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第25話 共白髪まで幸せに

 樹が目覚めると、見慣れたペンダントライトが視界の端に映り、ここが自室だということを理解する。


「戻ってきたのか……おれ……」


 囁くように独りごちると、視界の右端に焦げ茶色の髪が揺れるのを捉えた。


(梗一郎さま!)


 樹が急いで身体を起こそうとした時、起き上がる途中で左腕に点滴の管が繋がっていることに気づき、思わずバランスを崩してしまう。


「あっ、」


 中途半端に起き上がったせいで上体がかしいで、ベッドから転落しそうになり――


「樹っ!」


 浅い眠りから覚めた梗一郎に抱きとめられた。


 転落をまぬがれたことと、嗅ぎ馴れた梗一郎の匂いにホッと息をついた樹は、のろのろと頭を上げてハッとする。


「梗一郎さま、目の下に隈が……」


 梗一郎に抱きしめられたまま、右手を伸ばし、涼やかな目元をそっとなでた。梗一郎はその手を掴み、自分の頬を擦り寄せる。そして疲労の色が濃い目元から、ポロリと涙をこぼした。


「樹……目覚めたのだね……よかった……」


 よかった、本当によかったと、涙を流して喜ぶ梗一郎の姿に、樹の胸がきゅうんと切なく鳴く。そして樹は右耳を下にして、梗一郎の胸に寄りかかった。


「……はい。戻って参りました。梗一郎さま」


 樹は梗一郎の心音を聞きながら、戻ってきて本当に良かったと、梗一郎を愛しく想う。そうして言葉もなく抱擁を続けていると、ガチャリと扉が開く音がして、樹は勢い良くベッドに倒れ込んだ。


「まあっ、樹さん! お目覚めになったんですわねっ」


 水の張った手桶を小脇に抱えた椿子が、トトトとベッド脇に近寄ってきた。その時、変な体勢で固まっている梗一郎を訝しげに見ながら、ベッドの横に設置されたテエブルの上に桶を置いた。


「樹さん。本当に良かったですわ。お加減はいかが? ……あら。お顔が赤い……お熱が出てしまったのかしら?」


 椿子は言いながら、手桶の水の中に手拭いを浸し、ぎゅっぎゅっと絞って樹の額にのせた。


「椿子さま。ご心配をお掛けしました」


「本当に! 椿子もお兄さまも生きた心地がしませんでしたわっ。……もう胸は苦しくありませんの?」


「はい。大丈夫です」


 樹が口元に笑みを浮かべて頷くと、椿子はようやく肩の力を抜いてホッとしたようだった。そして手近な椅子を引き寄せようとして、未だに固まったままの梗一郎の姿に片眉を上げた。


「もう。いつまでそうなさっているの、お兄さま。……今更お二人の抱擁を見ただけで慌てふためくわたくしではなくってよ。むしろ、わたくしのことは気にせず、もっとやれ――」


「んんっ! ……椿子。戻ったばかりですまないが、樹に何か食事を運んできてくれないか?」


 梗一郎に言われ、椿子は「あら、そうですわね」と言って、忙しなく部屋を出ていった。


 改めて二人きりになった室内に、先ほどとは打って変わって、気まずい空気が漂う。そんななか、会話の口火をきったのは梗一郎だった。


「樹。昨晩のことだけれど……」


「……わかっております。全ては梗一郎さまの預かり知らなかったことなんですよね?」


 そのはずだ。そうであってほしい。という思いを込めて梗一郎を見つめると、梗一郎は「その通りだ」と頷いた。それにホッとした樹は、ゆるゆると表情を和らげる。


「よかった……。昨日の朝、あんなことがあったから、もしかして梗一郎さまは全てを知った上で、俺を捨ててしまわれたんじゃないかと思って……怖かった……」


 目尻に涙を浮かべながら正直に告白すると、梗一郎の顔からサッと血の気が引いた。


「そんなはずないだろう! 私がどれほどそなたのことを愛しているか……!」


「梗一郎さま……」


 お互いに熱い視線を交わし合い、口付けをするように、梗一郎の顔がゆっくりと近づき――


「お兄さま。のちほど花が軽食を持って参りま――どうなさいましたの、お二人とも」


 またもや椿子の邪魔が入ってしまい、梗一郎は変な体勢のまま固まり、樹は高熱が出たかのように顔を真っ赤に染めた。そんな二人を怪訝な眼差しで交互に見遣る椿子の姿に、なぜだか笑いが込み上げてきて、樹は笑い声を噛み殺そうとして失敗する。


「ぷっ。あは、あははは!」


 くすくすと朗らかに笑う樹の姿に、椿子と梗一郎は呆気にとられるが、そのうちつられるようにして笑い始めた。そこに膳を運んできた花が現れ、目を白黒させる姿に、三人は一様に笑い声を上げたのだった。





 波乱の舞踏会から数日後。日常生活に復帰していた樹は、修羅場に遭遇していた。


「ですから! お兄さまには、樹さんという愛しい方がいらっしゃって……!」


「でもその方は男性なのでございましょう!? 男性がどうやって、花ヶ前家の次期当主を身ごもるというのですかっ」


「ですから、それは! わたくしが嫁いで、わたくしの子をお兄さまの養子に――」


「梗一郎さまには、この撫子がおりますのよ? 養子なんて必要ありませんわ!」


「でーすーかーらー! お兄さまには、樹さんという愛しい方がいらっしゃってですねぇ……!」


 無事に婚約解消となった西園寺撫子が連日花ヶ前家に押しかけてくる事件が続いており、その相手は、なぜか椿子が担っている。


「樹さんはあまりにも儚げで頼りないですから!」


 という、褒めているのかけなしているのかわからない理屈を並べられ、体調が万全でない樹は、梗一郎の進言もあって、撫子の相手は椿子に一任している。


 今回の騒動について、花ヶ前家当主は苦言を呈したが、梗一郎と椿子の必死の嘆願により、西園寺家との婚約は無事に解消されることとなった。


「こんな奇跡。物語の中でしか起こらないと思ってたけど、強く願えば叶うものなんだなぁ……」


 樹はどこまでも晴れ渡る空を見上げて、雪の香りがする冷えた空気を、肺いっぱいに吸い込んだ。


「……まぁ、俺の場合。ただの神頼みじゃなくて、梗一郎さまと椿子さまが尽力してくれたお加減なんだけどね」


 そう独りごちると、止む気配のない椿子と撫子の攻防戦を見て、案外二人は仲良くやっていけるのではないかと思ってしまう。


 自分と梗一郎のせいで、撫子の婚約を台無しにしてしまったのに、落ち込むことなく毎日のように花ヶ前家にやってくる撫子。


「……撫子お嬢さまは、梗一郎さまに未練があるというより、椿子さまとのやり取りを楽しんでいらっしゃるように思います」


 樹の隣で庭園の世話を手伝っていた女中の花が、誰に言うでもなく呟いた。それに頷いた樹は、


「あのお二人。友達になれますかね?」


 と花に訊ねてみた。すると――


「『腐女子』と『推し』のなんたるかを理解できなければ難しいでしょうねぇ」


 と返事が返ってきて、自分も理解できていない境地に、樹は「なんだか、難しそうですね」と答えるしかなかった。


 ぎゃーぎゃーと猫の縄張り争いに似た攻防戦を繰り広げる二人の令嬢を遠巻きに眺めていると、後ろから頬に口付けられた。樹が頬を押さえながら振り返ると、そこには軍服を着こなした偉丈夫の梗一郎が立っていた。


「梗一郎さま、おはようございます」


「おはよう、樹」


 そう。一つだけ、以前とは変わったことがある。それは、朝の挨拶のあとで、口づけを交わすようになったことだった。


 人前で、恥ずかしげもなく繰り広げられる恋人同士の甘い逢瀬に、二人は喜色ばみ、一人は悔しげにハンカチを噛みしめる。


 そして、どちらかともなく唇を離した樹と梗一郎は、鼻先を擦り合わせてフッと笑いをこぼした。


「梗一郎さま」


「うん? なんだい、樹」


「俺、とても幸せです。……怖いくらいに」


 そう言って、薔薇の花が花開くように艶やかに笑った樹を引き寄せ、梗一郎はぬばたまの髪に口づけた。


「怖がることはない。この幸せは、これからずっと続いていくのだから」


「……共白髪まで?」


「ああ。共白髪まで」


 その言葉に大いに満足した樹は、梗一郎の胸によりかかり、甘くくすぐったい愛という感情を、満足のいくまで享受するのだった。




終幕




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