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第21話 叔父

 画塾から邸に戻ると、花ヶ前はながさき邸はまだ日も暮れぬうちから、全身を飾り立てた老若男女たちで賑わっていた。


(梗一郎さまもあの中にいらっしゃるのかな……)


 自分とは異なる世界の住人たちと、親しげに話す梗一郎の姿が容易に想像できてしまい、樹は疎外感を感じずにはいられなかった。


 樹はふぅとため息を吐くと、招待客たちを尻目に、まっすぐアトリエへと向かった。そうしてアトリエに到着した樹は、洋風平屋の建物の扉を開けて板張りの床に土足で上がり、大きな窓に掛かった重たいカーテンを開ける。すると、薄暗かった室内がパッと明るくなり、


「まぶしっ」


 樹は蒼穹に似た碧眼を反射的にすがめめた。


 チカチカと明滅する視界を元に戻そうと、何度も瞬きをして目元を擦る。そうやって一つのことに意識を集中させていたせいで、樹はアトリエに入ってきた人の気配に気づくことができなかった。そして――


「久し振りだな、樹」


 深みのある渋い声がアトリエに響き、樹は焦って後ろを振り返った。逆光ではっきりとした表情を読み取ることはできなかったが、男性の洋装とまとう雰囲気で、誰なのかを察する。


 樹は、実際には初めて会う男性に、


「叔父さん……?」


 と声をかけた。すると男性は、中折れ帽ホンブルグを脱ぎながら、壮齢さの中に愛嬌を感じる――早乙女が年を取るとこうなるのだろうと想像できる――容貌をふわりと和らげた。


「おやおや。最後に会ってから、まだ一年も経っていないのに、師匠の顔を忘れてしまったのかな?」


 と言って、はははとほがらかに笑った。樹はその笑い顔に、不思議と懐かしさを覚えながら、記憶の棚をいそいで漁る。


「お、叔父さんってば、からかわないでくださいよ……! そんなことより、いつ仏蘭西フランスからお戻りになられたのですか?」


「ひと月ほど前だよ。……樹、すまなかったね。お前が大変なときに側に居てやれなくて」


「叔父さん……」


花ヶ前はながさき伯爵から、お前がスペイン風邪インフルエンザに罹ったと文が届いた時は、今生での別れを覚悟したんだよ。私は美術学校ボザールへ通っていたし、すぐに帰国することができなくてね。……しかし、伯爵からお前の無事を聞いた時には本当に驚いたよ。よく、頑張って耐えてくれたね、樹」


 そう言って涙ぐむ叔父の姿に、樹は居心地の悪さを感じながら、このときばかりは必死に早乙女を演じたのだった。





 叔父の留学話に花を咲かせていると、本邸の方から楽団オーケストラの演奏が聴こえてきた。


「おお、これはいけない。もう舞踏会パーティーが始まってしまったようだ」


 慌てて中折れ帽ホンブルグを被り直した叔父は、急いでアトリエを後にしようとして、ふと樹を振り返った。


「樹は参加しないのかい? 今日はなにやら、重大な発表があると聞いていたのだが。お前は……」


「僕は参加しません。ご当主さまによろしくお伝え下さい。……久し振りに叔父さんと話ができて楽しかったです」


「そうか……。いや、なに、私も楽しかったよ。それでは行ってくる」


「行ってらっしゃい」


 樹は叔父を笑顔で見送ると、ふぅと小さく息を吐いて本邸の方角を見つめた。


(重大発表、か。きっと、椿子さまのご婚約の件だな)


 ふと、脳裏に今朝のやりとりが蘇り、樹は肩を落として椅子に座り込む。


「梗一郎さま。顔を見に来てくれなかったな……」


 松脂テレピンの匂いが漂う空間に、樹のもの悲しい囁きが広がり、遠くに聴こえる楽団オーケストラの演奏にかき消された。


「……気晴らしになんか描くか」


 そうひとりごちて筆を手に取った時、かすかに玉石を蹴る音が聞こえた気がして、樹は扉の方を振り向いた。すると――


「早乙女さんっ!」


 勢いよく扉が開き、お下げ髪の少女――椿子の専属女中である花が現れた。


「花さん? そんなに慌ててどうしたんですか? 椿子さまと一緒に大広間にいたんじゃ――」


「そんなことはどうでもいいんですっ」


 いつも静かで気弱な花らしくない、切羽詰まった叫び声に驚いた樹の肩がビクッと跳ねる。


(な、なんなんだ……?)


 樹が目を白黒させていると、大広間からアトリエに急いで駆け込んできたのだろうか。肩で息をしていた花が、呼吸を整えながらふらふらとアトリエに足を踏み入れ、樹の目の前で蹴躓けつまずいた。


 驚いた樹は花に駆け寄り、大丈夫かと手を伸ばす。すると花は、樹の手を一瞥いちべつしただけで、大きな黒ぐろとした瞳に涙を浮かべた。


「さ、早乙女さんっ! 大変なんですっ!」


「! 椿子さまの身になにかあったんですかっ!?」


 咄嗟に花の両方を掴むと、花はブンブンと首を左右に振り、樹の手首を掴んだ。


「お坊ちゃま……お坊ちゃまが……!」


 まさかの梗一郎の名が出てきて、樹の顔に焦りが滲む。


「梗一郎さまになにかあったんですか!?」


 ポロポロと泣き崩れる花の肩を揺さぶると、花は力なくこくこくと頷いた。


「お坊ちゃまが……」


「梗一郎さまが!?」


「……ご婚約、されてしまいました……っ」


「――え?」


 一瞬にして、周囲の音が消え去り、樹は暗い穴底へ突き落とされたような感覚に陥る。


(こ……いちろうさま、が……婚約……?)


 樹は支えを無くした苗木のように、ふらりと板張りの床にへたり込んだ。


「そ、そんな……嘘だ……」


(だって、梗一郎さまはひと言だってそんなこと――)


 樹の思考を読んだように、花が樹の肩を掴んで揺さぶる。


「早乙女さん、しっかりなすって! どうやらご当主さまは、このことを黙っておられたようなんです……! わたしとお嬢さまも、さっきご婚約者さまの存在を知りました……!」


 そう言って、花は樹の両肩から手を離し、ポロポロとこぼれる涙を拭った。


「わ、わたしはお嬢さまに言われて、急いでここへ来たんですっ。早乙女さん! 早く大広間へ行ってください!」


「あ、ああ、うん……!」


 樹は戸惑い上手く状況を飲み込めずにいながらも、花の剣幕に背中を押されて、急いで大広間へと向かった。



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