樹は早乙女が着ていたであろう紺色の着物の上に、梗一郎が用意してくれた茶の羽織――冷えるといけないからという配慮で――を肩に掛け、二人並んで庭園のバラを見に来た。朝露に濡れる色とりどりのバラたちは、まるで宝石を身にまとった貴婦人のように美しく、気高くそして可憐に咲き誇っていた。
「うわぁ~!」
美しく整えられた庭園と、美しさを競い合うように微笑みかけてくるバラたちに、樹は感嘆の声を上げる。その様子を微笑ましく見ていた梗一郎が、
「気に入ったのならば、近くで見てくると良い」
と言ってくれたので、樹は遠慮なく花園に小走りで駆け寄った。そして、数あるバラたちの中でも一際目を引く赤バラに近づくと、ベルベットのように柔らかな花弁を指先で撫で、その甘い香りを肺いっぱいに吸い込んだ。
「ん~、いい匂い」
そう言ってうっとりしていると、背後からクスクスと含み笑いが聞こえてきて、樹は中腰のまま後ろを振り向いた。
「梗一郎さま。何故お笑いになられるのですか?」
本気で不思議に思って問いかけると、梗一郎は微笑みを浮かべたまま、優しい眼差しを向けてきた。
「ん? いや、ね。記憶を失う前のそなたも赤バラを一番好んでいたから。私との記憶を失っても、樹は樹なのだなぁと思ってね」
梗一郎は樹の隣に立つと、樹と同じ目線になるように腰を曲げ、愛おしくてたまらないといった風に笑った。そのとき樹は、梗一郎の黒で縁取られた焦げ茶色の瞳が甘くとろけているのを見てしまう。その瞬間、心臓がドクンと大きく拍動したのを感じた。
(あ、あれ? 俺、どうしちゃったんだ? 梗一郎さんから目が、離せ、ない……)
鼓動が早くなるにつれて、樹の顔や耳が赤く色づいていく。呼気が熱くなり、唇が赤く色づきだした頃に、梗一郎の鼻が樹の頬を擦って――
ガッタン!!
突然、大きな物音がして、樹と梗一郎は同時に顔を上げた。その視線の先には、バルコニーで尻もちをついている椿子と、彼女をあわてて介抱する、椿子の専属
大丈夫だろうかと眺めていると、樹の視線に気がついた椿子と花は、顔を真っ赤にしてわたわたと室内に入っていった。
「……なんだったんでしょう。いまの」
「いや。気にしないでおくれ……」
そう言って梗一郎は、左手で顔を覆いながら大きなため息を吐いた。そんな梗一郎を一瞥し、「はぁ……?」と気の抜けた返事をした樹は、ゆっくり背筋を伸ばすと、バラを観察するフリをして梗一郎から距離をとった。
「ワー。コノシロバラモキレイデスネー」
などと言いながら、梗一郎から距離をとることに成功した樹は、サッとしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
(なーにやってんだ俺はーー! 危うくキ、キ、キスしちゃうとこだったじゃねーか!! いくら梗一郎さんが、滅多に見られないイケメンだからって、簡単に唇を許しちまいそうになるなんて。俺はオトコ! 好きなのはオンナノコ!)
だが、少しだけ興味はあった。もしあのとき邪魔が入らなければ、本当にあのまま、梗一郎とキスしていたのだろうか、と。
(……梗一郎さんって、今でも十分かっこいい容姿してるけど。軍人さんの割に痩せてる……つーか、やつれてる? んだよなぁ。まぁ、早乙女のことが心配だったせいなんだろうけどさ。独り立ちできるまで、花ヶ前家でお世話になんねーといけないんだし。なんとか元気づけてあげたいけど……)
うんうん考えていた樹は、突然、ハッと閃いた。
(いつも梗一郎さんから仕掛けてくるから、俺の心臓がおかしくなるんだ! だったら俺の方から仕掛ければ、多分ダイジョーブ!)
樹は――全然、全く、これっぽっちも大丈夫じゃない――作戦を実行するために、白バラを一輪手折った。それからその白バラの香りを楽しみながら、上品に歩いて梗一郎の隣に戻ってきた。
バラの生け垣の前に座り込み、未だに立ち直れていない梗一郎の肩を、樹は人差し指でツンツンとつつく。
「ん? ……ああ。どうしたんだい、樹」
そう言って、樹の方を向いた梗一郎の唇に、手折ってきた白バラの花弁を一瞬だけ押し付ける。
「んむっ。……な、何をするんだ樹」
「ふふふ。何をすると思います?」
樹は右手の白バラを得意げに見つめた。そして――
「こうするのです。――ちゅっ」
「!!」
「ふふ。キ……口づけ、してしまいましたね? これは『間接口づけ』と言いまして……」
(……間接口付けってなんだ、語呂が悪すぎだろ。でもキスって言って通じなかったら面倒だしな)
などど、樹が心中でツッコミを入れていると、元気そうだった梗一郎の身体が前方にゆっくり
ドサッ! と石畳の上に倒れ伏してしまった。
「……こ、梗一郎さま? 梗一郎さま!? 大丈夫でございますか、梗一郎さま!!」
必死に声をかけ続ける樹の手を、梗一郎のがっしりとした手が握りしめた。
梗一郎の意識があることにホッとした樹だったが、掴まれた手をぐいっと力強く引っ張られ、梗一郎の胸の中に倒れ伏した。
「いてて……。梗一郎さまどうし、……っ、んむ……っ」
「はぁ……っ、ちゅっ……は……いつき……ん、ふ」
いきなり濃厚な大人のキスをされて樹は混乱する。そして息苦しさに耐えかねて、厚い胸板を叩いた。すると、最後に思う存分、舌を吸われ、唾液を嚥下される。そうして解放された樹は、足腰が立たなくなっており、くたりと梗一郎にもたれ掛かった。
(吸われ過ぎた唇と舌がヒリヒリする……)
樹は陶然と思いながら、梗一郎に対する嫌悪感の認識を間違っていたことに、ようやく気がついた。
(オレ。気持ち悪かったわけじゃなくて、気持ちよくてゾクゾクしてたんだな……)
これで、梗一郎との仲はなんとかなりそうだと安堵できた反面。未知の世界への恐怖と、男としてのプライドが、素直に身体を差し出すことを拒んでいる。
「……これから、どう……しよう」
囁くように言って、樹は梗一郎の胸の中で意識を手放したのだった。