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第22話 婚約?

 すれ違う使用人たちの驚いた様子を無視しながら、樹はただひたすらに大広間を目指した。


 途中、何人かの人にぶつかった気がするが、謝罪も忘れてよろよろと大広間にたどり着く。


 本来、招待もされておらず、身分も無い樹は舞踏会パーティーの会場に足を踏み入れることは許されない。


 しかし今夜は招待客が多く、大広間の扉は全て開放されており、樹は客人たちに紛れてホールの中央に歩を進めた。そして――


(こ……うちいろう、さま)


 ホールの中央で、一対のオルゴール人形のように優雅に踊る梗一郎と、可憐なイブニングドレスを身に纏う小柄な淑女の姿を呆然と見つめる。


 すると、大勢の観客の中から樹の姿を目に捉えた梗一郎が、驚愕に目を見開くのが見えた。


 樹はそのことに歓喜し、梗一郎の名前を呟いて一歩前に歩み出す。


 しかし梗一郎は、気まずそうな表情を浮かべたあと、ふいと樹から視線をそらしてしまった。


「え……?」


(梗一郎さまが、俺から目をそらした……?)


 通常ならばありえない梗一郎の行動に、樹の頭が真っ白に染まる。その場に縫い留められたかのように呆然と立ち尽くす樹の肩を、誰かがくいっと掴み、ハッとした樹は後ろに顔を向けた。


 そこに立っていたのは、鮮やかなあかいドレス姿の椿子だった。


 書生姿の混血児あいのこと、今夜の主役である華やかな装いの椿子の組み合わせに、波紋が広がるように招待客たちがざわめき始める。


「椿子さま……」


「樹さん、ちょっとこちらにいらしてくださいまし」


 そう言った椿子に腕を引かれ、樹はバルコニイへ連れ出された。


 未だ衝撃から立ち直れないでいる樹を隠すように、椿子はカーテンを閉めて、バルコニイの隅へと樹を誘導する。そうして会場の喧騒から逃れると、椿子は樹の両肩を掴んで、樹の顔を覗き込んだ。


「樹さん、樹さん? しっかりなさってくださいまし」


 そう言って軽く揺さぶられ、樹はのろのろと頭を上げた。


「椿子さま……おれ……」


 樹は一人称を取り繕うことも忘れて、焦点の定まらない目で椿子を見つめる。そして、梗一郎によく似た椿子の顔を見て、樹の胸がズキンと強く痛んだ。


 ズキズキと痛む胸を合わせ目の上から鷲掴み、樹は嗚咽をもらす。


 そんな樹を、椿子は傷ましそうに眺めて、はぁとため息をついた。


「……樹さん。信じられないかもしれないけれど、今夜のことは、わたくしもお兄さまも存じ上げなかったんですの。全てお父さまの独断……。ですが、有名人や名だたる貴族の面々。そして貴族院の方々もいらしていて……『なにも知らなかった』『この婚約は無効だ』ということには出来そうにないんですの」


 樹は、椿子の苛立ちが滲んだ表情を愕然と見つめて、「そんな……」と声をもらした。


「樹さん……」


 椿子はいまにも倒れてしまいそうな樹を、休憩するために設置されている椅子に座らせて、自分はその場にしゃがみ込んだ。そして、樹の顔を見上げ、鎮痛な面持ちで樹の肩を撫でさすった。その優しさと、手袋越しに伝わる温かな体温に、樹の涙腺は崩壊した。


「うっ、うぅ……ぅ」


「樹さん……泣かないでくださいな……」


 愚図る子どもをあやすように、椿子は樹の頭を抱きしめて、華奢で頼りなげな背中をぽんぽんと叩く。


「……大丈夫。きっと大丈夫ですわ。いますぐには難しいと思いますけれど、お兄さまも預かり知らなかったことですから、きっと婚約破棄なさるはずです」


 椿子の優しい慰めの台詞に頷こうとして、樹は今朝の梗一郎の言葉を思い出した。


『樹の気持ちはよくわかった』


 そう言って梗一郎は、諦めたような、失望したかのような表情を浮かべて、樹に背中を向けたのだ。


 そして樹の胸に疑問が湧き上がる。


 ――梗一郎は本当に、なにも知らなかったのだろうか?


(もしかして梗一郎さまは、今夜の婚約発表のことを知っていて、『離れないでくれ』なんて言ったんじゃないのか? 椿子さまの仰るとおり、ご当主さまが勝手に決めたことだったとしても、すぐに覆すのは難しい……。でも、必ずなんとかするから、信じてほしいって……そう言いたかったんじゃないのか?)


「……そうだとしたら、おれは、」


 樹は胸の痛みが増していくのを感じながら、ほんの僅かでも、梗一郎から離れていこうとした自分を責めた。


(梗一郎さまが婚約したって聞いて……俺じゃない、別の誰かと一緒にいる姿を見て、こんなに苦しくて辛いのに。おれは、俺はなんで梗一郎さまから離れられるなんて思ったんだ……?)


「はぁ……はぁ……おれ、おれ……は、」


「……樹さん?」


 ヒューヒューと喘鳴音をもらしながら身体を傾けた樹を、椿子が慌てて抱きしめる。


「樹さん? 樹さん!? 大丈夫ですの、樹さん!?」


 焦った声で呼びかけながら樹の背中をさする椿子に、なにか言わなければと口を開いた、そのとき――


「そこでなにをしている?」


 聞き慣れた梗一郎の声に、朦朧とする意識の中で、なんとか視線を向けた。


 しかしそこに立っていたのは、秀眉を吊り上げた梗一郎と、その腕に親しげに寄り添う令嬢だった。


(ああ……こんな梗一郎さまの姿、見たくなかった……)


 樹はそう強く思いながら意識を手放したのだった。



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