「樹さん……!」
プツリと糸が切れた人形のように前に
「きゃあっ、椿子さん!」
くっつき虫のように梗一郎の腕にくっついていた令嬢――
しかし梗一郎にとってはどうでもいいことで、撫子を
「樹!」
椿子の胸の中から抱き起こした樹の顔面は蒼白で、手袋を外して頬に手を当てると氷のように冷たかった。だというのに、だらだらと冷や汗をかいており、紫色の唇からはヒューヒューとかすかな喘鳴音がする。
「樹は心臓が悪い……椿子、早く医者を!」
「はい、お兄さまっ」
すぐさま身を翻して大広間に入っていった椿子を背中で見送り、梗一郎はいまにも死んでしまいそうな樹の身体を横抱きに抱きかかえた。そうして急いでその場を後にしようと振り返った先に、撫子が立ちふさがった。
「梗一郎さま。その御方はどなたですの?」
「……申し訳ないが、悠長に説明している暇はない」
梗一郎は眉根を寄せて、冷たく言い放つ。
しかし撫子には
途中、梗一郎を引き止める花ヶ前家当主――父上の声が聞こえた気がしたが、梗一郎はそれすらも無視して階段を駆け上がった。
「お坊ちゃま……? さっ、早乙女さん!?」
階段の踊り場で女中の花と出会い、梗一郎は動揺する花に、水と手ぬぐいを持ってくるように言いつけた。そうしてようやくたどり着いた樹の部屋の扉を開け、綺麗に整えられたベッドの上に樹の身体を横たえた。
「ぅ、うぅ……」
「樹……!」
意識が戻ったかのように思えたが、樹は苦しそうに身を捩ると、再び意識を失ったようだった。
(心臓が悪い者は、何度か大きな発作を起こすと死に至ると聞く。まさか、樹はこのまま……)
梗一郎は悪い考えを振り切るように、ブンブンと頭を左右に振った。
「スペイン風邪から生還したんだ。今度もまた大丈夫――」
そこまで考えて、梗一郎はハッとした。
(そうだ。樹は……早乙女樹は、)
――スペイン風邪で死んでいる。
現実を思い出した瞬間、梗一郎の顔からサァッと血の気が引いていく。それからよろよろと後退し、
パリーン!
と陶器が割れる音が廊下にまで響き渡り、手桶を抱えた花が顔色を変えて室内に飛び込んできた。
「大丈夫ですか!?」
花は、絨毯の上に散らばった花瓶だったものの残骸に目を丸くしたのち、西洋箪笥に寄りかかって額を押さえる梗一郎に駆け寄った。
「お坊ちゃま! いかがされました!?」
手桶を脇に置きながら心配そうに訊ねてきた花に、「私は大丈夫だ」と伝える。それから梗一郎は気を失ったままの樹に視線を移し、
「……樹を夜着に着替えさせてやってくれ」
と言った。それに頷いた花の後ろ姿に、「医者はまだか?」と訊ねると、
「家令が下男に命じて、車でお迎えに行かせました。お医者さまの診療所はお邸から近いですから、もうすぐ到着されると思います」
と、答えが帰ってきた。
「そうか……」
と漏れ出る呼気と一緒に呟いた梗一郎は、その場にずるずると崩れ落ちた。それからぼんやりと霧がかった頭で、ひたすら樹の無事を願った。
(こんなことになるなら、あんな子供じみた態度を取るのではなかった……)
今更後悔しても遅いと分かっていても、後悔せずにはいられない。
……梗一郎は分かっていた。
樹は優しい男だ。
椿子の婚約の裏を語れば、罪悪感に襲われて、椿子の犠牲を
(樹の口から、私の存在を切り捨てるような言葉が出てきて、怒りと悲しみに我を忘れてしまった。そして、今夜のことで樹を傷つけ、発作を起こすまで追い詰めてしまった……)
「このまま樹が死んでしまったら、私は……」
「そのようなことを考えてどうするのです! しっかりなさってください、お兄さま!」
いつの間にか目の前にしゃがみ込んでいた椿子に身体を揺さぶられ、梗一郎は思考の泥濘から抜け出した。
「……椿子」
「お医者さまがいらしてくださいましたわ。ほら、ご覧になって、お兄さま」
椿子に促されるまま、のろのろと頭を上げると、花ヶ前家の主治医と看護婦が樹の診察を行っていた。
「いつきは……樹は、助かるのか……?」
誰にとも無く呟いた言葉に反応したのは医者だった。
「かなり大きな発作でしたが、即効性のある注射を打って落ち着きました」
「よかった……」
「ですが、予断を許さない状態です。これから点滴を導入しますが、いつ目覚めるかはご本人の体力次第でしょう」
難しい顔をしてそう言った医者の言葉に、「そんな……!」と花と椿子が悲痛な声を上げた。一様に顔を曇らせた面々を見回して、医師はコホンと空咳をする。
「あのスペイン風邪から回復された御方です。今回もきっと無事に目を覚まされるでしょう」
「そ、そうですわよね」
「はいっ。早乙女さんなら、きっと目を覚まされます!」
そう言って、互いに励まし合う椿子と花の姿を、梗一郎は複雑な気持ちで眺めた。
……仏の差配で転生した樹。
(樹は、椿子に肖像画を渡したことで、務めを果たした気がすると言っていた。だとしたら、役割を終えた樹は……)
そこまで考えて、梗一郎はぐっと目蓋を閉じた。
「……そうだね。大丈夫だ。樹は必ず目を覚ます。大丈夫、大丈夫だ……」
自分に言い聞かせるように何度も同じ言葉を呟く。
「お兄さま……」
椿子が痛みを堪えるような表情を浮かべて、梗一郎の肩に手を置いた。
逞しく包容力を感じさせる広い肩は、もう一度愛するものを失うのではないかと、恐怖に震えていた――。