むよ。」とキーを渡すと、リカルドはアポロに「ついておいで。」と促した。アポロは未知の世界に足を踏み入れるような気持ちでリカルドの後を追った。
広々としたエントランスに入ると、受付嬢が微笑みながらリカルドに挨拶をした。「お帰りなさいませ、会長。」というその言葉に、アポロは軽い驚きを覚えた。「ヤガミ様は会議室でお待ちですよ。」と続ける受付嬢に礼を述べ、リカルドはエレベーターへ向かった。エレベーター内で、アポロは抑えきれない疑問を口にした。
「あの、会長って?」
リカルドは軽く笑い、「ああ、この会社は僕が立ち上げたんだ。すごいでしょ。」とさらりと答えた。そのあっさりした言葉に、アポロは驚きを隠せず、理解が追いつかなかった。しかし、リカルドの冷静な態度がそれを事実だと物語っていた。
エレベーターが開き、二人は会議室の前に立った。リカルドはアポロを振り返り、彼のネクタイを整えながら、「今から君の採用面接だよ。」と優しく言った。「面接官はちょっと怖いからね、気を引き締めて。」と冗談を交えながらアポロの背中を軽く叩いた。
アポロは緊張に息を詰まらせたが、リカルドはすぐに「深呼吸して。」と優しく促した。アポロは深く息を吸い込み、落ち着きを取り戻そうと努める。
リカルドが扉をノックし、重々しい声が室内から響いた。
「入ってくれ。」
その声を聞いた瞬間、アポロの心臓は止まりそうになったが、リカルドに背中を押されて扉を開けた。そこには、白銀の髪をした壮年男性が黒いスーツを着て静かに座っていた。彼の青白く輝く鋭い眼差しがアポロを一瞥しただけで、圧倒的な存在感が伝わってきた。その冷静な威厳と、すべてを見透かしているかのような視線に、アポロは圧倒される。
「座ってくれ。」
低く響くその声は、まるで部屋の空気を支配しているかのようだった。アポロはその圧力に呑まれ、無意識に生唾を飲み込んだ。「よ、よろしくお願いします。」と深々とお辞儀をし、震える手で椅子を引いて腰を下ろす。
背後にいたリカルドが、アポロの肩に手を置き、「君なら大丈夫、落ち着いて。」と耳元で囁く。その一言に少しだけ安堵を覚えたアポロは、深呼吸をしてから再び黒スーツの男、イーサンに向き直った。
「面接を担当する、イーサン・ヤガミだ。」
アポロは、人生の岐路に立たされているような緊張を感じた。体は硬直し、椅子に縛り付けられているように背筋が伸びる。目の前の男はただ座っているだけなのに、その存在感は圧倒的だった。威圧感と同時に、どこか温かく見守られているようにも感じる。おそらく、それはこの男が内に秘めた何かによるものなのだろう。
「まずは自己紹介を頼むよ。」
イーサンの静かな声が、アポロを現実に引き戻す。一瞬、何を言えばいいのか迷ったが、リカルドの言葉を思い出し、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「アポロです。10日ほど前に目が覚めて、リカルドさんの探偵事務所で働いています。」
「君は過去の記憶がないと聞いているが、本当か?」
「はい、目覚める前の記憶はまったくありません。」
イーサンはしばらくアポロを見つめた。その視線にすべてを見透かされているかのようで、アポロの胸はさらに高鳴った。
「君にいくつか質問させてもらう。」
その声には、揺るぎない威厳があった。
「君が自分の特異体質に気づいたのは、どんなきっかけだった?」
アポロは慎重に言葉を選びながら答えた。
「探偵事務所での仕事中に気を失って、病院に運ばれたときです。目が覚めたら、自分の体の傷が跡形もなく回復していました。」
「ほかに異常はなかったか?」
「特には……ありません。」
イーサンは頷き、次の質問に進んだ。
「依頼人を助けた際、何を考えて行動した?」
アポロはその瞬間を思い出し、ゆっくりと口を開いた。
「彼女が危険にさらされているのを見たとき、何も考えずに体が動きました。とても恐ろしいという気持もありましたが、自分が彼女を守らなければならないという気持ちだけがありました。」
イーサンの鋭い目がアポロを捉えたまま、次の問いを投げかける。
「もし君が自分の力をコントロールできるようになったら、その力を世のため、人のために使いたいと思うか?」
アポロは迷わず答えた。
「はい、使いたいです。力を正しく使えるなら、それを誰かのために役立てたいです。」
イーサンは深く息を吸い込み、真っ直ぐにアポロを見据えた。
「最後に一つ、君に聞きたいことがある。」
アポロは息を整え、「はい。」と頷いて、その問いに耳を傾けた。
「君は、人との繋がりをどう考える?」
その声は重く、まるでアポロの核心に迫るかのようだった。アポロは一瞬戸惑った。記憶を失っている自分には、人との繋がりがどんなものか思い出すことができない。目覚めてからの孤独や不安が頭をよぎる。しかし、リカルドやブルーノとの出会い、アビゲイルを助けたことが、自分の中で何かを変えつつあることに気づいていた。
少しの間、考えた後、アポロは慎重に答えた。
「正直、まだよくわかりません。私には過去の記憶がなく、人との繋がりが何だったのかは思い出せません。でも、リカルドさんやアビゲイルと出会ってから、守ることや支え合うことがどういう意味を持つのか、考えるようになりました。」
「つまり、どういうことかな。」
「今言えるのは、繋がりは人を強くし、誰かを守る理由になるということです。」
イーサンはその返答にじっと耳を傾けた後、しばらくの間、アポロを見つめ続けていた。その眼差しには、若者の成長と内面の葛藤を見抜こうとする深い思索が宿っていた。
「繋がりは時に力となり、時に重荷となる。それでも、君がその価値を信じるのなら、それを大切にしなさい。」
イーサンの言葉には重みがあった。まるで、彼が培った経験がにじみ出ているかのように、彼の人生の奥行きを想像させた。
「仲間を家族のように思い、守っていく覚悟が持てれば、君もここで本当の繋がりを見つけられるだろう。」
彼は微笑を浮かべながら、静かに語った。
「君の意思と行動には誠実さがある。それは君を信頼するに足るものだ。」
それはアポロが認められた瞬間だった。彼は息を整え、イーサンをまっすぐに見つめた。胸の中で静かに湧き上がる決意を、言葉にせずとも相手に伝えたかった。迷いはもうない。イーサンが彼をラストリンクの一員として迎え入れる。それは、単に力を評価してのことではなく、彼の信念や心の強さを見込んでのことだった。
イーサンはゆっくりと席を立ち、無言で窓際に向かった。彼が手を窓にかざすと、まばゆい光が部屋を満たし、まるで別の次元への扉が開いたようだった。アポロは目を細めつつも、その壮大な光景に息を呑んだ。
「茨の道を進む覚悟ができたら、飛び込むといい。」
イーサンは光のポータルを指し示し、静かに言った。その先に何が待っているのか、アポロには分からなかった。イーサンが警告したように、厳しい現実が待っているかもしれない。それでも、胸の奥で先に進む決意が燃えているのをアポロは感じた。光の向こうには、自分の使命、そして新しい仲間たちが待っている。そして、アポロは自分が何者かを知るため、未来への不安を振り払うかのように、力強く一歩を踏み出した。
「これからよろしくお願いします。」
イーサンに向かって深く頭を下げたその声には、もう迷いは微塵も感じられなかった。イーサンはその言葉を静かに受け止め、アポロの前に立つと手を差し出した。アポロはしっかりとその手を握り返す。二人の目が合った瞬間、イーサンの瞳には厳しさの裏に温かな光が宿っていた。
「アポロ、君の居場所が見つかることを祈る。」
イーサンは優しく微笑んだ。
その笑顔を見て、アポロは気付いた。イーサンがただの冷徹なリーダーではなく、深い人間性を持つ人物であることを。彼の中には、先ほどの威圧的な姿とは異なる柔らかさがあった。それこそがイーサンの本質なのかもしれない。
アポロは決意を胸に光の中に飛び込んだ。瞬く間に光が彼を包み込み、アポロはそこから姿を消した。イーサンとリカルドは何も言わず、その光景を静かに見守っていた。