ジュリエット様とほんの少しだけ距離が縮まった夜を超えた翌日の夕方。
桜屋敷に西日が差しこむ時間帯に、頭部が
俺をメンテナンスするという名目で回収しに来た我が父にして諸悪の根源、安堂勇二郎その人である。
親父は今日も元気に太陽光を反射させながら、桜屋敷の玄関前に停めた真っ白な社用車の脇に立ち、俺の真横でふんぞり返っているジュリエットお嬢様に深々と頭を下げた。
「おはようございますジュリエット様。先日連絡していたように、ロミオゲリオンのメンテナンスのため回収にやってきた安堂勇二郎です」
「んっ? 安堂主任が
「い、いえ! ロミオゲリオンは我が社が誇る最新鋭のアンドロイドですから、何事もないように万全を期してわたし自らが回収しに来たのです!」
「……そうか」と親父のハゲ散らかった頭皮を眩しそうに
「ちなみに安堂主任、ロボはいつごろ帰ってくる予定だ?」
「本日より1週間ですので、4月1日には……はい」
「……分かった。ロボ? 異常が無いかしっかり調べてもらいなさい」
「かしこまりました、お嬢様」
親父と同じく
窓の外へ視線を向けると、チラホラと桜の花びらが目に入る。もうすぐ満開だろう。
そういえばお嬢様がこの桜屋敷から見る桜景色は最高に綺麗だと言っていたっけ。
ふふっ、ちょっと楽しみ。
なんてことを考えながら、俺はコレまでのお嬢さまとの生活を振り返っていた。
最初はどうなるかと思ったこの生活も、案外悪くなかった。
というか、ぶっちゃけこの桜屋敷にお嬢様1人だけを残して一旦家に帰るという今の現状に罪悪感が沸いてきてしょうがないくらいだ。
う~ん、ちょっとジュリエットお嬢様に深入りし過ぎたかなぁ……。
「まぁ何はともあれ、これで当分の間はこの桜屋敷とオサラバだなぁ……」
らしくもなく、ちょっとセンチメンタルな気分に浸ってしまう。
ほんとこの2週間は激動と呼ぶべき日々だったよなぁ。
目を閉じれば、この2週間の日々が走馬灯のように蘇ってくる。
ローライズのキャンディーカラーの下着を履いたお嬢様の姿や、ちょっと背伸びして大人のランジェリーを身に着けたお嬢様、そして極めつけは興味本位でスケスケの下着を買ったはいいが、やっぱり恥ずかしさが勝って着るに着られず頬を染めてモジモジしてしまうお嬢様と、俺の脳裏にはお嬢様の可愛い姿でいっぱいだ。
……なんか下着姿のお嬢様の姿しか思い出せていないような気がするけど……うん、気のせいだな!
「それではジュリエット様、わたしはそろそろこの辺で」
「……あぁ。ロボのことは任せたぞ、安堂主任」
俺がお嬢様の下着姿に明日の光を見ている間に、親父が運転席へとフェードイン。
そのまま慣れた手つきでエンジンをかけるなり、スーッと音もなく車は発進。
遠くになっていく桜屋敷と、米粒のように小さくなっていくジュリエット様を確認し、俺はようやく安堵の息を吐いた。
「ぷはぁ~っ! あぁ~、疲れたぁ~」
「お疲れロミオ。この2週間よくやってくれたよ、正直ここまで上手くいくなんてパパ驚きを通り越してオションションが漏れそうだよ」
「ちょっ、やめて親父? 今マジで疲れてるからツッコむのも億劫なの」
「えぇ~? 久々の親子の会話にしては冷たくなぁ~い? 反抗期かぁ~?」
「うわぁ……キッツ。久しぶりの親父キッツ。ガードの仕方忘れてボディにきやがる、吐きそうだ」
そう言えば、オションションと言って思い出されるのは我が従兄弟、大神金次狼が人としての尊厳を捨てた事件、通称『オオカミの乱』だろうか。
確かアレは小学5年生の春休み、俺が金次狼と大神家の居間で仲良く対戦格闘ゲーム『大乱交! スプラッシュ・シスターズ』のストーリーモードで遊んでいたときのことだ。
その日は金次狼の母親は娘とパパンと一緒にお出かけしていたので、家には俺と金次狼しか居なかった。
だから珍しく居間のテレビがフリーの状態だったので、2人してスプラッシュ・シスターズを夢中になって遊んでいたのが悲劇の始まりだった。
いよいよラスボスという所で、強烈な尿意が金次狼を襲ったのだ。
荒い
しかし金次狼は断固としてこれを拒否。
『画面の向こうでは仲間たちが頑張ってくれているのに、俺だけそんなチキンなマネは出来ねぇ!』
と、セリフだけはえらく一丁前にカッコいいことを口にするのだが、内股でモジモジしながらファイティングポーズをとる金次狼の方こそ
相当に急激かつ強烈な尿意だったのろう。
金次狼は画面を鋭く射抜きながら、机の上に置いてあったペットボトルを素早くキャッチ。
そのまま中に入っていたジュースを一気に飲み干し空にすると、ズボンのチャックを下ろし、社会の窓から2代目Jソウルブラザーズを特殊召喚したのだ。
ま、まさかコイツ……居間でやる気か!?
と、目を見張っていた俺に対して金次狼は言った。
『万が一の備えさ』と。
万が一だろうが、もうすぐピカピカの小学5年生が自宅の居間にいながらペットボトルに放尿する行為はやってはいけないコトだろうと当時の俺は子ども心に強く思った。
そうだラスボスだ、ラスボスを倒せば全て丸く収まるんだ!
俺はすぐさま不敵に空中に浮いているラスボスへと視線を向けた。
コイツさえ倒せば世界の平和も、俺の従兄弟の人としての尊厳も守られるのだ。
俺は死ぬ気でラスボスと戦った。
でも、敵が強い、やたらと強いのだ。
なんとかラスボスのHPを0にするのだが、それは第一形態で、第二形態に至ってはもはや手も足も出ず一方的に
気がつくと、俺の使用キャラは全滅。
残るのは金次狼だけとなった。
あの日の『ロミオぉぉぉ~!?』という金次狼の乾いた叫びは数年経った今でも忘れられない。
俺が敗北すると同時に金次狼の緊張の糸も解けてしまったのか、ついに
金次狼は股間のモンスターをブラブラさせながら『ロミオ! ペットボトル、セット・アップ!』と、まるで合体ロボットのような掛け声を叫んだ。
俺は瞬時に悟った。
万が一、そう一万分の一の出来事に
この世の終わりかと思った。
どうしたものかとオロオロしていると『ロミオ、早くしろ! 間に合わなくなって知らんぞぉぉぉぉ』と変なモノマネを始めた従兄弟を前にして、一体どれだけの選択肢が当時の俺にあったのだろうか。
……やむなく俺は、泣きながら――居間に金次狼を残して青子ちゃんの家に遊びに行った。
背後から『待ってくれロミオ! 親友を置いていかないでくれぇぇぇぇっ!?』と悲痛な叫びが聞こえたような気がするが、構わず全力疾走でその場を後にした。
当時の俺に、従兄弟のシモの世話は荷が重すぎたのだ。
まあ今でも「やれ!」と言われたら全力で逃げ出す自信はあるけどさ……。
それから数時間後、青子ちゃんと青子ちゃんの家で一緒に遊んでいたあーちゃんと共に金次狼の様子を見るべく大神家へ1度帰宅した。
居間に変な液体が入ったペットボトルも、悪臭も、カーペットに染みもなくてホッと胸を撫で下ろしたのだが、いつの間にか家に帰って来ていた金次狼のママンに何故か金次狼が庭先で泣きながら正座させられていたのを今でも覚えている。
何かやらかしたのは間違いなかったし、ゲームの
そして俺たち幼馴染みの間でこの金次狼の人としての尊厳を捨てた悲しき事件を『オオカミの乱』と呼び、『大神家年末事件簿』に並んで深く封印される事となったのだ。
ちなみに『大神家年末事件簿』は全部を語れば2時間番組のゴールデンでDVDが300万枚ほど売れる話になってしまうのだが、今は関係ないので
「んっ? うほっ!?」
「どうした親父? 急にお尻を開発されたノンケみたいな声を出して?」
「ソレどんな状況なの? じゃなくって。外見て、外」
外ぉ? と内面に向いていた意識を車窓へ向けると、まるでバケツをひっくり返したような大粒の雨が降り始めていた。
「うわっ、何だよコレ!? ゲリラ豪雨か?」
「屋敷を出て10分も経っていないのに、運が悪いなぁ……。さすがにこのまま運転するのは危険だし、一旦脇に寄せるよ?」
前が見えなくなるほどの急なスコールに身の危険を感じた親父は、適当な店の駐車場に入って雨雲が通り過ぎるのを待とうとうる。
が、いくら待とうが雨は止まず、代わりにゴロゴロと雷雲が不穏な音色を立て始める始末だ。
「……困ったぁ」
「今度はどうした親父?」
「どうもこの雨、一過性のモノじゃないらしい。当分の間は降り続けるみたいだってさ」
そう言って親父がスマホから顔を上げた瞬間、ピカッ! と、眩い光が車内を照らした。
刹那、数秒遅れて、
――ドォォォォォォォォンッ! ドン、ドォォォォォォンッッ!
と爆発音が連鎖するように車内に大音量となって反響した。
「おぉ~、今の雷は大きかったなぁ。あっ、ここら一帯に大雨・雷注意報が出てる」
「雷注意報……」
「しょうがない、今晩は近くのカプセルホテルにでも泊まろうか? ちょっと待っててね?」
そう言って親父は再びスマホに視線を下ろしたが、俺はそんな親父の声に返事をすることなく雷雲を睨みつけていた。
胸に広がるのは圧倒的不安と心配。
そう心配、心配なのだ。
別に我が身の心配なんかコレっぽっちしていない。
それよりも先に、俺の脳裏を支配したのは1人の女の子の姿だった。
(ジュリエットお嬢様、大丈夫かな……)
俺の脳裏に浮かび上がるのは、あの大きなお屋敷に1人ぼっちで膝を抱えながら、隅っこの方で丸くなっているジュリエット様の姿であった。
頼れる大人なんか誰も居ない。
そんな中、あの無駄に広いお屋敷の中、1人ぼっちで残されるお嬢様。
俺の不安がこの空のようにどす黒い暗雲となって胸を埋め尽くしていく。
だ、大丈夫だよ!
お嬢様はあのモンタギュー家の次期当主様なんだし、むしろ心配する方が彼女に失礼ってもんだろ?
うんうん、そうだよ。
たかが一使用人、しかもロボット(フリだけども)の自分が彼女の心配をするなんておこがましいというヤツだよ!
心配し過ぎ!
お嬢様なら大丈夫!
きっと今頃も1人部屋に戻って勉強でもしているに違いな――
瞬間、そんな俺の思考をぶった切るように、一際大きい雷鳴が辺り一面に轟いた。
『大丈夫ですよお嬢様。ネズミも雷も全部自分が追い払ってあげますから』
『ほ、ほんとに……? 一緒に居てくれる……?』
『もちろんですよ』
『それじゃ……約束』
「――俺はバカか!?」
「ん? どうした、今さら気づいたのか――ふへっ!? お、おいロミオ!? どこへ行く!?」
「
「はぁん!? ちょっ、待てロミオ!? ロミオぉぉぉぉぉっ!?!?」
昨夜のお嬢さまの顔が脳裏をよぎった刹那、気がつくと車を飛び出し駆けだしていた。
ロミオッ!? と驚く親父を無視して、スコールの中を切り裂くように走って行く。
もちろん目的地は桜屋敷だ。
「まったく、甘ったれた自分に吐き気がするわ!」
約束したばかりだというのに、この
しかも頭の中で変な理屈をこねて自分を納得させようとしていたことにも腹が立つ。
そうじゃねぇ、そうじゃねぇだろ!?
そこに泣いている女の子が居るのに、おまえは何もせずに
違うだろ!
泣いている女の子が居るなら、脇腹をくすぐってでも笑顔にしてみせるのが安堂ロミオだろうが!
走れ、走れ、とにかく走れ!
他の誰でもない、自分のためでもない。
たった1人の女の子の笑顔を守るために。
――走れ、安堂ロミオ!
俺は無理やり自分を叱責しながら、来た道を全力で引き返した。
たった1人の女の子の笑顔を守るために……。