翌朝、アポロは少し早めに出勤し、まだ静かな街の中を歩いていた。朝日がゆっくりと昇り、街の建物が金色に染まり始めていた。澄んだ空気を吸い込みながら、彼は自然と足が太陽の広場に向かっていることに気づいた。
広場に到着すると、アポロはベンチに腰掛け、近くの自動販売機で買った炭酸飲料を手にした。カシュッと音を立てて缶を開け、一口飲むと、シュワシュワと喉を刺激する炭酸の感触が心地よく、ふわりとレモンやスパイスの混ざった爽やかな香りが鼻をくすぐった。晴れ渡る空を見上げながら、彼はぼんやりと自分の状況を考えた。
(目が覚めてから、もう一週間くらいか……)
ふと、不安が胸をよぎる。このまま何も思い出せないまま過ごすことへの恐れが、彼の心の隅にいつも潜んでいた。もし何かを思い出せたとしても、それが何もない空虚なだけの人生だったら、絶望するだけだ。進むことも戻ることもできない今の状況に、アポロは頭を抱えていた。一人になると次々と湧き上がる不安がアポロの心の空白の中で膨れ上がり、彼の胸を押しつぶしていく。
彼が大きくため息をついたその時、不意に背後から飛び込んできた明るい声が、彼の内なる沈黙を破った。
「ねえねえ!君もあの都市伝説を調べてるの?」
まるでアポロの心の中の不安を一気に切り裂くかのような、元気に溢れた声だった。驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは赤毛のショートヘアの女性だった。軽やかに切り揃えられた髪型は、どこか自由奔放な印象を与え、彼女の行動力の高さを伺わせる。彼女の笑顔は、まるで太陽のように眩しかった。人懐っこく、自然と周囲を巻き込んでしまうようなその表情には、一切のためらいや気負いがない。彼女がアポロをを見つめる瞳には、純粋な好奇心が輝いていた。
オフィスカジュアルな服装でありながら、鮮やかな色使いと煌びやかなアクセサリーが彼女の存在を際立たせ、見る者にポジティブな印象を与えた。アクセサリーや小物は煌びやかでありながらも決して過剰ではなく、品性の良さが伺える。
「なんの前触れもなく空から降ってきた男の子……神聖回帰教の主の復活とも言われてるけど、君はどう思う?」
彼女の声には自信が満ちていた。そしてその自信は、傲慢さや不躾さではなく、彼女自身の純粋な興味と親しみやすさから来ているものだとすぐに感じ取れた。
アポロはふと、彼女の雰囲気に見覚えがあることに気づいた。どこで会ったのかはすぐに思い出せなかったが、彼女の人懐っこい笑顔には明らかに心当たりがあった。
「えっと……」
アポロは戸惑いながらも、どう答えようかと思索を巡らせた。
しかし彼女はその迷いなど全く気にすることなく、すでにアポロの前に回り込み、一歩前に踏み出してきていた。
「黒髪で、赤い瞳の男の子……」
彼女はアポロを頭の先からつま先まで観察すると、突然「あなたもしかして!」と声を上げ、アポロの両肩をがっちり掴んだ。驚きで動けずにいるアポロの前に、さらに別の女性の手がすっと現れ、その赤毛の女性の肩に優しく触れた。
「ジーナ、こんなところにいたのね。もうすぐ取材の時間よ。」
その声が響いた瞬間、空間に柔らかな緊張が走った。まるで鈴を転がすような、透明感と気品に満ちた音色が、周囲を瞬時に包み込んだ。その声は穏やかで優雅でありながら、聴く者に不思議な重みと威厳を感じさせる。アポロが視線を上げると、そこにはまるで絵画から抜け出してきたかのような美しい女性が立っていた。
彼女はゆったりとした動きでジーナに近づき、優しくたしなめるように肩に手を置いた。その姿勢や身のこなしは一切の無駄がない。彼女は洗練された彫刻のようで、ただ立っているだけで周囲を支配する。アポロは彼女から目を離すことができなかった。
「驚かせてしまってごめんなさいね。悪気はないの。ただ、興奮するといつもこうなのよ。」
彼女の声は柔らかく、響きの一つひとつが聴く者に心地よい余韻を残す。彼女は丁寧にアポロに頭を下げた。ジーナを優しく見つめるアメジストのような瞳は、光を浴びて神秘的に輝いている。その目は、まるで人の心の奥底まで見透かしているかのようだった。
アポロも無意識のうちに彼女に対して頭を下げた。自然と礼を尽くさざるを得ない、そんなオーラが彼女にはあった。
彼が頭を上げた瞬間、ふわりと甘く官能的な香りが鼻をかすめた。それは優雅な花の香りと、熟した果実のような芳醇さが絶妙に混ざり合った香り。心の奥にじんわりと広がり、しばらくその余韻が残る。アポロはぼんやりとした感覚に包まれながら、再び彼女に目を向けた。
滑らかで透き通るような白い肌は、まるで陶器の人形のような質感を持ち、柔らかく光を反射していた。胡桃色の髪は緩やかにウェーブがかかり、優雅に後ろで束ねられている。それが動くたびに、彼女の髪からもまた豊かな命の輝きが感じられた。さらに、彼女のぷっくりと潤った薄桃色の唇は、大人の色気と少女のような可憐さが同居している。それは自然と視線を惹きつけ、触れたくなるような魅力に満ちていた。全てのパーツが完璧に磨き上げられている彼女の佇まいは、見る者を魅了してやまない。
カルロッタが纏うシンプルな白いカットソーと紺色のタイトスカートは、その洗練された美しさを一層際立たせていた。彼女の胸元には、朝日の光を受けて輝くプラチナのネックレスが光り、その存在感がさらに強調されている。それは、装飾品というよりも、彼女自身の内から溢れ出す輝きを象徴しているかのようだった。
アポロはその場に立ち尽くし、ただカルロッタの存在感に圧倒されるばかりだった。彼女はまさに、見る者に息を呑ませ、言葉を失わせる「絶世の美女」だった。
「ねえカルロッタ!この人にインタビューしたい!」
ジーナが興奮して叫ぶと、カルロッタと呼ばれた女性がため息をつきながら言った。
「落ち着いて。今は仕事に専念しましょう。」
「話題の人物にインタビューを受けてもらって原稿を書けば編集長だって――」
「編集長にわかってもらいたいなら、まず目の前の仕事をきちんと終わらせて信頼を勝ち取りなさい。」
「はーい……」
肩を落とすジーナに、カルロッタは再び穏やかな微笑みを向け、彼女の腕を軽く引いた。ジーナは促されるままカルロッタの隣を歩いていたが、しばらく悩んだ末、再びアポロの前に戻ってきて、カバンから名刺を取り出した。
「さっきはごめんね。私、ジーナ。どうしてもあなたに取材したいんだ。都合のいいときに連絡してよ。」
ジーナはアポロに名刺を手渡すと、軽やかな足取りで去って行った。その足取りとは反対に、彼女は一度出会えば決して忘れることができないほどに強烈な存在感と衝撃の余韻を残していった。
「元気な人だったな……」
アポロは彼女たちの背中が小さくなっていくのを見送りながら、呟いた。
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「おはようございます。」
柔らかく透き通る声が探偵事務所に響いた。声の主は、アガタの捜索依頼を出していたアビゲイルだった。彼女は静かに扉を閉め、事務所に一歩足を踏み入れると、深々とお辞儀をした。彼女の暗めのブラウンのボブヘアが、その動きに合わせて揺れた。その瞬間、髪に隠れた細い首筋が一瞬だけ見え、どこか儚さを感じさせた。
「今日もよろしくお願いします。」
初めて会ったときも感じたことだが、アビゲイルには独特の落ち着きがあった。彼女の動作や言葉遣いの一つ一つが、まるで繊細に編み上げられたレースのように、丁寧で細やかだった。まるで風に吹かれればすぐに崩れ去ってしまうような、そんな儚さと同時に、静かで確固たる芯を感じさせる。彼女の姿勢には、気品と哀愁が同居しているように見えた。
アポロは思わず背筋を伸ばし、改めて気を引き締めた。彼女が持つ礼儀正しさに、自分も同じように対応しなければと感じたからだ。
「こちらこそ、お力になれるように頑張ります。」
アポロは心を込めてそう言い、一礼した。自分が本当に役に立てるのか、自信のない部分もあったが、それを口に出すことはしなかった。彼女に対しては、確固たる信頼を持たせる必要があったからだ。
アポロがソファに座るように促すと、アビゲイルは少しだけ微笑んだように見えた。しかし、それもほんの一瞬で、彼女は再び慎重に「失礼します。」と言ってソファに腰を下ろした。その仕草もまた、どこか過剰な礼儀というより、彼女自身の内にある思慮深さから来るものだろう。ソファに腰掛けた彼女の背筋はまっすぐで、どこか緊張を感じさせる。まだ警戒されているようだ。
アポロは「どうぞ。」とテーブルの上にコーヒーを出す。しかし、彼女がそれに気づく様子はなかった。彼女の視線は、どこか遠くを見つめているようで、頭の中では何かを深く考えているのだろう。その表情には、どことなく悲しげな色が差していた。まるで何か大切なものを失い、それを取り戻せないことを知りながらも、その悲しみを他人に悟られないようにしているようだった。
「今日は、アポロさんお一人ですか。」
「はい。所長は午後から合流する予定です。」
「そうですか。」
アビゲイルが不安げに視線を落とすと、やはり自分一人では頼りないのではないかと勘繰ってしまう。アポロはなんとか彼女の信頼を得ようと話題を振った。
「昨日はよく休めましたか?」
「いえ。辛いことをたくさん思い出したので……」
「そう、ですよね。失礼しました。」
アビゲイルの視線は、完全にアポロとは反対側を向いてしまった。アビゲイルの心に寄り添うことができなかった現実を突きつけられ、アポロは焦った。じわじわと体温が上がり、いやな汗が出てくる。
(こんな時、リカルドさんなら何を話すんだろう……)
アポロは必死に考えを巡らせ、リカルドの来客対応を思い出していた。彼は、人の懐に入るのが非常に上手い。彼の表情や仕草、話術はいつの間にか相手の警戒を解いていて、あっという間に距離を縮めている。
アポロは回想の中で、リカルドがまず何をしていたかを思い出し、実行に移した。
「アビゲイルさん。何か伝えそびれてしまったことはありませんか。」
アポロは、アビゲイルから情報を引き出して話を聞こうと彼女に視線を送った。
「……昨日、お話しした通りです。」
最初に与えてしまった不信感が尾を引いているのか、アビゲイルはそっぽを向いたまま答えた。
「何でもいいんです。アガタさんとの過去のこととか、教えていただけませんか。」
アポロは、微妙な空気を感じ取ったが、それ以上はあえて何も言わず、彼女に必要な時間を与えることにした。
アビゲイルはしばらく沈黙していたが、唇に指を添えて「正直、詳しいことは何も知らないんです」と、アビゲイルは小さくため息をついた。彼女の視線は手元に落ちたままだ。
「彼とは、そもそも出会い方が特殊だったから。あれからずっと、彼の過去について深くは考えないようにしてきました。でも、訳ありだろうってことは最初から分かっていました。」
アポロは相槌を打ちながら、彼女の表情を静かに観察した。アビゲイルの目には不安と葛藤が浮かんでいた。何か大切なことを言いかけているのかもしれない。アポロは一歩踏み込むように、言葉を選びながら訊ねた。
「その、特殊な出会いというのは……どんな感じだったんですか?」
アビゲイルは一瞬黙り込んだ。彼女の視線が遠くを見つめ、何かを思い出しているようだった。やがて、口を開いた。
「雨の日だったんです。とにかく酷い雨が降っていました。まるで世界中の全てが、灰色に溶けてしまうんじゃないかと思うくらい。」
思い出を紡ぐアビゲイルの口調はどことなく重く、深い悲しみを感じさせた。
「仕事がうまくいかなくて、バーでお酒を飲んでいました。夜遅く家に帰る途中に、ゴミ捨て場の近くで彼を見つけたんです。アガタは満身創痍でした。まるで捨てられた人形みたいに横たわっていて……」
彼女の声が震える。思い出すだけで、彼女にとってその光景がどれほど衝撃的だったかが伝わってくる。彼女の話を親身に聞いていたアポロはその光景を思い浮かべて、少し寒気を感じた。
「それから、どうしたんですか?」
「放っておけなかったんです。怖かったけど……彼が死んでしまいそうで。だから、家に連れて帰って、なんとか治療したんです。そのときは、医者に診せることもできなくて、私一人でできることをしました。」
アビゲイルは過去の足跡を丁寧に辿り、アポロに情報を伝えていく。
「でも、アガタは意識が戻ってからも、何も話してくれなかった。彼の過去は、一切話してくれなかったんです。」
アビゲイルはその時の感情を噛みしめるように言葉を紡いだ。彼女が感じていた不安と、アガタに対する漠然とした恐れが、今なお彼女の心の奥に残っているのだろう。
アポロはしばらく考え込み、そしてそっと提案した。
「その場所……そのゴミ捨て場、見に行ってみませんか?」
アビゲイルは一瞬驚いたようにアポロを見つめたが、すぐにその提案に思いが至ったようで、頷いた。
「……ええ、そうですね。何か思い出せるかもしれません。案内します。」