さっきまで酷い胸の痛みと息苦しさに襲われていたのに、それが嘘のように無くなっていることに驚きながら、樹は意識を取り戻した。
しかし、重い目蓋を開けるのが酷くおっくうに感じて、頭に響く潮騒に似た音を聞きながら意識を手放そうとしたとき――
ツンツン ツンツン
と、頬をぷにぷにつつかれていることにハッとして、反射的に目を開けてしまった。
「あ。起きたー?」
目を開けてすぐ、視界に入り込んできた真っ白な空間と、さっきまで感じなかった浮遊感に驚きつつ、視線だけを横に向ける。するとそこには、宵闇の髪と銀色の瞳を持つ美少年が胡座をかいて座っていた。
樹は目を瞬かせて、どこかで見たことがあるような気がするなと思いながら、
「……あなたは誰ですか?」
と訊ねてみる。すると少年は、キョトンとしたあと、けらけらと楽しげに笑い出した。
「なんだい、おまえ。暫く会わないうちに、殊勝な態度を取るようになったじゃないか。感心、感心。そうやって下手に出るのが、おまえら人間には似合ってるよ」
そう言って、満足そうににんまりと笑った少年の顔を、樹は信じられない思いでまじまじと見つめる。
(うわぁ……ウザ。こいつ、信じらんねーほど態度わる……)
樹がうんざりしながら心の中で悪態をつくと、まるで心の声が聞こえたかのように、少年の表情が不機嫌そうなものに変わっていった。
「……やっぱり、いまのナシ。おまえ、前とちっとも変わってないね。相変わらず生意気。……あーあ、なーんか面倒くさくなっちゃったなぁー。やっぱり殺しちゃおうかな。コイツ」
空中で優雅に足を組み替えながら、物騒な台詞をさも簡単に口に出した少年を、樹は信じられない思いで眺める。そして、まさかと思いながら、頭に浮かんだ名前を口に出した。
「あなたもしかして、タナトス……ですか?」
「おっ! やーっと思い出した? 遅いよー。遅い遅い。うっかり魂、刈り取っちゃうところだったよー」
そう言いながら、タナトスが指を振ると、タナトスの身の丈以上の大きな鎌が現れた。
(ひえっ。マジヤバイじゃんこいつ! ビ、ビオスさん! 早く来てくださいビオスさん……!)
不敵な笑みを浮かべるタナトスからじりじりと後退しながら、樹は必死に両手を擦り合わせる。すると――
「こらーっ! まーた転生者さまを怖がらせて! いい加減立場をわきまえてくださいっ」
絶妙なタイミングで、樹とタナトスの間に割り込んで来たのは、宵闇の長い髪と銀色に輝く瞳を持った少女――ビオスだった。
「ちぇっ。わかったから怒らないでよ、ビオス〜!」
「怒っていません。呆れているんです!」
樹を放置したまま、喧嘩(?)を始めてしまった二柱の神の姿を、遠巻きに観察してみる。
「……タナトスとビオスって、容姿がそっくりですね」
そう呟いた声が耳に届いたのか、タナトスに
「わたしとタナトスは双子神ですからね。初めてお会いした時は、タナトスが早乙女樹さまの肉体に憑依して遊んで……ごふんげふん! ええっと、つまり、この姿がタナトスの本来の姿なんです」
「へ、へぇ〜」
一瞬、看過してはいけない単語が聞こえた気がしたが、神々の戯れにいちいち付き合っていられないので、樹は「なるほど、そうだったんですねー」と適当な相槌を打って、会話の主導権を取り戻した。
「ところでビオスさん。俺は死んだのでしょうか?」
肩を落としながらそう訊ねると、ビオスは樹の側までやってきて、ふるふると首を左右に振った。
「樹さまの魂は、寸分の狂いなく、いまの肉体に定着しておられます。生まれつきの心疾患を治してさしあげることは出来ませんが、心穏やかに過ごしていれば、それなりに長生き出来るはずです」
優しい微笑みを浮かべながら、「安心なさってください」と言ってくれたビオスに苦笑いを返しつつ、樹は「目覚めたくない」と口にした。
「なぜですか?」
純粋な気持ちで聞いてきたのだろうビオスに、樹は肩をすくめてみせる。
「結論から言うとですね。梗一郎さまと添い遂げるために、彼の妹の椿子さまを犠牲にしてもいいのかな? ……っていう話なんですけど」
そこまで口に出してビオスに視線を向けると、ビオスは軽く頷いて、話の続きを促してくれた。
「今朝、そのことで梗一郎さんと揉めたんです。俺は――」
「あー、見てたよそれ。人間って本当に馬鹿な生き物だよねー。手に入れたいものがあるなら、何を犠牲にしてでも手に入れればいいのに、まわりのことばっかり気にした挙句、一番大切なものを傷つけちゃうんだもん。本当に愚かだよねー」
「いますぐに黙りなさい」
「はーい」
ビオスはタナトスをひと睨みしたあと、ハァとため息をついた。そして申し訳無さそうな表情を浮かべたが、樹にタナトスを非難するつもりは毛頭ない。むしろ核心を突かれてしまい、なにも言い返せず、苦笑いを浮かべることしか出来なかった。するとビオスは樹の手を取り、慰めるようにぎゅっと握りしめた。
「あの……ビオスさん……?」
「タナトスの言い方は悪いですが、言っていることは正しいと思います。……樹さまは間もなく目を覚まされます。あなたの側には愛する人がいるはずです。樹さまは、すぐにでも選択を迫られる……。どうなさるおつもりですか?」
真剣な表情と声音に問われ、樹は、見た目よりも温かいビオスの手を見つめながら口を開いた。
「おれ……俺は、梗一郎さまを誰にも渡したくない。例え世間に噂されようとも、椿子さまの人生を犠牲にしてでも、梗一郎さまと離れたくない! でも、でも――むぐっ」
言葉を続けようとした樹の口元を、タナトスが塞いだ。
「でも、でも、でも、ってうるさいなぁ。答えは決まってるのに、良い奴ぶるんじゃないよ。おまえは一度、自分の心の選択に従わなかった。その結果、一番大事な人間を傷つけてしまっている。おまえが、大して大事にしていない人間のために、良い子ちゃんを演じた結果はどうなった? ……死にかけて
「タナトス……!」
「ビオスは黙ってて。お前が良い子ちゃんぶったせいで、たくさんの人間が巻き込まれて、心配して、悲しんで、お前の目が覚めるのを切実に待ってるんだ。もう十分、周りを不幸にしてんだよ、おまえは。……だからおまえは、自分自身のことと、一番大切な奴のことだけを考えろ。いくら、ぼくとビオスが守護してるっていっても、人間なんてあっという間に死んじゃうんだからさ。短い人生なんだし、一度くらいはわがままになってみてもいいんじゃないの?」
そう言って、タナトスは樹の口元から手を外すと、どこからか取り出したハンカチで手のひらを拭いながら消えていった。
その後姿を静かに見送ったビオスは、樹に向き直って目を丸くしたあと、フフッと含み笑った。
「……タナトスの無礼な態度も、役に立つことがあるんですね。――さあ、樹さま。お目覚めの時間です。もうここに来てはいけませんよ?
樹は溢れる涙をそのままに、こくんと頷いて、光の粒子となって消えていった。