画塾から邸に戻ると、
(梗一郎さまもあの中にいらっしゃるのかな……)
自分とは異なる世界の住人たちと、親しげに話す梗一郎の姿が容易に想像できてしまい、樹は疎外感を感じずにはいられなかった。
樹はふぅとため息を吐くと、招待客たちを尻目に、まっすぐアトリエへと向かった。そうしてアトリエに到着した樹は、洋風平屋の建物の扉を開けて板張りの床に土足で上がり、大きな窓に掛かった重たいカーテンを開ける。すると、薄暗かった室内がパッと明るくなり、
「まぶしっ」
樹は蒼穹に似た碧眼を反射的に
チカチカと明滅する視界を元に戻そうと、何度も瞬きをして目元を擦る。そうやって一つのことに意識を集中させていたせいで、樹はアトリエに入ってきた人の気配に気づくことができなかった。そして――
「久し振りだな、樹」
深みのある渋い声がアトリエに響き、樹は焦って後ろを振り返った。逆光ではっきりとした表情を読み取ることはできなかったが、男性の洋装と
樹は、実際には初めて会う男性に、
「叔父さん……?」
と声をかけた。すると男性は、
「おやおや。最後に会ってから、まだ一年も経っていないのに、師匠の顔を忘れてしまったのかな?」
と言って、はははと
「お、叔父さんってば、からかわないでくださいよ……! そんなことより、いつ
「ひと月ほど前だよ。……樹、すまなかったね。お前が大変なときに側に居てやれなくて」
「叔父さん……」
「
そう言って涙ぐむ叔父の姿に、樹は居心地の悪さを感じながら、このときばかりは必死に早乙女を演じたのだった。
*
叔父の留学話に花を咲かせていると、本邸の方から
「おお、これはいけない。もう
慌てて
「樹は参加しないのかい? 今日はなにやら、重大な発表があると聞いていたのだが。お前は……」
「僕は参加しません。ご当主さまによろしくお伝え下さい。……久し振りに叔父さんと話ができて楽しかったです」
「そうか……。いや、なに、私も楽しかったよ。それでは行ってくる」
「行ってらっしゃい」
樹は叔父を笑顔で見送ると、ふぅと小さく息を吐いて本邸の方角を見つめた。
(重大発表、か。きっと、椿子さまのご婚約の件だな)
ふと、脳裏に今朝のやりとりが蘇り、樹は肩を落として椅子に座り込む。
「梗一郎さま。顔を見に来てくれなかったな……」
「……気晴らしになんか描くか」
そうひとりごちて筆を手に取った時、かすかに玉石を蹴る音が聞こえた気がして、樹は扉の方を振り向いた。すると――
「早乙女さんっ!」
勢いよく扉が開き、お下げ髪の少女――椿子の専属女中である花が現れた。
「花さん? そんなに慌ててどうしたんですか? 椿子さまと一緒に大広間にいたんじゃ――」
「そんなことはどうでもいいんですっ」
いつも静かで気弱な花らしくない、切羽詰まった叫び声に驚いた樹の肩がビクッと跳ねる。
(な、なんなんだ……?)
樹が目を白黒させていると、大広間からアトリエに急いで駆け込んできたのだろうか。肩で息をしていた花が、呼吸を整えながらふらふらとアトリエに足を踏み入れ、樹の目の前で
驚いた樹は花に駆け寄り、大丈夫かと手を伸ばす。すると花は、樹の手を
「さ、早乙女さんっ! 大変なんですっ!」
「! 椿子さまの身になにかあったんですかっ!?」
咄嗟に花の両方を掴むと、花はブンブンと首を左右に振り、樹の手首を掴んだ。
「お坊ちゃま……お坊ちゃまが……!」
まさかの梗一郎の名が出てきて、樹の顔に焦りが滲む。
「梗一郎さまになにかあったんですか!?」
ポロポロと泣き崩れる花の肩を揺さぶると、花は力なくこくこくと頷いた。
「お坊ちゃまが……」
「梗一郎さまが!?」
「……ご婚約、されてしまいました……っ」
「――え?」
一瞬にして、周囲の音が消え去り、樹は暗い穴底へ突き落とされたような感覚に陥る。
(こ……いちろうさま、が……婚約……?)
樹は支えを無くした苗木のように、ふらりと板張りの床にへたり込んだ。
「そ、そんな……嘘だ……」
(だって、梗一郎さまはひと言だってそんなこと――)
樹の思考を読んだように、花が樹の肩を掴んで揺さぶる。
「早乙女さん、しっかりなすって! どうやらご当主さまは、このことを黙っておられたようなんです……! わたしとお嬢さまも、さっきご婚約者さまの存在を知りました……!」
そう言って、花は樹の両肩から手を離し、ポロポロと
「わ、わたしはお嬢さまに言われて、急いでここへ来たんですっ。早乙女さん! 早く大広間へ行ってください!」
「あ、ああ、うん……!」
樹は戸惑い上手く状況を飲み込めずにいながらも、花の剣幕に背中を押されて、急いで大広間へと向かった。