アポロは、上司リカルドから頼まれた用事を済ませた帰り道だった。夕日が沈みかけ、海を赤く染めている。幻想的な景色が広がる中、彼は高台の欄干に手をかけ、ぼんやりとその光景を眺めていた。ここは「太陽の広場」と呼ばれるリトルガーデンを象徴するエリアで、広場を振り返れば、温かな夕陽の光に包まれたこの場所は多くの人々で賑わっている。
犬を連れて散歩する人、子供と手を繋ぎ食材を抱えた夫婦、ベンチで読書にふける青年、広場沿いのベーカリーのショーケースを眺める女性――さまざまな人生が交錯していた。しかし、アポロはその中で、ただ一人、自分だけが世界から取り残されているような孤独を感じていた。
数日前の深夜、アポロは身につけていたボロボロの衣服以外、何も持たない状態でこの広場に現れた。いや、正確には「降ってきた」と表現するのが正しい。しかし、周囲には飛び降りられるような高い建物はない。この不思議な現象をどう説明すればいいのか、彼自身もわからなかった。意識が朦朧とする中、彼は激しい頭痛とともに、遠くから呼びかける声をかすかに聞いていた。視界は血で赤く染まり、警告灯のチカチカとした光に覆われ、現実とは思えない歪んだ世界が広がっていたことを覚えている。
「そろそろ行かなきゃ。」
腕時計を確認すると、アポロはリカルドの待つ探偵事務所に向かった。扉を開けると、リカルドがデスクに広げた新聞を片付け、穏やかな笑顔で「おかえり。」と声をかけてきた。
リカルド・ハイゼンベルク――この探偵事務所の所長であり、アポロの保護者とも言える存在。彼は少し伸びた赤毛を無造作に束ね、無精髭と重たい瞼が疲れた雰囲気を醸し出していたが、その奥には静かな色気と知性が滲んでいた。
「遠くまで行かせて悪かったね。迷わなかった?」
「はい。スマホの地図を使って、なんとかたどり着けました。」
「へえ、もう使いこなしてるんだ。若いと飲み込みが早くていいね。」
リカルドは笑いながらアポロの頭を撫で、テーブルの上に買い物袋の中身を並べ始めた。
「でも、二人で食べるには多すぎませんか?」
「二人じゃないよ。ゲストがいるんだ。」
その言葉が終わると同時に、事務所の扉が開いた。
「やあ、ブルーノ。時間ぴったりだね。」
リカルドの言葉に応じて現れたのは、黒い制服に身を包んだ壮年の男性、ブルーノだった。彼はリトルガーデンの警察官で、腰には銃を装備している。
「まるで俺が来ることがわかっていたような言い方だな。」
「そうとも。僕の目は街中にあるんだから。」
「全く。冗談に聞こえないっての。」
ブルーノとリカルドは冗談めかしたやりとりを交わしつつ、アポロに視線を移した。
「体の調子はどうだ?」
「おかげさまで元気にやっています。」
「それは何よりだ。」
ブルーノはアポロの肩に手を置き、安心したように微笑んだ。
「あの夜、お前さんを見つけた時は本当に驚いたよ。こっちの心臓が止まりそうだった。」
アポロはその言葉を聞きながら、当時のことを思い出していた。病院のベッドで目を覚ました時にはもう、アポロはこの新しい世界――リトルガーデンに放り込まれていた。それが彼の新たな人生の始まりだった。
ブルーノはそのとき命を救ってくれただけでなく、保護した後も病院でアポロの身の回りの世話をし、リカルドを紹介してくれた恩人でもあった。
「本当にありがとうございました。あの時、あなたに見つけてもらえなかったら、今頃どうなっていたか。」
アポロは感謝の気持ちを込めて深々とお辞儀をしたが、ブルーノは照れくさそうに「当然のことをしたまでだ。」と頭をかいた。
「さあ、そろそろ食事にしようか。」
リカルドが二人をソファに促し、テーブルに並んだ食事を囲むように座らせた。すると、リカルドは改まった表情で口を開いた。
「さて、ブルーノ。今日の件、何かわかったか?」
「ああ。アガタ・イシカワの件だな。どこから話すべきか……」
アガタ・イシカワ。彼は、探偵事務所に捜査依頼が出されている人物だった。依頼人は、アビゲイルという女性だった。彼女は「アガタと直接会って確かめたいことがあるんです。」と強く訴えていた。そのため、リカルドとアポロは午前中にアビゲイルと打ち合わせを済ませ、リカルドの広範な人脈と情報網を駆使してアガタの情報を探り始めた。そして、リカルドの情報源の中で最も信頼できる人物がブルーノだった。
ブルーノは顎に手を添えて唸ると、一息ついて話を続けた。
「アガタは先日、脱獄した。いわゆる脱獄犯だ。警察も血眼で探している。」
脱獄犯のニュースはアポロも耳にしていた。テレビやインターネット、ラジオでも連日のように報じられており、顔写真や名前が公開されているにも関わらず、いまだに彼らが逮捕されたという報道はない。
「ワクワクするね。今回の仕事は警察全員がライバルってわけだ。」
リカルドは余裕たっぷりの口調で言い、ハンバーガーを頬張った。
「警察も相当な人員を割いて捜索しているが、全くと言っていいほど進展がないんだ。」
「面目丸つぶれだね。」
「ああ、全くだ。だから俺は、アガタの過去を探ることにした。」
「過去?」
「アガタはかつて、家出少年だったんだ。俺が補導したからよく覚えている。」
ブルーノは目を細め、過去を思い出すように遠くを見つめた。
「結局あいつはその後、詐欺事件の一員として逮捕されたが、アガタに指示を出していたと思われる元締めまで追い詰めることはできなかった。」
「なるほど。アビゲイルさんが話していた内容と合致してきた。」
「当時、アガタの背後にいたのは、おそらく『ブラックパレード』だと思う。」
「ブラックパレード……?」
ぽかんとするアポロに、ブルーノが補足した。
「ブラックパレードは、その、何というか……都市伝説のような、実態の掴めない犯罪組織だ。」
歯切れの悪い説明に、リカルドは思わず口をはさんだ。
「警察官が都市伝説みたいな犯罪組織について語るのはどうなの?」
「これはあくまで可能性の話だ。それに、もしそれが本当なら、お前の案件なんだぞ。」
「それもそうだな。ごめんごめん。」
リカルドは謝りながら、ブルーノに続きを促した。
「リトルガーデンでは、この十年ほどで少年少女の行方不明者が急増しているのは知っているだろう?」
「ああ。居場所もなく、いなくなっても誰も困らない子供たちが標的だって話だ。」
リカルドの答えに、ブルーノは頷いた。
「これはあくまで噂だが、保護シェルターのボランティア団体が自立支援と称して子供たちに近づき、少しずつ洗脳して犯罪のための教育を施しているらしい。」
「まともな人間のやることじゃないね。拒否した子供たちはどんな目に遭うのやら。」
「アガタも、かつて保護シェルターに世話になっていた時期がある。その後はアルバイトで生計を立てたり、知人を頼って生活していたようだ。」
「その知人がアビゲイルさんか。時期的にも合うね。」
「そして、何らかのきっかけで再びブラックパレードと接触し、詐欺グループの一員にされたのだろう。」
「アビゲイルさんの話では、アガタは彼女との未来を見据えて真面目に働こうとしていたみたいだ。きっと仕事の相談をした相手が悪かったんだろう。」
リカルドは気の毒そうな目をしながら、手元に視線を落とした。
「どうだ、情報は役に立ったか?」
「もちろん。おかげで時系列が整理できた。」
リカルドは席を立ち、ホワイトボードにアガタの経歴を加筆していった。
「アポロ、一緒におさらいしよう。」
リカルドの呼びかけに、アポロは力強く「はい!」と返事をした。
「アガタは少年期に一度、ブラックパレードに関わった可能性が高い。そして、大人になるまで何らかの形で組織の影響を受け続けていたんだろうな。」
彼は口元に手を添え、書き出した情報を眺めながら呟いた。
「彼の脱獄も偶然じゃないかもしれない。それに、脱獄後に捕まらないのも、ブラックパレードが背後で手を引いている可能性が高い。」
リカルドの言葉に触発されたブルーノは、腕を組んで考え込んだ。
「もしブラックパレードが本当に存在しているなら、非常に厄介だ。これまで姿を現さなかったが、何か大きな事件が動き出そうとしているのかもしれない。」
「いずれにしても、事前の準備はしておくに越したことはないってことか。」
リカルドはそう低くつぶやくと、ホワイトボードから目を離し、アポロに目を向けた。
「明日、アビゲイルさんとの約束は何時だったっけ?」
「10時です。」
「そうか。もう一度、彼女に話を聞いてみよう。まだ何か重要な手がかりが掴めるかもしれない。」
アポロは真剣な表情でリカルドの言葉を聞いていた。彼の胸には緊張が高まっていた。この任務が単なる追跡ではなく、より大きな陰謀に関わっている可能性が強まっていたのだ。アガタを見つけ出すことが、リトルガーデンに潜む闇を暴く手がかりになるかもしれない。
リカルドは少し考え込んだ後、ふと思いついたように言った。
「そうだ、アポロ。明日は君がアビゲイルさんと話してみたら?」
「ええ?俺一人ですか?」
「大丈夫だよ。君の方が歳も近いし、リラックスした雰囲気で話せば、彼女も思い出すことがあるかもしれない。」
多少の不安を感じながらも、自分に向けられたリカルドの人懐っこい笑顔に断ることもできず、アポロは頷いた。
「分かりました。お役に立てるよう、頑張ります。」
リカルドは満足げに微笑んだ。
「よし、それじゃあ頼むよ。」
その様子を見ていたブルーノは、リカルドに向かって「情報は渡したぞ。例の件の調査も引き続き頼む。」と言うと、リカルドは頷きながら「もちろんだよ。」とブルーノと握手を交わした。
「アガタを捕まえたら、ブラックパレードについての糸口を掴めるかもしれない。」
「いずれにしても、一筋縄ではいかないだろうね。僕もできる限りの準備をするよ。」
「ああ。頼りにしている。」