「……やってしまった」
梗一郎は、自分の腕の中でぐったりと気を失っている樹の顔色を見て、激しい後悔と自己嫌悪に陥っていた。
「このか弱い身体で病と戦い、あれだけ苦しんで、死の淵から生還してくれたというのに」
樹が
一度罹ると助からないと言われている流行病だが、身近に
しかし、自分の命よりも大切に想っている
医師に、「今夜が峠です」と告げられたあとの記憶が定かでない。感染拡大を防ぐため、使用人棟に隔離され、面会することもできず。梗一郎はひたすら仏に祈るしかなかった。
頼むから樹を連れて行かないでくれ。樹の命と引換えに、己の命を差し出すからと。
その願いが届いたのか、樹が峠を超えて意識を取り戻したとの一報を受けた時の安堵感は筆舌に尽くし難い。梗一郎は、頑張って病を耐え抜いた樹を、今まで以上に大切にし、生涯愛し抜くと決めたのだ。だというのに――
(あまりにも愛らしいことをするものだから、つい……)
梗一郎は己の自制心の弱さを情けなく思う。
はぁ、と重いため息をつきながら、樹の華奢な肢体を横抱きにして持ち上げる。そうして、庭園の石畳を踏み締めながら樹の部屋を目指す。
その途中、何人かの使用人に出会ったが、みな勝手知ったる様子で頭を下げると各々の仕事に戻っていった。
――そう。この屋敷の人間で、梗一郎と樹の関係を知らぬものはいないのだ。
(ただ。一番忘れてほしくない
言っても詮無いことかと自嘲気味に笑い、赤い絨毯が貼られた階段を登ろうとした時。
「お兄さま」
と小鈴の音に似た、凛とした声に引き止められた。
梗一郎はやれやれと肩を落として、階段の踊り場を見上げる。そこには、黄色地に桃色のバラが咲く振袖姿の可憐な少女――妹の
「私の可愛い妹よ。怒っていても美しいね」
「ふん! お兄さまのお世辞は聞き飽きております」
「世辞ではなく、本心なのだが」
「でしたら、その可愛い妹が大切に思っているお方に無体を強いるとは、どういう了見ですの?」
言って、軽く頬を膨らませる様子は、リスに似ていて可愛らしい。
(もちろん。一番愛らしいのは樹だけれど)
こじんまりと腕の中に収まっている樹の額に口付けを落とす。すると椿子が「きゃあ」と黄色い声を上げた。梗一郎は、喜色満面の笑みを浮かべる椿子に複雑な感情を抱きながら、
「相変わらずだね。お前は」
と、苦笑しながら階段を上っていく。そうして踊り場で椿子と合流し、三階フロアを目指す。
「あら。『萌え』は、椿子が生きていく為に必要不可欠な栄養分ですのよ。……それなのに、お兄さまったら!」
「はいはい。その話は後で聞かせてもらうよ」
「お兄さまっ。もっと真面目に椿子の話を聞いてくださいまし!」
「わかった、わかった。――ほら、もうすぐ樹の部屋に着くよ」
「! わたくしがドアを開けて差し上げますわっ」
椿子はぴょんと跳んでトトトと小走りすると、樹の部屋のドアを開けて、得意げに胸を張った。
「どうです? 椿子は立派な職業婦人になれましてよ」
「ふふ。そうだね、完璧だよ」
女学院ではマドンナとして有名な椿子だが、梗一郎にしてみれば、まだまだ幼く手放すことのできない可愛い妹だ。
しかし当の椿子は、女中の花から平民の生活を学び、将来は職業婦人として出版社に勤めたいなどと言うから困ったものである。
(由緒正しい伯爵家のたったひとりの令嬢が、職業婦人になれるはずなどないというのに)
「……まぁ、選ぶ道がひとつしかないのは私も同じだが」
梗一郎は囁くように言って、樹をベッドの上に横たえた。
成人した男には見えない、あどけない寝顔を見て、胸がトクンと高鳴る。
――いつかは、妻を娶らなければならない。
梗一郎とてそんなことは重々承知しているが、樹に恋をし、愛してしまったのだ。今更この愛おしい恋人と別れることなど出来はしない。お互いが白髪になるまで共に生きていきたいと願っている。
(私も椿子を見習って、この家から去るための努力をするべきだな)
スヤスヤと静かな寝息を立てる樹の、わずかに開いた赤い唇に、羽のような軽い口付けを落とす。
「まぁ、お兄さまったら! 寝込みを襲うなんて紳士として最高ですわ!」
「建前と本音が混ざってしまっているよ、椿子。――さぁ、ここで騒いで樹を起こしてはいけない」
「はっ! そうですわね。……おやすみなさいませ、樹さん。一日も早く元気におなりになって」
そう小声で言った椿子の頭をひと撫でし、樹の部屋から出ると、ゆっくり静かに扉を閉めていく。そうして名残惜しく思いながら、
「おやすみ、樹。良い夢を」
そう言って扉を閉めたのだった。